53 浮かれるしかないパワーワード
新婚時代のおのろけ話です。
「結婚しましょう、ゆかりさん!」
開口一番、ダイニングに入っていくなり、思わず発言してしまった。
「……はぁ?」
いそいそと夕食の皿を並べていたゆかりさんが怪訝そうに頭を傾げる。
「もう結婚してますよ、和樹さん」
「……そうでした」
およそ一週間ぶりに帰宅することができた僕は、つい三ヶ月前に籍を入れた妻の指摘に頭を掻いた。
「やだわ、和樹さん。私、そんなに奥さんぽくないですか?」
「それはない!」
そう、それはない。出逢った頃から見慣れた彼女のエプロン姿ではあるが、店と自宅で見るのは違うのだ。なんせリアル僕のお嫁さん、である。妄想の俺の嫁、ではない。
「むしろ、その……」
夫らしいことができているのかどうか。
僕の方こそ、まったく自信がない。
「うふふ、良かったぁ。せっかく結婚したのに、自分の旦那さまに“奥さんぽくない”なんて言われたくないですもんね」
自分の旦那さま。
なんというパワーワード!
海千山千と渡り合って仕事をしている僕をもってしても、可愛い妻からの言いように崩れ落ちそうになる。
さすが僕のお嫁さん。大事なことなので、もう一度。さすが僕のお嫁さん。
僕の精神は、それこそ玉鋼の如く鍛え上げたはずだったが、今この場においては見る影もなくふにゃふにゃである。職場の上司部下同僚その他諸々の諸氏が見たら、驚愕などというレベルでは済まないくらいだろう。
明日は雨どころか雪が、いや槍が降るんじゃないかと本気で心配しそうである。
もっとも見慣れすぎた挙句、ついに表情が固定化されるに到った者が約一名いるが、それはまあこの際どうでも良い。
「明日は私もお休みの日ですから、和樹さんの好きなものきちんと作ります。ですので、今日はちょっと手抜きでごめんなさい」
連絡くれたら奮発して買い物してきたのにと、プクッと頬を膨らませてみせるゆかりさんに、いやいや十分ですと笑いながら和樹はテーブルに着いた。
可愛すぎてそのまま抱き締めたくなるのを必死に抑えながら。
僕が久しぶりの自宅風呂を満喫している間に彼女が用意してくれた膳は、手抜きと言いながらも十二分に立派なものだった。
炊き立ての白いご飯に、あおさの味噌汁。主菜はたっぷりのせん切りキャベツを添えた豚薄切り肉の生姜焼き。副菜は小松菜のからし和えに、鶏肉とセロリの柚子胡椒和え。トースターで焼いた絹揚げには、粗めの大根おろしと青ねぎの小口切りを添えてある。ゆかりさんのおばあ様直伝だという自家製ちりめん山椒は、いつでも素晴らしい飯の友なので、僕としてはあるだけでテンションの上がる、嬉しい一品である。
「なら明日の朝食は僕が作るよ」
いただきますと手を合わせ、僕はさっそく鶏肉とセロリの柚子胡椒和えに箸を伸ばした。この柚子胡椒もゆかりさんのお手製である。
初めて振る舞われたとき、「柚子胡椒は、もちろん市販品もありますけど、わりと手軽に作れるんですよ。冷凍しておけば色も鮮やかなままですし」と朗らかに告げてくるゆかりさんに惚れ直したのは自然の摂理だろう。
やっぱり僕のお嫁さん最高!
「え~、せっかくのお休みなのに。ゆっくりしてくださいよう」
向かいの席に着いたゆかりさんの眉がハの字に下がる。
「一緒にいられるの久しぶりだし」
「もうっ、すぐそうやって甘やかす」
「リクエスト受け付けますよ」
僕は絹揚げにポン酢をかけ、大根おろしと青ねぎと一緒に口に入れた。
ん? このポン酢は食べたことのない味だな。
どこのメーカーだろうかとつい分析してしまう。しかし、単にトースターで焼いただけなのに旨いな、これ。絹揚げだからか、ポン酢のせいか。
「そうそう簡単に安売りしちゃっていいんですかぁ? わ、美味しそ」
「かわいい奥さん限定だから当たり前でしょ。いつだって大セール中。ほら、冷めないうちに食べよう」
歯の浮くような台詞をこともなげに言う僕を横目で見ているゆかりさん。
「それで、リクエストは?」
「う~」
ちょっと納得がいかないようだったが、食べたいという欲求には勝てなかったらしい。くやしそうに唇を尖らせたゆかりさんが、少々声のトーンを落として希望を伝えてきた。
「……フ、フレンチトーストで」
ほら可愛い。
ああ、かわいい。
「かしこまりました」
やっぱり結婚して良かった。
彼女を諦めなくて良かった。
へぇ~、新婚時代のおのろけ……って、これ、今でもやってるよね? と思わずツッコまずにいられない、うっすら中二病発動してそうな和樹さんの脳内が忙しいお話でした。




