2・消えた魔獣
「……暇だねえ」
カウンターの上に突っ伏しながら、アンナは何度となく呟いた言葉を吐いた。そんな彼女をフィリアが一番奥のテーブルに並べていた売り物を片付けながら「大丈夫ですよ」と、こちらも何度めかわからない励ましの台詞を口にする。
健気な少女に向かってやっとこさ作った笑みを浮かべて頷いてみせたが、なんの情報も貼られていないまっさらな掲示板を見るとため息が止まらなくなる。
晴れて魔獣組合ラゼル支部となったまでは良いものの。
最初は物珍しさから覗きに来る客が増えたが、一週間も経てば皆飽きて顔を出さなくなった。あまりに早い撤退ではあるがそれもそのはず、問題となるような魔獣が現れていないのだから仕方がない。むしろ、現れないなら現れないでそのほうがいいはずなのだが、一度ぐらいは本部との緊迫したやり取りとか、魔獣討伐に燃える男たちに景気付けの料理を振舞ってみたりしたいもんだ、と思ってみたりしているのである。
特定の客しか入ってこないマニアックなランチタイムはとっくに終わり、いまは夜の酒場営業に向けて店主がキッチンで仕込みをしている。彼は、仕込みの間は絶対にアンナを厨房に入れることはしない。元々、娘とはいえ仕事は仕事、と割り切ってホール以外の手伝いはほぼさせていなかったが、ランチ営業の一件以来、輪をかけて頑なになった。
もう幾度目か分からぬため息を吐きかけたとき。
カラン、と扉につけられたベルが鳴り、アンナはぱっと顔を輝かせて振り返り、入ってきた人物を見てやはりため息をついた。
「客の顔見てため息ついたらダメだろ看板娘」
「君は客じゃないでしょ。聞かれる前に報告しとく。今日もなにもなし。そりゃあ見事になあーんにもなし!」
「平和でいーじゃんか。なにをそんなに荒れてんの」
呆れた声でメビウスは問うた。答えはわかり切っているのだが、聞いてやらないとくだを巻き始めるので、まずガス抜きすることにしているのである。
一緒にやってきたソラやウィルとともに、アンナと同じカウンター席に座る。まだ仕込み中の店主に一声かけて水だけ出してもらうと、中身を一気に飲み干した。とん、と小さな音を立ててグラスをカウンターに置くと、店主が気を利かせてさっと中身を満たしてくれる。
「あのさ。君言ったよね。客が増えるって、言ったよね」
じとりと半眼で絡みだす看板娘。
「いーや? オレは言ってねえけど。つーか、自分で言ったんじゃねーか?」
「なんにせよ! 人は増えるはずだったわよねえ! そりゃーね、最初は増えたわよ! でもなんで、一人も客としていつかないわけえ!?」
「そりゃまあ。ランチがヤベーのと、掲示板が誰でも知ってる『ご利用方法』しか貼ってねーからだろ?」
魔獣組合は魔獣被害を最小限に抑えることが目的だ。その為、組合員に登録する必要はない。誰でも気軽に情報を得たり、または拡散するために情報を届けることができる。その場合、珍しい情報などは魔獣組合で買い取るときもある。
そうして集められた魔獣の情報を本部では常に扱い、また近隣地方の支部で注意を促したり、魔獣の情報を開示したりしているのだ。
場合によっては退治依頼として対象魔獣の情報、退治の条件、報酬などを掲示板に貼りだすこともある。倒した証として銀を持ち込めばもらえる報酬は決して低くはなく、腕に覚えのあるものであれば、この魔獣退治を生業にしているものも少なくない。メビウスとウィルも、建前としてはそうなっている。
こういった事柄をまとめているのが『ご利用方法』であり、どこの掲示板にも必ず貼ってあるものだ。
「そもそもですなあ。世界で魔獣が増えて魔族なんてのも出てきちまったから、いままで比較的安全だったこの辺りにも情報発信の場として、支部を置いたほうがいーんじゃねーかって話で。掲示板になにも貼ってねーならその状態がいちばんなんだぜ」
苦笑いを浮かべ、ちびちびと水分補給をしながらアンナを諭す。看板娘も彼が真っ当なことを言っているのは理解できているのか、かくんとちからなく顔を伏せた。
「……そりゃあね。平和でいーじゃんかってのはわかってるわよ。わかってるけどッ」
「……けど?」
「せっかく支部になったからには忙しくしたいじゃない! みんなの頼れる魔獣案内所として、カッコいい魔獣退治のお兄さんたちの憩いの場兼有能な情報提供の場としてッ!」
ダンッ! とコップを跳ね上げる勢いでカウンターを叩いたアンナを、生暖かい目で見守るメビウスとウィル。ソラはすでにフィリアの手伝いに行ってしまっており、そもそも話を聞いていない。清々しい本音っぷりに二人は返す言葉を持たず、しらーっとした空虚な時間がカウンターを支配する。
「あー……いや。やる気があるのはいいことだけど、やっぱり平和がいちばん、だろ?」
「平和じゃないからここに支部を作ったんでしょ?」
「ええまあ。そう言われればそうなのですが」
あー言えばこー言う。引き下がる気配の見えないアンナに、メビウスも投げやりだ。形だけの笑みを貼り付けて、心の奥で深く長いため息をつく。ウィルにしても、同じような心境だった。
「おかしいと言えばおかしいですよ? 魔獣の目撃情報もないというのは」
「うーん。魔獣組合って改まっちまうと、なんとなく話しにくいとか……」
「でも、夜に酔っぱらって魔獣が出たーなんて噂話ぐらい、みんないつでもしてたのよ? そんな噂話すら聞こえてこないなんて、どう考えても不自然よ」
「確かに、その噂話で、オレたちはソラちゃんに会えたわけだしなあ」
「まあ、曲解すればそうなりますか」
いつの間にか、三人そろって難しい顔で黙り込んでいる。ガス抜きのつもりが結局一緒になって頭を突き合わせ、最終的には空きっ腹じゃあ考えもまとまらないと店主の振るう絶品の料理たちでお腹を満たしながらうやむやになってしまうのが、ここ最近の流れだった。
しっかり流れに乗ってしまい、沈黙で満たされる店内。今日も今日とて、このまま酒場の開店とともに晩飯コースへまっしぐらかと思われたのだが。
ガランガランとベルが壊れそうな音を奏でた。扉を壊しそうな勢いで開けた巨漢は、なかを一瞥すると珍しくアンナをスルーして隣に座る少年で視線を止める。
「平和なのはいちばんなんだけどよ。このご時世、平和すぎるのも気持ち悪ィ。クソガキおめーなんか知ってやがんだろ、おとなしく吐いちまえ」
入り口付近の椅子に崩れるように座ったバースは、なぜか疲れ果てているように見えた。
すでに酒場は開店し、昼間とは打って変わって賑やかになっていた。喧騒の中、アンナは看板娘としてホールを忙しく歩き回り、メビウスとウィルはバースを加えていつもはフィリアが店を出している奥のテーブルで料理を囲んでいる。ソラはフィリアの手伝いをしているうちに彼女の作るアクセサリーが気になったようで、ここに来るたび彼女の部屋で作り方を教えてもらうようになっていた。
「で、だ。とにかく足を棒にして周辺を歩き回ってるんだが、どこにも魔獣なんかいやしねえ。隙間は前よりあるくせに、魔族だ? そんなモン、お目にかかったこともねーんだよ。これは一体どういうことだよ」
「いや、どういうことと言われてもなあ」
絶妙にスパイスの効いた豚串をくわえながら、ねえ? と苦笑を浮かべてウィルを見やる。青年がリアクションをする前に、巨漢がどん、とテーブルを拳で叩いた。
「おめーが知らねーことを、俺たちが知ってるわけねーんだよ! それなのに団長がよ、隙間があるなら絶対そっから出てきたやつか、瘴気にあてられた魔獣がいるはずだって言い張って聞かねえんだよ! 見つけるまで給料無しだとか抜かしやがってんだよッ! どーしてくれんだよクソガキッ!!」
「だから、なんでそこにオレが関わるわけ。いやあー、やっぱり店主のスパイスはクセになりますなあ」
「確かに。このバランスは唯一無二。真似の仕様がありません」
「人が真面目に相談してんのに、なにのんきに食ってんだよおめーらは!」
「うーん。探し方がわりーんじゃね?」
「しっかり感知できてます? 魔獣だってもちろん動きますよ?」
「馬鹿にしてんのかおめーら。俺だって瘴気ぐらいわかんだよ。隙間だって見つけたら浄化してんだよ。貧民街にいたら、どーしたって敏――」
「は? 浄化!? お前、浄化の魔法使えんの! 人は見かけによりませんなあ!」
「まったくです」
本気ともわざととも取れぬ態度で本題から逸れた話題を畳みかけてくる二人をぎろりと睨みつけ、自分の短い導火線に火がつかぬよう一度深呼吸をする。新鮮な空気を吸いこんで申し訳程度に頭を冷やすと、バースは努めて静かに話すよう心掛けて口を開く。
「貧民街に長くいりゃあ、誰だってそれなりにはわかるようになる。子供らが瘴気に憑りつかれたら困るからな。魔力の使い道なんて他になかった」
「わかったから遠い目すんな。ウィルもな、しれっと聞き返そうとすんのやめろ」
「そういえば、案外いいひとなんでしたっけね……」
「身内に対してはな。オレはヨソもんだから攫われかけたけど」
「おめーに絡んだのは、人生最大の間違いだったぜ」
「そっか? 順当に更生の道を辿ってるし、良かったんじゃね? フィリアちゃんにだって、胸張って仕事してるって言えるだろ?」
「……クソガキが」
「ま、ソラちゃんに指一本でも触ってたら、更生じゃなくて転生するはめになってたと思うけど」
三本目の串をくわえながら、へらっと普段の笑みを浮かべてさらりと言う。その笑顔に薄ら寒さを感じ、バースは話題の方向を元に戻す努力を始めた。
「俺の更生はともかくだ。問題は魔獣なんだよ、魔獣」
「だから、オレはなにも知らねーっての」
「元々、この地域は魔獣が少ないことで有名でしたが、隙間は見つかっていてなおかついまの状況でまったくいない、というのはまず考えられませんね」
ウィルが瑞々しいサラダを盛りつけながら、半信半疑の声音で返す。自身の皿だけではなく、まったく野菜に手を伸ばそうとしないメビウスの皿にもしっかり乗せると、ジョッキを持った少年から無言で圧がかかるが気にも留めない。
「坊ちゃん、バランスよく食べないと、背が伸びませんよ」
「そうだぞチビガキ。成人っつったって、まだ十五だろ。酒よりミルクだよなあ」
「確かに。坊ちゃんは無駄に飲みますし。身体には良くないですね」
「おう、ひょろひょろ眼鏡もそう思うか。というわけで二対一だ。おめーはこれからミルクを飲め」
「あのなあ、お前らオレのことなんだと思ってんだよ」
「前にも言いましたが。無駄に長生きだけしてる、子供です」
「可愛げのねえクソガキでチビガキだろ」
「おとなしく聞いてりゃ……オレだってしまいにゃキレるぞ」
ジョッキ越しに、見た目だけは年上の二人をじろりと見上げる。感情を消した冷たい太陽の瞳で見上げた後、一気にジョッキをあおると美味そうに破顔した。
「なんてな。こんなことでキレてたらそれこそ身体が持ちませんわ。なあ、ルシオラさん?」
ひらひらと手を振って、酒場中の視線を集めながら歩いてくる魔女へと問う。魔女は「そうだな」と軽く相槌を打ち、テーブルの上に細い指をつけるとメビウスの横で立ち止まった。バースが目のやり場に困りながらも、結局ルシオラの豊満な身体で視線が釘付けになっていることに気が付き、ウィルがわざとらしく咳ばらいをする。巨漢はびくっと目を逸らしたが、どこか落ち着きがなくそわそわとしたままだ。
「で? わざわざきてくれたってことは、なんか情報あるんだろ?」
へらっと口角をあげ、脱線しまくっていた話がようやく先に進むだろうと確信を持って先を促す。
「魔獣がいないわけではない。どうやら、騒ぎになる前に誰かが倒して回っているようだな」
「ほうほう、そりゃまた仕事がはえーな」
「仕事は早いですが、問題はなぜそんなことをして回っているか、ですね。それも、誰にも言わず見られず。隠蔽する必要がないでしょう」
「ここができたの、知らねーんじゃね?」
「ああ、なるほど。いままでは、報告の必要どころか場所もありませんでしたからね」
魔獣組合は誰でも気軽に使えるというのがいちばんの強みではあるが、その分、報告などの義務も発生しない。魔獣の情報を仕入れ、倒したからとて必ず申し出る必要はないということである。
とはいえ、少数の魔獣ならばともかく、地域で一匹も見かけられないほど倒しているのだとしたら不自然に感じても仕方がない。情報にせよ銀にせよ、魔獣組合があるならば魔獣は金になるからだ。
「ってことはさ。そいつを見つけてここができたって教えてやればいーんじゃね? おーいバースくん、聞いてっか?」
解決法話し合ってんだけど、とメビウスがのんきに声をかけるが、彼に情報を求めてきたはずの巨漢は見事に上の空である。
「あ、こりゃダメだわ。じゃ、その先頼むわ。人物特定までできてっとありがてーんだけど」
すぐに少年は諦め、ルシオラに視線を戻した。バースを骨抜きにした魔女本人は、胡散臭い笑みを貼り付けたまま余裕を保っている。
「待て待て。さすがの私も、個人の特定は知っているものしかできん。魔獣のほうは猪系だな。この地方ではよくいるやつだろう」
「ふむふむ? お前がこんな、毒にも薬にもならないような情報だけ持ってくるわけねーよな?」
しらけた視線で魔女を見やった少年と一瞬だけ視線を交わし、ルシオラは弧を描いた赤い唇を開く。
「どこの誰かはわからん。ただ、倒している側からも瘴気が感じ取れた。一瞬だが膨大な、な。つまり」
「魔獣を狩ってるのは、魔族かもしれないってことですか?」
ウィルが簡潔にまとめたが、その質問にはっきりと答えられるものはいなかった。