3-2a. 月夜渡り
夜風が心地好い、十六夜の晩だった。闇曜の夜だ。
「ゼルダ、今夜はライゼールの街並みを視察する」
ついて来られるならと、ヴァン・ガーディナが挑戦的に微笑んだ意味を、ゼルダは量りかねた。
「どうして、わざわざこんな夜中に?」
「うん? 物好きだな、真夏の炎天下を歩きたいのか。港の視察は昼間だ、楽しみにしていなさい」
「げ。」
ヴァン・ガーディナが微笑んで、つけ加えた。
「夜の街角には、昼間とは違った顔があるだろう。確かめておいた方がいいな。領地が荒んでいるなら、女や子供が姿を隠す。襲われたり、攫われたりするからな」
珍しく、ヴァン・ガーディナが領主らしいことを言うから感心したのに。
「兄上、どちらへ、その先は袋小路です!」
ヴァン・ガーディナがしっと指を立てて、夜中に大声を出すなと、ゼルダをたしなめた。
「この路地から回ることにしているんだ。いつも、可愛いコが私を待っているんだから、応えてあげないとね」
「何ですって!」
途端、ぎんと目が冴えてしまうゼルダに、ヴァン・ガーディナがにっこり笑ってみせる。
「兄上をして可愛いコと言わしめるなんて、よほどの美少女ですよね!? 今宵の趣向は、頑張ってる私にご褒美ですか!? いたく私好みです、喜んでお供させて頂きます♡ ええ、そうですとも、可愛いコが待つなら、たとえ火の中水の中、こちらが順路ですよ!」
目をきらきらさせて張り切るゼルダに、さらりと、ヴァン・ガーディナが告げた。
「ああ、そこにいた。おいで」
ヴァン・ガーディナが塀の上へと手を差し伸べる。
月夜の闇を縫い、塀の上からしなやかな影が飛び降りてきた。
「どう、可愛いだろう?」
確かにとても、可愛らしかった。でも、待って下さい兄上様。その可愛いコは。
――どこからどう見ても、猫です。
がっくりとうなだれるゼルダの様子を、ヴァン・ガーディナがくすくす笑う。間違いなく確信犯だ。
ご主人様の肩がお気に入りらしい子猫の毛並みを、ヴァン・ガーディナが可愛がって撫でる。
かと思うと、当たり前のように、ひらりと塀の上から民家の屋根へと、跳び上がってしまった。
え、ちょっと待って!?
猫じゃないから、ヴァン・ガーディナが跳び上がったから!
どれだけの高さがあると思ってますか、人間の限界を軽く突破しないで下さい!? なに今の、まぼろし?
ゼルダが目をこすってみても、兄皇子はやっぱり屋根の上にいる。そんな馬鹿な。
他人様の家の屋根に上ってはいけませんとか、場違いな叱責が頭を掠めたけれど、そういう問題でもない。
「なんだ、やっぱりついて来られないのか。置いて行くよ?」
「えっ……そんな、だって!」
どうして、この高さを跳び上がれるのだ。
ヴァン・ガーディナが、たん、たんと降りてきた。
ひとつ、わかったことがある。兄皇子は一っ跳びで移動しているのではなくて、何か、宙を踏み台に移動している。
「仕方がないな。ゼルダ、今日は何の日だ?」
「……? 闇曜で……いつもなら、死霊術を指南して頂ける日、ですか……?」
ゼルダの顎を取って訊ねたヴァン・ガーディナが、微笑んで、その耳元に囁いた。
「そう、おまえ、棺の呪文は知らないのか」
ゼルダは正直なところ、兄皇子のやり様に、どぎまぎしてしまう。兄皇子は抜きん出て妖艶な美貌の持ち主だし、趣旨はともかくとして、仕種も優しい。とりあえず、顎にかけた手を離して欲しかったりした。
「えっと……て、兄上、棺を踏み台になさってるんですか!? なんて罰当たりな!」
「何のことだ? 別に、棺と言っても空なんだ、構わないだろう?」
種明かしをした上で、もう一度、ヴァン・ガーディナが塀の上へ、さらに民家の屋根へと跳び上がった。
「あう……」
兄皇子にがっかりされるのが嫌で、出来ないと言いたくないゼルダは、とりあえず小さな棺の呪文を真似してみたけれど、死霊術の棺って足場になるのだろうか。実際、ヴァン・ガーディナの足場は、どんどん消えてしまっている。
「ゼルダ、馬鹿だな。最初から私ほどスマートにやろうとしても、おまえじゃ、まだ無理だよ。慣れるまでは、踏み外さない大きさの棺にしなさい。棺を闇に隠す技術も、まだ早いな。具現する時間も長めにしないと、次の棺を創れないだろう、おまえ?」
「ぐぬ……」
悔しいけれど、何から何まで、兄皇子に言われた通りなのだった。
ヴァン・ガーディナが棺を創り出す速さは尋常ではなかったし、棺はどんどん消えるのではなく、追えないよう、見えなくしているのか。





