58 酔っぱらいの誘惑
「ゆかりさん、飲みすぎですよ」
「うーー……まだ飲みたいのにぃ」
華奢な指から半ば無理やりグラスを奪ったら、ガラスの表面に浮き上がっていた水滴がこちらに向かってぴしゃりと跳ねた。
かずきさんのケチんぼ! 酒のせいで赤く染まった頬をかわいらしく膨らませて隣で抗議の声をあげたゆかりに「こら」と返す。なんだよ、ケチんぼって。そんな顔で言われても全然怖くないんですけど。
週末の夜に居酒屋のカウンターで肩を並べて二人で飲むのも、もう何回目か。彼女と飲み友達になって少し経つけれど、こんなに酔った姿を見るのは初めてだ。これも晴れて恋人になれた効果だろうか。グラスを取り返そうと彷徨った指を空いた手でキャッチする。
「ケチで結構。ああもう、フラフラして……送る僕の身にもなってくださいよ」
「……送ってくれなんて頼んでません、もん」
「そういうこと言わないの。僕がきみを置いていくわけないでしょ」
「えー? どうかなぁ……いちど置いてかれちゃってるからなぁ……かずきさんに」
じとりと上目遣いをする姿は愛嬌たっぷりだが、痛いところを突かれた和樹は返答に困った。確かに海外勤務期間はゆかりの前から姿を消していたとも言える。
その件については彼女も飄々としていたのに。本音は別にあったのか。
神妙な顔をした和樹を見つめたあとでぷっとゆかりが吹き出した。
「ふふふ……困った?……ウソです」
「……人が悪いですね、ゆかりさん」
「かずきさんがいなかったとき、淋しかったのはホントですよ? だからね、おかえし」
「……今のはききました」
「うん。じゃあこれでおあいこね」
ふわりと優しく微笑まれてドキリとした。綺麗な笑顔だ。ついさっきまで可愛らしい女の子の表情だったのに。一瞬でくるりと変貌した彼女を相手に言葉を失う。離れていた時間はたった一年だというのに僅かな時間が確実にゆかりを大人の女性に変えたのだと痛感した。
そのことに気づいてしまうと、垂れた目元も、まろい額も、細い肩も……和樹の知らない女性になってしまったようで少し……淋しさが湧く。
テーブルに頬杖をついたゆかりが不思議そうに睫毛を瞬かせた。
「かずきさんってそんな顔もするんだね」
「そんな顔って……どんな顔ですか」
「うーんとね、ちょっと悲しそうっていうか……捨てられた子犬みたいな……」
……どんな顔だ。
突っ込みをいれるより先に、視界が覆われて前髪に小さな掌が置かれた。
「うふふ…いーこ、いーこ」
「ゆかりさん、酔ってますね…」
「酔ってないですよー?」
素面だったらこんなこと絶対しないだろ……以前「炎上する!」って言ってたし。心の中でブツブツしながらも、されるがままになっている自分はつくづくゆかりに甘いのだと自覚している。もうずっと前から。甘え上手というかなんというか。
つい、手を貸したくなるというか。とにかく和樹は放っておけないのだ、彼女のことを。
職場が圧倒的男所帯なので、女性と関わる機会が少ないこともあるが、自分が知る女性の中で彼女ほど居心地の良い相手はいない。
というより……むしろ好意的、な想いが強いかもしれない。
可愛らしいかと思えば大人びた表情を見せたり。時々こうやって和樹をからかったり。けれどどんなことも許容してしまう。彼女から与えられる大抵のことを和樹は受け入れている。
酔ったゆかりは絡み酒タイプなのか。新しい発見に喜びつつ、心配にもなる。一緒にいるのが自分だから良いものの、他の……例えば親しくない人間の前でこれはマズいだろう。次回逢う時にきっちり注意しておかなくては。とろんと潤んだ瞳に苦く笑いつつ提案する。
「そろそろ、出ましょうか」
できるだけ優しくゆかりの手首を掴むと、彼女はつまらなそうに鼻を鳴らした。
「……かずきさんってば、そんなに早く帰りたいんだ」
「そういうわけ……では」
「じゃあ、もうちょっとだけ……いっしょにいましょうよ」
……ね? とこてんと傾げた可愛らしい動作に、うっ……と唸る。なんだ、それは。
夜に二人きりで酒が入っていて、「まだ一緒にいよう」だなんて。そんなことを言ったりしたら勘違いする男が絶対いるだろ。
いくらなんでもうっかりしすぎだ。
「ゆかりさん……今のはいけませんよ。僕が相手だからいいようなものの……」
「どうして?」
「この状態で、そんな言い方したら……勘違いする奴がいるってことです」
「……あなただから、っていったら?」
「はい?」
「わたし、和樹さん以外の男のひとと二人きりで飲んだりなんかしません」
「ゆかりさん?」
「もう……いい加減気付いてください。勘違いしてっていってるの」
ぐいっ
ネクタイごと首を引っ張られて、唇をつぼめた彼女の顔が近づいた。ふたりの隙間が数センチに縮まり目を見開く。少しでも身じろいだら唇と唇が触れてしまうくらいの至近距離で視線がぶつかり合う。
数秒前まで聞こえていた重なるグラスの音も知らない誰かの話し声もすべてがシャットダウンされて、二人の世界から音が消え去る。
はっきりとわかることは、果実の甘い香りと彼女の吐息の気配が口元をくすぐっているということだった。
どうして? なにがどうでこうなっている?
ゆかりの瞳が悪戯に細められる。
「……また難しいこと、かんがえてるでしょ。
キス、してもいいですか?」
たまにはオットコ前なゆかりさんが和樹さんを誘惑します。
というか意図的に迫ったの、もしかしたらこの日が初めてかもしれませんねぇ。うふふ。




