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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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57-1 『ニュー・シネマ・パラダイス』(前編)

 ふう、と和樹は軽く息をつき、車のキーを手の中でくるりと回す。

 深夜のマンションの廊下に、カチャリと音が響いた。

 時計を見ると午前一時半。


「帰宅はできそうだが、日付は変わると思うので寝ていてほしい」

 というメールに、愛する妻から「了解」の旨の返信が来た。

 さすがに、もう寝ているだろう。


「……ただいま」

 自宅のドアをくぐるのは二日ぶりだ。一応そっと帰宅の挨拶をしてみるが、予想通り室内は暗い。

 シューズボックスの上に置かれているシンプルな真鍮のトレーの中に鍵を入れ、隣の小さなランプの明かりを消した。これは、帰宅する和樹のために彼女がつけてくれていたものだから。帰宅が済むと、もう不要だ。

 廊下を極力足音を殺して抜けると、リビングから微かに音が漏れてきている。



 ドアを開ければ、大型テレビから流れてくる控えめな音量のイタリア語。

 『ニュー・シネマ・パラダイス』、彼女が好きな映画だ。

 そして、和樹が初めて、プライベートで彼女を連れ出すことに成功した口実。

 「デジタル・リマスター版が一日限定で上映される」と、半ば強引に連れ出した。

 なので、和樹にとっても意味深い一作である。


 テレビに映るのはちょうどラストシーンだった。

 映画館で、彼女が大号泣していたシーン。

 エンニオ・モリコーネの音楽を聞きながら思い出す。


 ……そういえば僕、あの時苦情言われたんだったっけな。


 情感に溢れたフルートの独奏。胸に染み入るヴァイオリン。

 あの日、隣の席でしゃくりあげている彼女の手を握った。多分、彼女は泣くのに夢中で気づいていなかった。

 当時の和樹には、けっこう勇気のいる行動だったのだが。


 ゆかりとのデートは初めてだったし。

 手が早いと思われたくなかったし。

 なにより、信頼されたかった。

 どうも、ゆかりは和樹のことを「ちょっとチャラい」と認識していたようなので、それをまずは全力で払拭しなければと思っていたのだ。


 彼女の顔は涙でぐちゃぐちゃで「ううっ……こんなに泣く映画に誘うって……ひどいです。メイクが悲惨なことに!」とかなんとか、映画館を出てそうそう鼻声で苦情を言われた。

 泣いて赤くなった鼻も潤んだ瞳も可愛かった。


 レイトショーだったので外に出たらもう暗くて、そのまま少し車を走らせて海に向かった。しばらく泣きじゃくる彼女の手を引いて、遊歩道をぶらぶら歩いた。映画のこと、喫茶いしかわのこと、今までのことを、ぽつりぽつりと話しながら。


 華奢な手を握りしめて、「ああ、抱きしめたいなあ」と思っていた。

 慰めて、キスをしたいと。

 その時は、できなかったけれど……チャラいやつだとは絶対に思われたくなかったから。



 リビングのフロアランプは一つだけ灯されていて、控えめな暖色の明かりに彼女の頬が照らされている。

 和樹は目を細め、腰をかがめて手を伸ばした。指の腹で、頬を撫でる。

 今は、その頬に涙はなかった。エンディングを見る前に、眠ってしまったのだろう。

「ただいま……ゆかりさん」

 額に、キスを一つ。

 妻からは、すうすうと健やかな寝息が返るのみだ。


 ソファにことりと横たわるをじっと見つめる。

 ああ、本物だ。

 二日ぶりの妻にしみじみ感動して、ゆかりの額に自分の額をくっつける。

 髪の間に手を差し入れると、清潔な香りがした。


 海外勤務後に改めて喫茶いしかわに通うようになっても、なかなかゆかりは和樹のアプローチに気が付かなった。


 彼女はある意味強敵だった。

 だから、彼女の興味を引くものが必要だったのだ。

 彼女に関する知識を総動員し応援してくれる周囲にリサーチし、その中から一番口実に使えそうなものを選んだ。それが、『ニュー・シネマ・パラダイス』。

 絶妙なタイミングでデジタル・リマスター版が上映されることを知ったとき、和樹はまだ見ぬ神に感謝した。柄にもなく。


「でも……だって、知らなかったんだ」

 妻の寝顔に向かって囁く。


 彼女が好きな映画を餌にして連れ出したけれど、それがどんな内容なのか、和樹は知らなかった。

 見たことがなかったし、今までは興味もなかった。


 だからあんなに泣かれるとは、夢にも思わなかったのだった。



 眠る彼女の髪を撫でて、指を絡める。

 白いナイトウェア、ショートパンツからすんなりと伸びる白い足に唇を這わせたかったけど、さすがに今はやめておこう。

 ラグの上にあぐらをかく和樹のそばに落ちている足首を軽くつかむ。


 ゆかりの足の指先を彩るのは、恋人になってすぐに和樹が贈ったネイルポリッシュだった。

 喫茶いしかわに勤務するゆかりの手の爪に色が乗っているのを見たことは一度もないが、足の指はいつも綺麗に彩られていることを知ったからだ。

 コーラル・ピンクのネイルポリッシュは、『マイ・ダーリン』というコレクション名だった。


 ゆかりの小さな足の指をひと撫でして、そこでぐっと自重する。

 これ以上は、もう。眠りの邪魔をしたくない。跡をつけて、のちのち彼女に叱られるのも嫌だ。

 ため息を付いて、和樹はそっと彼女を抱え上げた。


「ん……」


 腕の中で小さく彼女が息を漏らし、長いまつげが震える。

「かずき、さん……?」

「いいよ、寝てて」

「おかえりなさい」

「ん、ただいま」


 もう一度額にリップ音を立ててキスすると、ゆかりがくすぐったそうに笑った。

 少々足癖が悪いが、スリッパのつま先でリビングの扉を開ける。完全に閉まっていないが、ゆかりを抱えて通るには少し狭かったからだ。


 寝室のベッドは、和樹が選んだクイーンサイズのもの。マットレスも上質だ。

 ゆっくりと華奢な肢体を横たえると、ピローミストの香りが鼻孔をくすぐった。


「シャワーに行ってくる」

 耳元で囁くと、ゆかりが腕を伸ばして和樹の頭を抱いた。

「よしよし。お疲れさまでしたね」

 半分寝ぼけた、舌っ足らずの声に、和樹は笑う。

「……まったくだよ」

 ゆかりは、和樹の髪を撫でながらくすくすと笑った。


 歳上の男を掴まえて(正確には掴まって)、彼女は時々、なんというか世話を焼きたがる。

 この上なく、和樹を甘やかすのだ。

 年端もいかない少年を、腕の中で庇護するように。


 面倒見が良いのはもともと知っていたけれど、こういう方向で自分にも発揮されるとは思わなかった。

 たまに天然から外出先でやられるとさすがに苦言を呈すけれど、二人きりのときはゆかりの好きにされている。なにせそれが、けして嫌ではないから参っているのだ。

 自分でもときに辟易するほどプライドの高い、この僕が。


 名残惜しいが再び寝息を立てた彼女から離れ、一旦バスルームに向かう。


 結婚後もゆかりは喫茶いしかわに勤務しているが、明日から二日は休みのはずだ。いつも和樹が完璧に把握しているゆかりのシフトに変更はないはずだし、自分も明日から二日間の有休をもぎ取った。


 今日は彼女を両腕でしっかりと抱いて眠ろう。

 そしてたっぷり朝寝をして、晴れていたら散歩にでも出かけたい。


 近くの公園のキンモクセイが見頃だと昨日ゆかりからメールが来ていたので、一緒に見たい。

 香りを楽しむなら早朝だが、まあ、そこはいい。朝寝の誘惑には抗いがたい。


 最近では、苦しくて飛び起きる夢をもう見なくなった。目覚めても、呼吸の仕方を忘れるような真っ黒な夢はもう遠い。


 仕事の合間に取る仮眠はある意味「気絶」で夢も見ないし、夢を見るほど穏やかに眠れるのは彼女の傍だけだからだ。

 そして夢の中でも、和樹の世界にはゆかりがいる。

 夢の中のゆかりは、あるときは明確で、あるときは茫洋としているが、それでも彼女の存在は近く感じるし、それは和樹をこの上なく安堵させる。

 和樹の眠りを守り、心地よい呼吸の仕方を教えるものだ。


 コルクをひねる。

 熱いお湯に全身を打たれながら、和樹は少し笑った。


 「寝ても覚めても」とはまさにこのことだ。


 彼女の居ない、世界では。


「もう、息もできない」


 数年前の自分がこれを聞いたら、「正気じゃない」というだろう。それはとても正気じゃない。まったく認められない、と。

 心底軽蔑し、そしてこの上なく怯えた顔で。

 まったく同意だ。


 女一人にほだされ守られ生かされて、呼吸の仕方まで教えてもらう。

 そんな今の己を嘆く過去の和樹を、洗い流していく。


 視界の端に、緑が映る。

 バスルームには、アグラオネマが飾ってあるからだ。

 マンションだから窓がないバスルーム。ここでも育つ、耐陰性の強い植物をゆかりが選んだ。

 深夜に帰宅することが多い和樹の心を、少しでも癒すように。


 夜目の効く和樹は、ゆかりの就寝後に帰宅すると電気をつけずに部屋の中を歩き回ることも多いが、浴室ではさすがに明かりをつける。

 だから浴室にも緑が必要だと、ゆかりが主張したのだ。


 ゆかりはなるべく和樹がリラックスできるようにと、心を込めて部屋を整えてくれている。

 観葉植物やルームフレグランス、ささやかな花などで。

 和樹が一人で生きていたころ、この世界に無いも同然だったものだ。


 いつか彼女に「いいお嫁さんになる」と言ったが、予想以上だ。彼女は、和樹には過ぎた妻だった。


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