538 あなたの卵焼き
お互いの好みを探り探りしていた新婚期間のお話。
昔馴染み。導いてくれた人たち。支えてくれた人たち。その中にいる自分は、笑顔だった。
それなのに、一人、また一人と消えていく。
なぜだ、なぜ僕を置いていくんだ。
待て、どこに行く。
行くな、行くな、行くなーーっ!
「……さん! 和樹さん!」
目の前には心配そうに顔を覗き込む、愛しい妻の姿。夢、だったのか……。
「大丈夫ですか? すごいうなされてましたけど……」
「あ、ああ。ごめんね。僕何か言ってた?」
「いえ何も……。ただ、とても苦しそうでした」
忘れることはない。
さっきの夢に出てきたのは、最期に会うことができなかった人たち。
彼らは死の直前、何を考え、何を伝えようとしたのだろうか。
「あの、和樹さん……?」
先程と同じ、心配そうな表情で名を呼ぶ妻を、僕は何も言わずそのままベッドへ押し倒した。
乱れた息を整えていると、疲れ果てて眠ってしまった妻の姿が目に入る。
結局あの後、自分の欲望の赴くままに求めてしまった。これ以上、大切なものを失うのが怖くて。身も心も、自分に閉じ込めて、離れないようにしたくて。
目の前の温もりを、手放せなかった。
「身体を重ねることが繋ぎ止めることだなんて、子供かよ僕は……」
そう呟くと、眠っている妻を離すまいと強く胸に抱きしめ、自分も深い眠りについた。
翌朝目が覚めると、いつもは隣にいるはずの妻がいなかった。
おい、嘘だろ……まさか……っ!
「ゆかり!」
「うわ! びっ、くりしたぁ……。もう! 朝から脅かさないでくださいよう!」
「……あ、ははっ、ごめんごめん」
「どうしました? また何か、怖い夢でも見ちゃいました?」
「いや? 足腰が立たなくてどこかで倒れてるんじゃないかって心配になってね」
冷静を装い、にっこりと微笑みながら答える。
「〜〜〜〜もうっ! 早く顔洗って着替えてきてください! 朝ごはんできてますよ!」
顔を真っ赤にしながらぷりぷり怒る妻を見て、どうやら上手く誤魔化せたようだ、と一人ホッと胸を撫で下ろした。
「いただきます」
「いっただっきまーす♪」
想いを通わせて少し経つが、こうやって向かい合って朝食をとる機会はなかなかない。
今日の朝ごはんは僕の身体を気遣った和食中心の食事。ありがたく頂いていると、ふと違和感を感じた。
「ん? なんか甘い?」
「あ、もしかして和樹さん、卵焼きしょっぱい派でした?」
「しょっぱい派? ってことは甘い派もいるってこと? 僕、だし巻き一択だと思ってた。甘いのっておかずになるの?」
「えー! 嘘ぉ! 運動会の日の、お弁当の卵焼きは絶対甘いやつって決まってるのに!」
なぜ運動会……というツッコミは飲み込み、もう一度卵焼きを口に運ぶ。
確かに甘い。今まで自分が食べてきた卵焼きとは全然違う。おかずになるかと聞かれたら正直何とも言えないが、これが彼女の味だと思うと、急に愛しさが込み上げてくる。
「うん。甘いのも美味しいよ。ゆかりさんの味だと思うと嬉しい」
「そうですか? でもだし巻きの方が慣れてるなら、やっぱり次からはそっちにしますね!」
次、という言葉にビクッとなった。
次、が本当にあるんだろうか。
こんな平和で優しい朝を、また迎えることができるのだろうか。
初めて、幸せすぎて怖いという言葉を実感したかもしれない。
険しい顔でもしていたのだろうか。
妻はゆっくりと箸を置き、真剣な眼差しで言った。
「私も、やっぱり行った方が良いでしょうか」
「…………はっ? え、何が? え……?」
僕の前からいなくなろうとしているのか? まさか、この世からとかじゃ……いや彼女に限ってそんなこと……。
じとりと冷や汗が滲む。
「え? 料理教室ですよ。だって和樹さん、今、私のごはんの味が合わなくて、困っていたんじゃないんですか?」
「…………ぶっ……はははっ、あはははっ!」
「もーっ、さっきから怖い顔したり笑ったり、なんなんですか? ちょっと和樹さん、聞いてます?」
ありがとう、ゆかりさん。
君のおかげで救われたよ。
自分が死ぬのは怖くない。
でもゆかりさんを遺して逝くのは怖い。
自分の命なんて惜しくない。
でもゆかりさんを悲しませないためには、命を無駄にはできない。
「……僕にも人間らしい感情があったんだな」
「えぇ? もう今日の和樹さん訳分かりませんよ! ははーん、さてはロボットになる夢でも見ましたね? そーですね?」
なんて、想像の斜め上をいく彼女の話を聞きつつ、僕は残りの卵焼きを食べた。
甘い卵焼き一択になるまで、僕はそっちに行ってなんかやらないからな。ゆかりさんの料理がどれほど美味いか全力で自慢してやる。それまで待ってろよ。と、心の中でそっと呟きながら。
3月10日なので、ついこんな話にしてしまいました。




