1・プロローグ
じめじめと湿った、特有の匂いが鼻をつく。
いつの間にか嗅ぎ慣れたこの匂いは――と結論を出す前に、自身の身体がしとどに濡れていることに気が付き、はっと空を見上げた。薄く細めた太陽の双眸に映ったのは、どんよりとした重暗い雲であり、そこから落ちる雨粒が自分の身体を濡れネズミにしているのだと理解する。
顔についた水滴をぬぐい、メビウスは辺りを見回した。目にはいるのは、壊れた建物や苔や蔓に覆われた建物の残骸とすら呼べないようなもの、土台が露出してしまっている石畳などで、動いているものは足もとで飛び跳ねる雫しかない。
「…………」
この廃墟に、直接きたことはないし見たこともない。しかし、雨の匂い以外にも既視感を覚えて、メビウスはなにかを確かめるようにゆっくりと歩き出す。しとしとと雨が落ちる音と、石ころだらけの古びた道を少年が踏みしめるじゃりじゃりとした音。それ以外は、なんの音も聞こえない廃墟を、メビウスは道なりに進んで行く。
はるか昔に壊れた街なのだろう。落ちているものは壁や石畳が砕けたような瓦礫ばかりで、少し歩いてみても確認できるのは灰色と水を吸って黒ずんだ土ばかり。動物、ましてや人間の一部だったろうものなどはもう土に還ってしまったのか、まったく目につかない。色がついているのは、廃墟の上で伸び放題になっている緑、それだけだ。
ここまで壊れたこの国を見たことは、一度もない。いつもの記憶では、壊れる前に意識が浮上する。人びとが命をかけた封印の儀まで、見せてくることはなかった。
恐らくここは。
現在の、エイジアシェルだ。
かつて、命が存在したことさえ疑わしいからっぽの国。
ぽたぽたと前髪を伝って落ちてくる水滴を鬱陶しそうに払い、メビウスは金髪をかきあげた。少しだけ視界が良好になり、それが朱の瞳に霞んで映る。
彼が目にしたのは、立派な城だった。完全な廃墟のなか、それだけが立派にそびえ立っている。いくら雨に霞んでいるとはいえ、大きなシルエットを見間違えることはない。
あれは、城壁だ。
こんな有様では跳ね橋などとっくに壊れているかと思ったが、なんとか街と門を繋いだままになっていた。橋を持ち上げる鎖も滑車も見当たらないということは、橋より先に朽ち果てて堀のしたへと落下したのだろう。
ぎい、と怪しげな音を出す橋を慎重に渡りきる。門の手前で立ち止まり、なにかを探すようにぐるりと門を見渡す。が、門も劣化が激しく、もはやただの鉄の板でしかない。
一人では到底開けることのできない鉄の板はしかし、少しだけズレていた。まるで、少年を招き入れるかの如く、人一人分が通れるぐらいの隙間が開いている。それを認め、彼はするっと門を潜り抜ける。
なかに入ると、雨はやみ景色は鮮やかに変化した。一気に飛び込んできたうるさいぐらいの色彩と音に、メビウスは思わずぱちぱちとまばたきを繰り返した。
城壁のなかは、活気で満ち溢れていた。上品に手入れがされている花壇には花が咲き乱れ、その上を蝶が舞い、生気に満ち満ちている木々には小鳥が歌う。城壁から城の門までは美しい白い石で整備された大きな道が一本通っていた。その道の上を、一人の少女が跳ねるように城へと歩いていく。
見覚えのある後ろ姿が、大きく開いた城の扉へ吸い込まれていく前に、メビウスは豊かな金髪が揺れる背中に向かって大声で呼びかけた。
「アイン! アイン・エイジアシェル!」
つ、と立ち止まった少女は、訝し気に振り返った。あどけない美貌に疑問の表情を乗せ、きょろきょろと声の主を捜している。良く動く宝石のような瞳が、ゆっくりとメビウスの顔で焦点を結ぶ。
「……どなたですの?」
「あ……。えーと……」
普段ならば、いくらでも言葉が口をついて出ただろう。しかしいまは、言い訳どころかいつもの笑みを貼り付けることすらできていなかった。メビウスが次の句を紡ぐよりも早く、少女が慌てた様子で口を開く。
「まあ! びしょ濡れじゃありませんか。いけません、風邪を引いてしまいますわ」
「いや、大丈夫だから……ッ」
小走りで寄ってこようとした少女を手で制し、メビウスは飛び退く勢いで彼女との距離を稼ぐ。不安げな顔のまま見つめている少女に、メビウスはようやっと笑ってみせた。
「ごめん。なんか、間違えちゃったみたいだ」
不自然な言い訳をして、足早に立ち去ろうと背中を向ける。
「アイン? そこでなにをしているの?」
耳朶に届いた声に、弾かれたように振り返る。飛び散った水滴が、きらきらと陽の光を受けて美しく輝き、ぱたぱたと道の上に沁み込んでゆく。
そこに立っていたのは。
雨の日の――夢の中の二人。夢でしか見たことのない、彼の両親。
実際に触れたこともない。もちろん、話したことなどあるわけがない。それどころか、一緒に過ごした記憶すら、ない。二人に関しての情報は、すべて夢という曖昧なファクターを通して知っている、それだけだ。現実ですら、ない。
それでも。
心の奥底で、懐かしいと感じるのだ。胸のどこかで、こんな状況を渇望している自分がいるのだ。どうしようもなく、手を伸ばしたい自分が確かにいるのだ。
しかし二人は、愛おし気な笑みを浮かべながらアインの側へ来ると、メビウスへと青い瞳を向けた。
「あら、アインのお友達?」
「……ッ」
これは――夢だ。
雨の日の記憶と同じ。
ただの――ただの、悪夢でしかない。
わかっている。
それぐらい、わかっているのに。
アインを挟んで立つ二人が、仲良さそうに並ぶ三人が、あまりに血の繋がった家族に見えて。
青。
碧。
蒼。
色味の違うあおにそれぞれ見つめられ、少年は気圧されるように一歩足を後ろに引いた。踏みしめた地面がぐにゃりと歪む。めまいのような感覚に襲われ、メビウスはふらりと膝をついた。
あおが、覗き込んでくる。
あおが、入り込んでくる。
あおが、染み渡ってくる。
――どうしたの?
――あなたは、だあれ?
「……ッ!!」
声にならない叫びをあげて、メビウスは飛び起きた。身体をわずかに折り曲げ、冷や汗で濡れた前髪にくしゃりと手をやると荒れた息が整うのを待つ。だが、暴れる鼓動はなかなかおさまる気配をみせず、メビウスは薄闇の中上半身を起こした姿勢のまま動くことができなかった。
……いまの、夢は。
雨の日の、記憶……?
「……それは、ねえ」
なんとか整えた呼吸で一言、口にして否定する。言葉という形にして外に吐き出さねば、自分の存在が飲み込まれてしまいそうな、そんな気がしたのだ。
「……坊ちゃん?」
いつも騒がしいオオハシが、傍らに具現し、ひっそりと寄り添ってくる。心配そうに見上げてくる不死鳥を両手で抱き上げると、「あったかいなー」と呟いた。
「オオハシさん。こないだオレが無茶したせいで、かなり負担かけただろ。ごめんな」
「ああ、あれ。一気に生命力持っていかれたから、さすがのアタシもハゲるかと思ったわよ。ま、そんな大事にはならなかったから、気にしないで」
「ハゲたらやっぱ鳥肌なの?」
「こぉら。乙女の秘密にぐいぐい入ってこないのが、モテる男の鉄則よ」
「うん。オレは、女の子の秘密に口出さない主義だぜ?」
軽く返して窓の外を見る。が、その景色がただ黒に塗りつぶされているのに気付き、ここは最果てだったと思い出す。ここ最近はデア=マキナで過ごしていたため、時間のわからぬ外の世界が久しぶりだと思った。
それでもまだ、陽がのぼっていない時間であることは間違いないと彼の時間感覚が告げている。最果ては、魔女だけでなくメビウスも一番長く過ごした場所であるのだから。
抱きしめていたオオハシを肩の上に移し、メビウスはベッドからおりた。ひんやりと、床の冷たさが足の裏から伝わってくる。裸足である以外は、なにかあったときにすぐ対処できるよう、普段の上着を脱いだだけの姿だ。最果てでまでそうして眠る必要はないのだが、すでに習慣として身に沁みついてしまっている。
足音を立てぬよう注意を払いながら、メビウスは廊下を歩く。目当ての部屋はそう遠くはない。いまでこそここで暮らすものが四人に増えたが、もともとは二人だったのだ。わざわざ遠くの部屋にする必要はどこにもなかった。
螺旋階段を挟んで向かいに位置する扉を慎重に開ける。細い隙間から覗きこんでみたところ、部屋の中は暗く沈んでおり、人の気配もしなかった。それもそのはず、この部屋の主――ルシオラはラゼル支部に泊まり込みで魔法道具の調整をしている。
これまた音を立てぬように、最低限開けた扉からするりと中へ入り込む。扉を閉めれば、光などほとんど感じられない闇の世界だ。だが、メビウスは夜目が効くほうであるし、肩の上で大人しくしているオオハシの羽も淡い炎のようにふわりと辺りを照らし出している。加えて場所も勝手知ったるルシオラの部屋だ。メビウスは危なげのない足取りで部屋を横切り、壁一面に収められている本の背表紙を瞳を細めてじっくりと見る。子供向けの童話から魔法の専門書、読めない文字で書かれたものや、あからさまに怪しいオーラを放っている本まで様々混ざっており、メビウスは目当ての本を探すだけで思っていたよりずっと長い時間を弄した。
「……あいつ、これでよく一発で読みたい本を取り出せるな」
ぼやきながら、ようやっと見つけた一冊を取り出す。思わずきょろきょろと辺りを見回したりしながら、メビウスはぱらぱらと紙をめくった。気になる箇所が見つかったときは手を止めてさらっと流し読みするが、結局この本には彼が知りたい事柄は載っていなかったらしく、メビウスは本を本棚に戻すとまた背表紙と睨めっこを開始する。
そんなことを何度か繰り返した結果、彼が探していた答えはどの本にも記載がなかった。ふーっと長いため息をつき、肩を回そうとしてそこに大人しく止まっているオオハシを見る。
「……なによ?」
「オオハシさんって、おまじない前のオレ……っつーか、後継ぎについてなにか知ってる?」
「知るわけないじゃない。アタシはあのときあの場に強制的に呼び出されて、急に坊ちゃんと一心同体にさせられたのよ? 恋の一つもする暇すらない人生だったの。なに調べてるんだか知らないけど、アタシよりルシオラに聞く方がずっと効率的じゃない?」
「いや……。ルシオラは多分、知らねえと思う」
魔女は、雨の日の記憶の中に名前しか出てこない。あの夢をそのまま信じるならば、彼女はあの場にいなかったことになる。封印に関わったのは、エイジアシェルが滅んだあとだ。
「……自分のことがわからねえってのは、思ってたより気持ちわりーんだな」
「ん? なあに?」
ほとんど口の中で呟いたような言葉を拾いかけたオオハシが問いかけるも、メビウスは「ひとりごと」と返して自嘲めいた笑みを浮かべた。
――アイン・エイジアシェル。
彼女はいったい――何者だ。