4・初デートはほのかに甘く
ふぅーと息をついて、メビウスは頭をふるふると振った。濡れた前髪から水滴が散って、ソラがちょっと離れる。魔獣組合の裏に引かれた水路で、顔を洗ってすっきりしたのだ。
「メビウス、犬みたい」
言って、ソラがクスッと笑う。メビウスも一緒にへらっと笑うと、ソラの手を取って歩き出す。
「そんでソラちゃん。行きたい所とか、ある?」
歩きながらソラの顔を見てたずねる。ソラは少し視線を泳がせたが、すぐに首を横に振った。
「特にない。ただ、こうやって歩いてるだけでもいい」
「そっか。じゃ、散歩しながらテキトーに店とか見てまわったりする?」
「でーと、がそういうものならそれでいい」
「うーん……。そう言われると、なんか違うよーな気もすんだけど。ま、歩きながら決めますか」
メビウスとて、デートがどういうものかと真剣に問われても困る。長すぎる年月を生きている彼も、真剣なお付き合いなどしたことがないのだから。女の子が可愛いと思う気持ちに嘘はないものの、だからこそ本気になってはいけないのだと、彼自身が一番よく知っているからだ。
そのはずだったのに。
ソラに対する自分の行動はなんなのだろう、とメビウスは隣を歩く少女を横目で見やる。
――ソラに会ってからのお前は、二言目にはそれだな。
容赦のない、ルシオラの言葉を思い出す。しかし確かにそのとおりなのだ。自分でも歯止めが効かないほど、気持ちが暴走している。
時の流れが違うというのは、恋だ愛だが絡まなくてもじゅうぶんに残酷だ。一緒に生きることができないのはもちろん、自分の加護が知られてはいけない以上、親しかった人間を看取ることすら許されない。彼に許されるのは、彼のことを知る人間がいなくなった頃に、気が合った、助けてくれた、想いを寄せていた人間の墓にそっと花を手向ける行為だけである。
「……メビウス?」
「ん……? いやあ、ソラちゃんはどんなカッコをしても可愛いなと思って。じっくり堪能してました」
あまりにも長く口を閉ざしすぎたのか、ソラが心配そうに見上げてきた。
へらりといつもの笑みを浮かべ、悩みの種である本音を口にする。贅沢な悩みだと思わなくもないが、彼にとっては重要すぎる問題だ。ソラと一緒にいる限り、いつかは考えなければならなかったことだ。それがいま、唐突にデートという状況に陥り、現実が見えてしまって結論を焦っているのかもしれない。
でもなあ。
いまが楽しければ楽しいほど――。
ソラはそんな少年の心中には気付かず、気恥ずかしそうに眉をさげた。
「わたしには、そういうの、あまりわからない」
スカートを握りしめて下を向く。地面ではなく、握ったスカートの生地を見つめているようだった。
「昨日、エリーと一緒に色んなものを見た。女の子のお話も一杯してもらった。でも、わたしには、どれも似合わない気がして……。どこにいても、場違いな気が、して……」
普通の楽しみを知れば知るほど、自分の居場所はここではないと思い知ってしまった。それは、同じ楽しみを見出せないからではなく、根本的になにかが違うと自分の中から語りかけられるような、そんな感覚。
「そっか。ま、いーんじゃない? ひとそれぞれだし」
上からかかったメビウスの声は、彼女の思いを肯定するものだった。
「それに、しっくりこなかったんなら、記憶とも関係ないんじゃねーかな? なにもピンとこないならこないで、役には立ったんじゃねーの?」
「あ……」
手がかりの一つも見えないままの、自身の記憶。見えないままではなく、泡沫の記録で単語の羅列を聞いてからというもの、ソラは積極的に思い出すという行為を避けていた。成れの果てを取り込むだけではなく、そのちからを引き出して使うという能力に気付いてしまったことも大きいのではあるが、ソラのなかで記憶というものはいつの間にか、それほど大事なものではなくなっているような気がする。
――否。
元々、記憶など――。
ちくりとした痛みと共に、なにかが顔を出しかけた気がした。ふらりとよろけ、メビウスが慌てて抱きとめる。少年の腕のなかで、ソラはそっと頭に触れた。ちくちくとした痛みが、気まぐれにリズムを叩いている。
「ソラちゃん、大丈夫?」
「……多分、平気。少ししたら、治ると思う」
「じゃあ、いったん広場で休もっか」
有無を言わせず少女を抱き上げる。いつもなら、さすがに文句を言ってくる細い声は聞こえず、メビウスは足を進めながら視線を腕の中へ落とす。
ソラは、額に手を当てたままぼぉっとしていた。夜空色の瞳が時々ふるふると揺れる。身体に伝わる少女の体温が、出てきたときよりも高い気がして、メビウスは慎重に歩みを速めた。
「はい。水、飲める?」
広場に着くとメビウスはソラをベンチに座らせると、近くのスタンドから水をもらい少女に手渡した。ソラは両手で色気のない白いカップを持ち、中身を少しだけ口のなかへと送り込む。ほどよく冷えた水が喉をの奥へと落ちていく感覚が心地良く、少女はもう一度カップを傾けた。
「……大丈夫? 出直そうか?」
少年の言葉にあからさまに肩を跳ね上げ、ソラは首を横に振った。その勢いに、メビウスが若干目を見開く。
「大丈夫。……落ち着いて、きたから」
「そう? 無理はしなくて――」
「無理してない。無理は、してないから……」
メビウスに皆まで言わせず、強い語調で被せてきたソラに少年はまた少し驚いた。本当に大丈夫なのかと顔を覗き込むと、空色の少女の表情はくしゃくしゃに崩れ、大きな瞳には滑り落ちる瞬間をいまかいまかと待ち続ける雫が光っていて、メビウスは今度こそぎょっとする。
「ソラちゃん!? ホントに、我慢しなくていいからッ」
ベンチからぴょこんと立ち上がって結局しゃがむという意味のない行動をしていると、ソラのか細い声が聞こえて顔をあげる。
「……違うの。わたし、悔しくて」
「……悔しい?」
「いつも心配ばかりかけて、いまだって。でーとって楽しいものだって教えてもらったのに、わたしがなにも覚えていないから……。思い出そうとしてないから」
「オレは、ソラちゃんといられるだけで楽しいけどな。それも、オシャレしたソラちゃんと二人っきりなんて、夢じゃねーかなっていまも思ってるぐらい」
とすん、と少女の隣に座り直し、メビウスはいつものへらりとした笑顔を見せる。
「それに、心配ならオレだって嫌ってほどさせてるだろ。いーんだよ、そんなこと気にしなくて」
言いながら、メビウスは一瞬思考の海にダイブする。なにか、忘れているような気がしたのだ。幸いにも、忘れものはすぐ見つかった。気にするなと言った手前、ころっと主張を変えるようで言い出しにくく、なんとはなしにぽりぽりと頭を掻く。あちらこちら好き勝手向いている金髪が、ぴょこぴょこと飛び跳ねた。
「ソラちゃん。ちゃんと言わなきゃって、思ってたんだ」
「……なに?」
笑みを消し、改まった様子で彼女を見たメビウスに、ソラは若干の緊張を覚えつつ居住まいを正す。
もしかしたら。
――デートってね、大事な告白したりされたりって重大なイベントが起きることもあるんですよ。
昨日のエリーの言葉が胸中で再生される。ただ、その話をしているときのエリーは自分の世界に入り込んでいたので、いったいなんの告白なのかもよく理解できなかったのだが。
でも、夢見心地の彼女の表情が、恐らく嬉しいことなのだろうと容易に想像させてくれた。
どくん、と自分の心臓が大きく波を打つ。
明るい太陽と深い夜空が出会い、絡み合う。
「いつも、怪我を治してくれて本当に感謝してる。酷い怪我ばっかりで、負担かけちゃってるよな」
「……そうでも、ないけど」
メビウスの大事な話とは、ソラが思っていたものとは違うらしい。気付くと同時に緊張が解けて、不愛想な返事をしてしまった。そうとは気づかず、少年は苦笑いを浮かべて続ける。
「考えてみたら、心配するなってのが無理なレベルの怪我ばかりだよな。それなのにいつも当たり前のように治してもらって、こないだ死にかけたときも毎日時間作ってくれて、大変だったよな」
穏やかな口調のメビウスに、ソラは小さく相槌を打つことしかできなかった。
「ソラちゃん。いつも本当にサンキュな。オレは、ソラちゃんを助けてるつもりで、逆に助けられてばっかりだって気づいたんだ。だから」
――ありがとう。
ふわりと、耳元で聞こえた声。聞き慣れたはずの声はしかし、ソラの知らない熱量をもっていて心地良く心の奥まで入り込んでくる。いつの間にか抱きしめられていたのだが、そうと気づいたのは少年が身体を離したときだ。あたたかな体温が離れていくのを感じたときだ。
少し、照れくさそうな笑みを浮かべたメビウスの顔が視界にはいる。
どくん、とまた心臓が暴れたのを感じ、ソラはどうしていいのかわからず結局下を向いた。
「あ、ごめん、ソラちゃん。気にさせちゃった? いま言うことじゃなかったかな……」
なにを勘違いしたのか、メビウスが慌てて謝る。暴れる心臓は、一向に落ち着く素振りをみせない。
――知らない。
――こんな気持ちは、知らない。
あまりにも落ち着かず、つ、とソラはベンチから立ち上がった。勢いで立ち上がっただけなのだが、しっかりとした足取りで数歩歩きながら考え、振り返る。
「あの、甘いものが、食べたい。食べ過ぎは厳禁だけど、甘いものを食べてる間はみんな幸せになれるってエリーが言ってた。わたしも、その気持ちは少し、わかるような気がしたから」
うっすらと微笑んだソラに、メビウスもほっと満面の笑みを返して。
「いいですなあ、甘いもの。あ、でもソラちゃん、エリースペシャル飲んじゃったでしょ? アレより甘いもんってあんまり思いつかねえや」
別に甘さを競う必要はないのだが、妙なところでうんうん悩んでいる少年の腕をさっと取って、ソラはベンチの向かい側に展開しているスタンドを指さした。
「あそこのお店は?」
「あ、クレープ屋。……うむ、組み合わせ次第では、エリースペシャル超えられるかも」
そこを頑張る必要はないのだけれど、メビウスが実にいきいきといたずらっ子のような顔を見せ始めたので合わせることにした。
「じゃあ、まずあそこ。その後も、甘いもの色々食べたい」
「なるほど。甘いもの巡りデート。クレープの後は……あー、美味いパフェが食える隠れ家カフェがあるってエリーが言ってたっけ。もっとちゃんと聞いておけばよかったぜ」
クレープのスタンドに向かって歩き出しながら、メビウスはぶつぶつとデートのプランを練り始めた。そんな彼の腕につかまりながら姿を見上げ、大事な告白とやらは聞くことができなさそうだけど、いまはまだ、このままでじゅうぶんだと思いながら。
翌朝、まだ空気に夜の匂いが残るぐらいの時間。
魔獣組合からエリーの大声が響き渡り、屋根の上で談笑していた鳥たちが驚いて一斉に飛び立つ。
「ちょっ、な、なんで起こしてくれなかったんですか、お父さま!」
「いや、俺だっていきなりだったし。さっさと出て行っちまうもんだから、お前起こしてる時間なんてなかったんだわ」
「それにしても、唐突すぎますッ」
声とは裏腹に、ショックで立っているのもやっとな足をなんとか奮い立たせ、エリーは魔獣組合内部を見回した。
そもそも。
ソラの部屋はともかく――メビウスの部屋の扉が開いていたことに、一瞬胸騒ぎがしたのだ。
いま、彼女が見回した魔獣組合内部はがらんとしていて、父親以外誰もいない。朝早くであるから、受付もしておらず、魔獣の情報を見にやってくる魔獣狩り専門の人間ももちろんいない。
「……やっぱり、置いていかれちゃうんですね」
ぽつりと呟いた娘をそっと見やり、テオは懐から取り出したものを押し付ける。
「ほれ」
「なんですか、これ」
無造作に父から渡された小さな包みに、エリーは怪訝な顔をした。控えめな、オレンジ色のリボンが巻かれている。
「坊ちゃんから預かった。お前の誕生祝いだって」
すべてを聞かず、エリーはリボンをほどいて包みを開ける。中には、ひまわりの髪飾りが二つ入っており、小さなカードが添えられている。
『エリー、誕生日おめでとう。これからも頼りにしてるぜ』
金髪の少年が書いたとは思えない、意外と整った読みやすい文字だ。だが、簡潔な内容はいかにも彼らしい、とエリーは思う。カードを見つめる、自分の表情が柔らかくなっているのがわかった。
「……覚えてたんですね」
「ああ、坊ちゃんか? 坊ちゃんはな、女の子の誕生日は忘れねーんだよ」
「お父さま? 娘の憧れを片っ端から壊して回るの、そんなに楽しいです?」
「憧れ? あれ、大人になったから卒業したんじゃなかったか?」
「しかも、盗み聞きだなんて。ホンットにデリカシーの欠片もないですね」
ジト目で見上げる娘に対し、テオは余裕の笑みを浮かべてわしゃわしゃとエリーの頭を撫でまわした。
「ま、これからはちょくちょく顔出すってよ。魔獣の情報も頻繁に更新されてるし、魔獣組合と密にやり取りする必要があるってさ」
だから、そんなに凹む必要はないぞ娘よ、と口にした父を、いよいよイライラマックスの形相で睨みつけ、頭を撫でるのをやめさせる。ぐしゃぐしゃになった髪を手ぐしでときながら、顔だけは聖母の微笑みを浮かべ、絶対零度の声音で言い放った。
「お父さま。そういうことは、一番最初に言ってほしいんですけど」