4・謎の少女
「さて、それではこっからどうすっかねー」
村の外れで、メビウスは草原へと続いていく細い道を眺めながらぼやいた。ここに着くまでに出会った村人に聞き込みはしたものの、ここのところ魔獣の話はとんと聞かない、とみな口裏を合わせたのかと思うほどに同じことを言う。平和で困ることはないが、いまの世界中での隙間発生率から考えるとやはりこの辺りは少しおかしいのかもしれない。
「どうすっかねーって。調査続行でしょう?」
「でもこの先、落ち着ける場所がないだろ。このペースだと、道の途中で日没になっちまうぞ。やっぱり今日は、いったん帰って――」
「わたしなら、大丈夫。足手まといには、ならないから」
「いや、無理はしないほうが」
「坊ちゃん。過保護も過ぎると鬱陶しいって嫌われますよ」
「……ぐッ。人の足元を見やがって。わかった、じゃあ進むけど無理はしないこと。疲れたらちゃんと言うこと。どーしても足が動かなくなったら素直に抱っこされること」
「最後が言いたかったのバレバレですし、すでに過保護が過ぎてます。ソラさんだってそう思うでしょう?」
「無理しないっていつも言うけど、わたしはメビウスのほうが無理と無茶してると思う」
「いや、だから、オレはいーんだって」
「おや、言うようになりましたね。その調子で坊ちゃんを抑制してくれると、僕としても助かります」
「お前な! あーもう! じゃ、さっさと進むぞ!」
小さな肩を怒らせて大股で進んで行くメビウスの揺れる三つ編みを目にしながら、ウィルとソラは一瞬顔を見合わせ、軽く笑ったのだった。
遠くの空を、すぅっと鳥が飛んで行く。
歩けど歩けど代り映えのしない緑の海原。馬車がようやく通れる程度の、整備されているとはお世辞にも言い難い石ころだらけの道。振り返ってもとっくに村は草原に飲み込まれていて、下手するとどちらを向いて進んでいるのかわからなくなるほど同じような景色がずっと続いている。
それにしても、とウィルは見渡す限り続く広大な草原を目の前にして呟いた。
「これだけ広い場所で、なぜ昔から隙間発生が少なかったのでしょうね。実際目にすると、いまの状況よりいままでの状況のほうが不思議に感じてしまいます」
「それについては、一応結論出てるじゃねーの」
いまさら? といった空気が口調から溢れ出ている。ソラはきょとんとして、意外そうに質問を口にした。
「この辺り……隙間、少ないの?」
「うん。かなーり前に、ここで魔獣がたくさん死んだことがあってね。当時は瘴気で汚染されたから、隙間の発生率も、こっちの動物が魔獣になる確率も上がったんだけどさ」
メビウスはなぜか渋面になり、一度言葉を切った。ちらりとウィルに視線を送る。が、青年はその視線に気付きつつも口を開く気配がない。仕方がなく、少年があからさまにため息をついて続きも引き受けた。ただし、説明は最低限でかなり雑だ。
「神族を崇めてる人間、ってのが一定数いるんだ。魔法を教えてもらったからだとかまあ色々言われてるけど、実際のところは知らねえな。ま、そいつらがさ、強力な浄化の儀式を行ってここら一帯をきれいにしちまったってわけ。それ以来、この辺りには隙間が発生しにくいだの魔獣が寄り付かないだの、そういうのが定説になってんだ」
「浄化……」
夜空色の瞳はどこか遠くを見つめ、声がぽつりともれたことも気が付いていない。少女の顔が少しだけ険しくなっているのを目にとめて、メビウスはあえて明るい声を出す。
「どしたの? 気になることでも、ある?」
問われ、ソラは迷いなくこくんと首を縦に動かす。
「あまり、よくない。嫌な気配がするの」
ソラが見つめている方向に目を凝らすが、彼の太陽の双眸にはのどかな平原が映るのみだ。メビウスはすぐに、自分には見えないものを見ることを諦めた。
「ふーむ。オレにはよくわからないけど。ソラちゃんがそう言うんだったら、いまの状態は嵐の前の静けさってやつ、なのかもしんねーな」
「坊ちゃん……。そういうのは、口に出すと本当になるって言いますよ」
「まったく、ウィルくんは迷信深いですなあ」
大げさに肩をすくめて首を横に振ろうとし――ソラが見つめている先でなにかが動いた気がして、メビウスは瞳を眇めた。
嫌な気配が、確かに、する。
メビウスにとってはもう慣れてしまった気配。すなわち、瘴気。
「案外、迷信ってやつは当たりますよ」
「あー。ま、今回に限っては、当たって良かったかも」
「確かに。魔獣を見つけないと、なにもわかりませんからね」
「そゆこと。さすがだね、ソラちゃんは」
「…………」
ソラの表情は硬いままで、返事はない。その様子にどこか不自然さを覚えたが、いまはゆっくり考えているときではない。まずは、魔獣をどうにかしなければ。
「猪が三匹、かな? ウィル、援護頼む!」
得物を抜いて駆け出したメビウスに続き、接続しようとしたソラの気配を感じ、少年は振り返る。
「ソラちゃんは、しっかり見――ッ!?」
魔獣の背後から飛ぶような速さで迫りくるなにかを察し、メビウスは顔色を変えた。
「坊ちゃん、前!」
一気に膨れ上がった瘴気は一瞬で、三匹の猪を軽く引き裂いた。かろうじて詠唱無しで放たれた防護陣がメビウスの前に展開したが、足止めにもならない。ガラスのように砕け散る防護陣のなか、長い赤毛をなびかせてそれは最後尾のソラに向かって迷いなく黒い爪を振り下ろす。
「無視すんなっつーの!」
解放する暇などない。強引にソラの前に割り込むと、背丈にあった短い刀身のまま受け止め、相手のちからを流すように横へ斬りはらう。同時に浄化の光がふわりと舞い、強襲者は光を避けるように振り払われた勢いも利用して後ろへ跳んだ。
「……浄化?」
何事もなかったかのように着地して、首を傾げながら放った言葉。少年とも少女ともつかぬトーンだが、その声には困惑がはっきりと紛れていた。
「いや――そんなもんじゃねえ。さっきのアレは……」
「スフィル!」
ぶつぶつと呟いていた少女の名を傍らの狼が叫ぶがもう遅い。距離を取ってくれたお陰でメビウスはすでに、解放の詠唱を終えている。爆発的な光の奔流が、あっという間に少女の目前に迫りくる。飲み込まれる寸前、黒い狼が彼女を跳ねのけて飛び出した。
刹那。
鼓膜を揺らす重低音が通りすぎ、ヴォンと空気が揺れた。メビウスは反射的に身を翻し、飛ばされないようソラを強く抱きしめる。直後襲った衝撃波は少年のけして広くない背中を強かに打ち付け、金と銀の髪を一緒くたに舞い上げて消えていく。
衝撃波が去った後。振り返ったメビウスが目にしたものは、傷一つなく立ちはだかる狼と、その後ろで呆然と座り込む少女の姿だった。かなり後ろに、消えゆく解放の光が映る。それは、一か所だけきれいに向こう側が見えていた。信じられないがしかし、解放の光をくぐって衝撃波が届いたのだから、そういうことだろう。どっしりと少女の前に立つ狼が、なんらかの手段を使って解放の光を真正面でやり過ごしたのだ。
「……ったく。なんでこんな規格外のが人間界に出てきてんだよ」
思わず呻く。解放時に放出される浄化の光は、彼がブリュンヒルデで扱える広範囲にして最高威力の浄化のちからだ。それを部分的とはいえ打ち消されるとは。
つ、とソラがメビウスの袖を引いた。
「メビウス。あの黒い子、とても魂が強い。あの女の子を守るために、魂を削って浄化の光を、ううん、自分たちに害を成そうとするものを消そうとした。ほとんど浄化と打ち消し合ったからなにも起きなかったけど……」
少女の視線は、少年の握る大きな剣に向いている。
「古来より、犬の鳴き声にはちからが宿る、という話もありますが、そういう類いでしょうか」
「あれ、どー見ても狼だぜ?」
しゃべってるけど、と混ぜ返しながら、メビウスは静かにブリュンヒルデを構えてソラを一歩後ろに下げさせる。その後ろには、ウィルがぴたりとついた。理由は簡単で、狼に守られた少女がゆらりとこちらを見たからである。
赤毛の少女は彼らの――否、ソラの姿を認めると瞬時に立ち上がり、飛ぶような速さで彼女に接近しようとし、メビウスに阻まれた。「ちっ」と舌打ちをして一瞬で位置を変えるも結果は同じである。諦めきれないのかなんども繰り返し、赤毛の少女はとうとう声を荒げた。
「なんなんだよてめえは! おれはその女に話があるんだ!」
「だから引けねーんだっての! 遠慮なくソラちゃん狙いやがって!」
「変な気配を感じたからだよ! いまは感じねーから、なんだったのか確かめたいだけだ」
少女の言葉を聞いて、メビウスはぴくりと片眉を跳ね上げる。変な気配とは、接続のことか。確かに少女が飛び込んでくる前、ソラは成れの果てのちからを使おうとしていた。
あの、肌が粟立つような感覚は、未だに慣れない。人間どころか低級なものなら、魔獣や魔族でも逃げを打つほどの気配だ。あれを浴びて尚且つ向かってくるなど、胆力の強さがうかがえる。
「……アレは。彼女が使っている限り、なんともねーよ」
「それを本人から確かめてーんだよ。あんなもん、魔界でも感じたことないぜ?」
「魔界、ね。ま、そうだろうな。アレは、魔界にはねえだろうな」
魔界にねえから、こんなことになってんだし、と声に出さずに続ける。すると少女はぴょこんと飛びあがって、いままでとは違う好奇心丸出しな声音で叫ぶ。
「うっわなにそれ! 人間界にしかねえちから!?」
「なんだよ今度は! なんっか調子狂うなお前」
妙な勢いに、思わず一歩引いた。少女は期待に目をキラキラさせて返事を待っている。後ろで様子を見守っていた黒い狼が、あからさまにため息をつくと前に出てくる。
「悪かったな人間。互いに狙ったのは猪であろうに、勝手な都合でそちらのお嬢さんを襲おうとしたのは確実にコイツが悪い。ほら、スフィルも謝れ」
渋い声で言うと、スフィルと呼んだ少女に圧し掛かるようにして頭を下げさせた。一連の出来事についていけず、三人は目を丸くして眺めているしかない。「謝る?」とウィルが確かめるように呟いた。
「はいはいはいはいわかったわかった! いきなり襲って悪かった! これでいーんだろ、早く退け! デカいし重いしか弱い乙女の背中に乗るとかありえねーぞ!」
「……なんかあーゆーノリ、どっかで見たことあるような気がしません?」
「……ん? なんだよその目。え、なんでソラちゃんも見つめてんの? 惚れちゃった? うん、ソラちゃんはずーっと見ててくれていーんだぜ。オレもずーっと見てるから」
「すごく、見たことあるような気がする」
狼にまくし立てる少女と、へらへらと口を動かす少年を見比べ。
ソラは、ウィルに向かってこくりと力強く頷いたのだった。