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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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536 if〜正夢に変わるまで~

 同僚期のゆかりさんにちょこっと自覚を芽生えさせたら。

 忙しない年の瀬。小雨から雪へと変わった生憎の天気模様。

 同僚からの「夜道は危ないから送ります」の言葉に素直に甘えることにしたゆかりは彼と二人、粉雪がそぼ降る歩道を歩いていた。


「そういえば和樹さん。年が明けたらね、鏡開きの日に商店街のイベントでお餅をついてくれるそうですよ」

「へえ、楽しみだな。今回は途中で交代して僕もついてみようかな」

「はい。私も、合いの手役に立候補してみようかな」

「ええ。君とならきっと息が合うと思うので是非」


 年の瀬だからか遠くの歩道にも人影もなく通り越していく車も見当たらない。

 もう何年も前から喫茶いしかわで働いているかのように周囲に馴染んでいる和樹だが、去年の冬にはまだ在籍していなかったのでこうして来年の話をするのは初めてだった。

 手袋をしていても悴む指先に、朝のテレビで話していた天気予報を思い出す。

 今週末までずっと雪マークが並んでいた。人混みに大雪なら年末年始に帰省する人たちはさぞ大変だろうと思ったことを思い出す。今年は実家には元日の挨拶だけすることにして、ゆっくり自宅で年を越すことにしている。


「それではゆかりさん。良いお年を」

「はい。和樹さんも良いお年を。また来年お会いしましょうね」


 別れの挨拶をする前に小さなくしゃみをしていた同僚に「上がっていって温かいお茶でも飲んでいきませんか」と誘おうと思ったが途中で止めた。

 和樹と自分はただ仲のいい同僚で、それ以上でもそれ以下でもない関係だ。

 何より性の匂いを感じさせない彼と話していると安心するし居心地がいい。

 彼に料理を教えてくれたという幼馴染みは、本当は彼女あるいは元カノではないかと疑ったのは、きっと和樹が自分にとってもう一人のお兄ちゃんみたいな存在だから。

 和樹が勤務中にスマホで綺麗な女性の写真を見ていたのをたまたま目撃してムッとしたのも別に嫉妬なんかじゃないし。


 玄関を開けて、ヒーターのスイッチを入れる。

 ベランダから見えた同僚の姿はなぜか夜闇に溶けずに輝いて見えた。



  ◇ ◇ ◇



 熱くなった頬を押さえた看板娘は冷蔵庫に貼っていたシフト表を見て、深い溜め息を吐いた。

 溜め息の理由は昨夜見た夢を思い出したから。

 一富士二鷹三茄子が夢の中で見たら縁起のいい順番だと言うけれど。

 三つの中のどれも掠りもしなかったどころかとんでもない初夢を見てしまった。

 まさか和樹さんと……うあぁぁ。


 という理由でしばらく彼と顔を合わせたくないのだが、マスターには何と言い訳すればいいだろうか。

 インフルエンザにかかってしまった……と言ったら母が押しかけてくるので三時間以内にバレる。

 じゃあ、お兄ちゃんが風邪を拗らせて看病しないといけないとか?

 でもその理由だと休めるのはせいぜい二、三日。というかそもそも、その状況ならマスターは息子に連絡しないはずがないから結局すぐに嘘はバレる。

 だいたい、元々思っていることが顔に出やすいゆかりは嘘をつくのに向いていない。

 それにマスターに架空の病気話を告げるのも気が引けるし。

 ここは正直に和樹さんと私がシフト被ってる日、何日かでもずらせないかマスターに相談した方がいいよね。

 パン、と自身の右の頬を軽く手で叩いた看板娘はマスターに連絡すべく携帯を手に取った。




 そう。彼は何も悪いことなんかしていない。

 避けているのは自分の都合で、時間が経つにつれて罪悪感がふつふつと湧き、ゆかりの身を焦がしていった。

 初夢を見た日からどうしてもシフトが動かせず彼と被ってしまった日には、一日中張り付いた笑顔で対応していたが不自然過ぎたかもしれない。


 案の定、その日の休憩時間に同僚から

「僕、ゆかりさんに何か失礼なことしましたか?」

 と悲しそうな顔で言われた看板娘はただただ首を横に振るしかできないでいた。

「SNSが大炎上していて。だから鎮火するまでは私たち、少し距離を置きましょう」


 彼から物理的にも精神的にも二重に離れたらこの熱もきっと消えて大丈夫になる筈だ。

 ちなみに炎上しているのは本当だけど大炎上ではなく少々焦げ付いている小炎上くらい。

 半分だけついた嘘に心がざわつくけれど、頭の回転も早く聡い彼から理由もなく逃げ回るのは無理だと思ったのだ。

「SNS。そうですか」

 それはどう見ても納得していない顔をしている和樹から逃げ回る日々の始まりだった。




 またあの夢を見てしまった。

 本当にどうかしている。深夜にベットで目を覚ましたゆかりはふるふると自分の頭を横に振りながら身を起こしていく。

 スマホを開くとまだ明け方で少し気を緩めたらまた瞼が落ちていきそうだった。

 今日は休みだから二度寝しても問題はないのだけど喉が妙に渇いている。

 立ち上がると水を飲みにリビングへと向かった。


 向かう途中でチャイムの音が一つ、聞こえて足を止める。

 こんな時間に誰だろう。部屋を間違えたのかそれとも空き巣が中に誰かいるのか確認しているとか。

 玄関ドアまで足音を立てずに歩き、おそるおそるドアスコープを覗いた先に男が一人いた。


「こんばんは。それともおはようございますかな。こんな時間に男を入れたら不用心ですよ」

 奇しくも男は初夢の中で見た男と同じ顔つきをしている。

 とろりと熱を帯びた瞳に自分を捕らえて薄く笑う形のいい唇に目が離せなくなって。

 おかしいな。自分の家なのに逃げなきゃと思うなんて。


 夢と違うのはスーツに身を包んだ彼がいつになくやさぐれた雰囲気で私の頬に触れていき、お行儀悪く足で扉を閉めたことだろうか。

 逃げないと、なのに逃げたくなくなくなったのはどうしてだろう。

 頤を同僚に掴まれた私は目を伏せていく。

 彼により鍵が内側から掛けられる音が宣告のようにガチャン、と鳴り、それから先はほぼ夢で見た通りのことをした。




「ゆかりさん。喉、渇いたでしょう。水どうぞ」

 とある理由から指一本動かすのも無理なくらい消耗している私は寝室で彼から水を飲まされていた。

 それもコップは使わず、彼の唇を通しての水分補給。

 和樹さんの声も姿も夜の気配が強くて何より漏れ出ている大人の色香に頭がくらくらしてちっとも頭が働かないでいる。


 ゆかりは強く思う。性の匂いを感じさせない同僚なんて幻だったと。

 初夢よりもスゴい経験をしてしまったかも。

 彼の肩に頭を凭れた看板娘は今日が休みで良かったと心の底から思っていた。

 この話の和樹さんはどう考えても淫魔(苦笑)

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