3-2c. 月夜渡り【どう、嬉しい?】
「どう、嬉しい?」
ヴァン・ガーディナの肩で、子猫がなおぅとあくびした。
「な…に……してくれてんですか――!」
抗議はほとんど悲鳴で、ゼルダは涙目だった。
「ご褒美だと言ったろう? なんだ、嬉しくないのか」
「嬉しかったら変態です!」
ヴァン・ガーディナがくすっと笑って、にこにこしながらゼルダの肩に手を置いた。
「おまえ、立派に変態だから安心しなさい。傷の具合を見せてごらん」
――誰が、誰が立派に変態かァ! 兄弟なのに、自分がキスしておいて言う!?
「擦り傷だな、このくらいなら舐めておけば治るよ。舐めてやろうかと思ったけど、嬉しくないみたいだから、自分で舐めておきなさい」
――ぶっ。
たいがいにして下さい。あ、たいがいにして下さったのか。
「兄上、お心遣い痛み入りますが。私は、こういうことは女性にされたいです! シルフィスとか、リディアージュとか!?」
ヴァン・ガーディナが興味なさげな顔をして、子猫と戯れる。
「可愛くないゼルダなんて放っておいて、行こうか」
「えっ……あ、兄上、待って!」
ゼルダがどんなに必死になっても、舞う蝶のようにひらり、ひらりと夜闇を渡って行くヴァン・ガーディナには追いつけない。見失いそうだった。
「待って! 兄上、ガーディナ兄様!」
すがって、ようやく待ってくれた兄皇子に追いつくと、納得行かないのにどうしてなのか、ゼルダは謝ってしまった。
「あの、ごめんなさい……」
それで、雰囲気を緩めたヴァン・ガーディナが、ゼルダを引き寄せた。
「ゼルダ、おまえ嬉しいか?」
――ぐっ。
ねぇコレ、嬉しいって答えないといけないの?
ゼルダはむくれながら、仕方なく、こくんと頷いた。頬が紅潮してしまう。
ふふっと、兄皇子が笑った。
「変態だね、おまえ」
――どっちがぁあ!
ゼルダを抱き寄せて、そのまま抱き締めるようにしたヴァン・ガーディナが、また、深くキスした。
「んっ……」
マ、ズイ。骨抜きにされて、腕の力、入ら――……
泣きたい。いくら、類稀な風貌の持ち主とはいえ、兄皇子に骨抜きにされるなんて、変態でしかない。妃にバレたら言い訳のしようがない。
「おまえ、この程度の代償なら支払えるくらい、私の傍にいたいんだな。いいよ、許してやる。可愛がってやるから、私に忠誠を誓いなさい。私を愛しているね、ゼルダ?」
――むぅう。
威圧的な態度で臨まれるうちは、この兄皇子に本気で忠誠を誓おうなんて、思いもよらなかった。
けれど、優しくされると弱いのだ。駄目なのだ。
ゼルダがうらみがましい目をして、その割に素直に従うと、ヴァン・ガーディナは雪織りのケープを軽くさばき、また、夜を渡り始めた。
「おいで」
ゼルダに優しいのはヴァン・ガーディナだけだ。それは、仕方がない。
皇妃を敵に回すような皇子に肩入れすれば、なまじっかな者では、破滅するだけだから。ゼルダも、それがわかっているから、誰にも、優しくして欲しいなんて願わなかったのだ。
クローヴィンスやマリにさえ、願えなかったのだ。
それなのに――
夜を舞うヴァン・ガーディナは幻想的で、雪織りのケープが淡く月光を揺らし、夢か幻のように綺麗だった。
夜に限らない。
陽光の下でも、ヴァン・ガーディナは聡明で優雅で、ゼルダの目には完璧な貴公子だ。本音は、憧れている。兄皇子のようになりたい。
ゼルダの瞳が緋の燐光を帯び、棺の呪文が異様に速いのを見て、ヴァン・ガーディナが足を止めた。
「ゼルダ、どうした? 私にされたこと、そんなに、嫌だったのか? ――悪かったな、でも、おまえどうして、いつもそんなに我慢するんだ。嫌なら嫌だと言わないか?」
ゼルダは唇を噛んで、かぶりを振った。
ずっと、本当は――
「兄上、忘れて下さいますか……?」
ヴァン・ガーディナに愛してもらえるなら、どんなに――
「リディアージュやシルフィスに守ってあげるよなんて、皇子様のふりをして約束する度に、怖くてたまらなくて……! 私は、シャンディナだって兄上だって守れなかったのに、騙しているのじゃないかって!」
なんて、悪夢だろう。
ヴァン・ガーディナを信じてはならないと、支えにしてはならないと、ずっと、自戒してきたのに。
本当は、助けて欲しかった。彼自身よりも、愛する妃と子を。
リディアージュだって手元に置きたい。寂しい思いも、つらい思いも、させていたくないのに。いつになったらエルディナスを抱けるのだろう。
「寂しくて、死にそうだったからって! そんなの、私が死ねばよかっ――」





