57-2 『ニュー・シネマ・パラダイス』(後編)
「……う……ん?」
いつもより苦しい。なんか、重い。
でもすごく……すごくすごく、好きなにおい。
世界で一番、いいにおいがする。
ゆかりがゆるゆると目を開けると、目の前に長いまつ毛があった。
カーテンの隙間から溢れる陽光が眩しくて、目を細める。
いつの間に、ベッドに来たんだろう。
数日前にシネマチャンネルで放送していたから迷わず録画した、一番好きな映画を見ながら、懐かしい思い出に浸っていたはずなのに。
疑問に思うと同時に答えも出た。
今、自分をがっちり抱き込んで静かな寝息を立てている彼が、運んでくれたんだろう。なんだか、ぼんやり記憶しているような気もするけれど、あれは夢だったのかもしれない。
恋しくて恋しくて仕方ないから、夢に見てしまったのかもしれない。よくある、ことだ。
多忙を極める和樹と、ゆかりの時間はなかなか重ならない。
時計を見ると、朝八時前。
いつも起床は六時だから、随分と寝過ごした。
日当り良好のこの部屋で眠っていて、寝過ごすことはなかなか珍しいのにーー結婚して知った、休日はすこぶる寝起きの悪い和樹は別にして。
ゆっくりと身体を起こすと、腰に巻き付いて居た和樹の腕がずるりと落ちた。
端正に整っているが、あどけない寝顔に笑みが溢れる。
彼を起こさないよう、ずるずるとお尻を引きずって移動していたところで、伸びてきた腕がゆかりを捉えた。
「いやだ」
「……わっ」
ゆかりの膝に頬をつけて、うつ伏せの和樹が腰に抱きついてくる。目は伏せられたままだった。
「和樹さん」
「いやだ。いかないで、ゆかりさん」
その広い背中を、ゆかりは控えめにぽんぽんと叩く。
「……寝ぼけてます?」
「起きてるよ。いかないで」
大腿にぐりぐりと擦り付けられる髪を、ゆかりは困ったように撫でた。
「和樹さんはもう少し寝ててください」
「一人寝は嫌だ」
「でも、ブランにご飯をあげないと」
うん、と、寝起きでかすれた声で和樹はしばらく逡巡しているようだった。
「だったら、あげてすぐ戻ってきて。今日は、ゆかりさんと朝寝をするって決めたんだ」
よしよしとなだめるように夫の頭を撫でながら、ゆかりは「困ったなあ」と眉毛を下げた。
彼のお願いならなんでも聞いてあげたいけれどーーお腹をすかせたブランがへそを曲げるのも時間の問題だ。洗濯もしたい。
「じゃあ、あと五分」
「……厳しくない? 四十分」
「十分」
「…………」
膝の上の後頭部に向かって、ゆかりは「いいお天気ですよ」と告げた。
後頭部は沈黙を返す。
「いいですか、和樹さん。結婚とは、妥協の連続なのです」
「誰の格言……?」
「ワイドショーかなあ」
それから、しばらくうじうじとゆかりの膝の上でぐずっていた和樹だが、三分位で観念した。
「わかったよ、姫君」
観念すると、和樹はゆかりより早くベッドから降りて、手を貸してくれる。
ふふふと笑って、ゆかりは差し出されたその手に自らの手を重ねた。
ゆかりはベッドから降りると、和樹の腰にぎゅっと抱きつく。
「おはようございます、和樹さん」
見上げてにこりとするゆかりをゆるりと抱き締める。
「おはようございます、ゆかりさん」
自分の腕の中にいてくれる彼女が愛しくてたまらない。
「さあ、まずは腹ごしらえですよ。とーっても脂ののった鮭が、私たちに食べられるのを今か今かと待ってますからね」
和樹を見上げながらにんまりと笑う彼女。
「おや、ゆかりさんがそこまで言うほどの鮭ですか。ではゆかりさんが朝ごはんの支度をしている間に、ブランの朝ごはんと洗濯機を回すのは僕がやっておきますよ」
「うふふ、ありがとうございます」
「それでね、ゆかりさん。あとで、この前教えてくれたキンモクセイの公園を散歩しませんか?」
「まあ、それはステキなご提案ですね。和樹さんとのんびりできるの、嬉しいです」
「公園に行く前に、パン屋さんの焼きたてクロワッサンを買って、ベンチに座って、キンモクセイを眺めながら食べましょう」
「最高! 天気もいいし、美味しく食べられそうです」
そこまで話したところで、朝ごはんを待ちきれないブランが足元にやってきて、控えめにアンッ! とひと鳴きする。
お互いにきょとりとしてから顔を見合わせる。くすくすと笑いながらそれぞれの朝のミッションを遂行すべく動き始めた。
この映画、ご覧になったことのあるかたはどのくらいいらっしゃるのでしょう。
私は、選ぶことも選ばないことも難しいなと思う映画でした。




