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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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527 エンジェルショット

 和樹さんが長期海外出張後、改めて喫茶いしかわに通い始めて少し経った頃のお話。

 カクテルに映るシャンデリアがゆらりと揺れた。けれどそっと視線を上げた先、カウンターの頭上にある照明は危なげなく固定されている。揺れた形跡は見当たらない。はて、と首を傾げそうになったゆかりに、隣から声が掛かった。

「それ嫌いだった?」

「……あ、ううん。飲んだことないからめずらしいなって」

 満面の笑みを浮かべるような返答ではなかったはずなのに、へにゃりと口元が緩んだのが何となくわかる。あれ、おかしいな。わたし、そんなに飲んだっけ。眼前にあるグラスにゆかりはまだ触れていなかったが、中に潜むシャンデリアがまた揺れた。揺れるというよりわずかに渦を巻くようなカクテルの水面に、一瞬だけ持ち上がった疑問が呑まれていく。気分が悪いわけではないからいいか、とゆかりはひとり納得した。チョコレートの風味をまとったカクテルを一口含むと、なめらかな甘さが喉に落ちる。口当たりがいい。アレキサンダーっていってたっけ、と脳内で会話を巻き戻そうとしたが、ぼんやりとした思考では確証は得られなかった。


「俺達さあ」

「うん」

「委員会が重なってたからよく喋ってたよな、懐かしい」

「あっ……そっかぁ、そういえばそうだったねえ」

「うわひどくね? ま、石川らしいっちゃらしいけど」

 ゆかりの返答に気を悪くした様子はなく、隣に座る元同級生も機嫌はいいらしい。先程からにこやかにおすすめのカクテルを勧めてくれてもいる。「同窓会」という枠でくくられた集まりは、同じ校舎で過ごした思い出に紐づけて、そこに集まった人々に対して無条件に親しみを感じさせるものなのだろう。おそらくあの頃と変わらない会話の弾み方に、流れてた年月の長さが薄れていく心地がする。

「俺さ」

「うん」

「同じクラスだったとき石川のことちょっといいなと思ってて」

「えー?」

「今彼氏とか、いたりすんの?」

 シャンデリアの揺れが止まった。一瞬だけ。ふわふわと軽くなっていたようなヒールの爪先にも重力が戻るような感覚に、ゆかりは開きかけた口をわけもなく閉じる。

「……今は靴下猫のことがいちばんかなあ」

「ってことはいないんだ」

 そういえば、とゆかりが話題を変えようとするよりも、着地点が先程と同じになる方が早かった。

 あはは、と何に対してかわからない笑みがこぼれた。さっきまで会話の隙間にたえず落ちていた笑い声から、少しずつ陽気な感情がはがれていく。ひょっとして、と少し酔いがさめた頭がゆるやかに回り始める。もしかすると、ナンパみたいなことをされてるのだろうか。けれどここは二次会の会場で、一応友人たちもいるはずで、それになにより、隣に座る元同級生には彼女がいたんじゃないだろうか。一次会のとき、そんな話題でからかわれていたのがたまたま聞こえていたのだ。


「俺もいないんだよね、正確には三日前に別れてさ」

 自分の考えを否定するために思い浮かべていた保険のひとつは、あっけなく崩された。そうなんだ、と返した声の色に困惑が滲んでいなかっただろうか。こういうノリは、少し苦手だ。隣でグラスに浮かぶ氷がカラカラと回る音を聞きながら、周りの様子を窺った。完全な貸し切りではないため、一般客に混じってちらほらと見覚えのある姿が見える。それなりに仲の良かった同性の友人もいた。友人たちに声を掛けることを盾に、さりげなく会話を打ち切れればそれでおしまいなのだろう。けれどそうするには、やや距離が遠かった。カウンターの端になんか座るんじゃなかったと後悔したところで、思考がおぼつかなかった過去は変わらない。

「だからさ」

 いっそ、多少不自然だとしても笑ってごまかして友人のところにいってしまおうか。でもこれは冗談の一種だとしたら、変に意識して断って、同窓会の空気を少し悪くしてしまったら。袋小路に辿り着いてしまった思考が行き場をなくして、指先に自然と力がこもる。その力が入りすぎたのか、ゆかりが手に持つ細いグラスの中で一際高く氷が鳴った。


「あ、それもうすぐ飲み終わりそうじゃん。違うの注文する?」

「えっ、いや、まだ飲み切ってないから……」

 慌てて否定する。会話が逸れたようなのはよかったが、また注文されてしまうのは会話が長引くのと同じ意味だ。飲み終えれば、それを理由に会話を切り上げることもできる。それにだんだんと胃の底と喉に温度が上がるような心地を実感してしまうと、これ以上飲む気にもなれなかった。けれどゆかりの言葉の裏側にある心中を掬い上げることなく、隣の男はからりと笑った。

「いーよいーよ、なんなら奢るし。どれにする? スクリュードライバーとか、アンバサダーとか」

「──彼女には、エンジェルショットのライム付きがおすすめですよ」

 その声は、真横から差し込まれた。ゆかりだけが持っていたはずのグラスに、誰かの手が添えられている。ゆかりのそれより日に焼けた色の指。スーツの袖が見える。

 シャンデリアが止まった。今度こそ、完全に。


「か……っ」

「こんばんは、ゆかりさん。迎えに来ました」

 しばらくぶりに会った友人──和樹は、そう言って綺麗に微笑んで見せた。



  ◇ ◇ ◇



 おぼつかない手元で揺れる、白茶色がやけに鮮明だった。

 科学的根拠のない法則にらしくもなく悪態をつきそうになったのは、その色が和樹の持つ知識と結びついてしまったからだ。トーストが落ちたとき、大抵はバターを塗った面が下にくる。悪い想像の余地があるものは、悪い想像のようになる。


 久しぶりにドアベルを鳴らした喫茶店で、看板娘の不在を知らされたときからかもしれない。

「同窓会なんだって。ずいぶんお洒落してたよ」

 と上乗せされた言葉でコーヒーの渋さと苦みが増した。腕時計に視線を落とす。十時過ぎ。解散してもいい頃合いだ、という思考の隅に、もし二次会なんてものが存在すれば、と浮かんで泡のように消えた。

「さっきシフトの連絡を送るついでに様子を聞いたらさ、今から二次会だって言ってたんだよね。帰るつもりだったけど、友達に引きとめられたみたいで」

 表情には出さなかったが、舌に留まる苦さを飲み干せなかった。コーヒーを飲んでいるのに喉が渇く。和樹という客に会話を差し出しているというより、ひとり言を並べるようにマスターは続ける。

「さすがに帰りはタクシーみたいだけど、こんな世の中だしね。心配しちゃうよねえ」

「……僕が迎えに行くべきだと?」

「いいや? 従業員のプライベートに口を挟む権利はない……というか、今の和樹くんに至っては従業員でもないからね」

 穏やかでいても、芯の通った口調だった。年齢の重みだろうか。ただね、とマスターは微笑んだ。ドアベルを鳴らした和樹が店内を見渡すより先に、ゆかりはもう上がったよ、と告げた声と同じように言う。

「和樹くんは、迎えに行きたいだろうと思ってね」



 会話に割り込む、という行動は、和樹がマスターに教えられた店のドアをそっと開いたときには予定していないものだった。

 遅い時間だといえども仲の良い友人同士で談笑する最中であるなら。あるいは、元同級生以外の結びつきを持たなそうな相手であっても昔話に花を咲かせているだけであるのなら。店内にゆかりがいることだけを確認して、電話なりメッセージなりで遠回しに迎えに来たことを伝えればよかった。

 迎えとして違和感のない理由はいくらでも考えつく。わざわざ目立つ行為をする必要もないのだから。

 そう、必要はなかったのだ。

 ドアを開いた先で見つけた彼女が、どう解釈しても異性と二人だとは思えず、手の中でレディーキラーを頼りなく揺らしていなかったのならば。こうでなければいい、という想像を丁寧になぞったような現状だ。マーフィーの法則の説明は、理論だけで十分だというのに。


「こんばんは、ゆかりさん。迎えに来ました」

 八つ当たりじみた感情を表に出すことはせず、和樹は息を吐くように笑った。目を丸くしているゆかりが持つグラスを取って、和樹の方に寄せる。

 カウンターチェアを離れたヒールの爪先が床に届くのを見届けてから、隣に座っていた男を見た。たじろいだ肩、泳ぐような視線。心中を想像するには容易い。冷ややかでいて、真冬の空気がちりちりと燃えるような不快感が胸をよぎった。

 けれどアルコールの香りとほのかな薄暗さが薄いベールとなって日常を隔てる空間には、深度が様々な会話が漂っている。その中には好奇心の延長で和樹たちの様子を窺う囁きもあった。鋭い視線を向けることは簡単だが、それでは囁くような会話を長引かせてしまうだけだろう。和樹の思考は一瞬で、次にはゆかりに向けたような笑みを男に形作っていた。

「ご友人の方ですよね? 実は彼女の身内に迎えを頼まれまして……ご歓談中でしたのにすみません」

「は……い、いえ、いや、お気になさらず、全然」

 しどろもどろ、が人の姿をすればこうなるのかもしれない。芯などない軽薄な口調が、男の舌の上で崩れていく。

「か、和樹さん、あの、迎えって」

「ああ……お兄さんからの言伝は後で伝えます。車、つけてしまってるので」

 合わせて、と男には聞こえないほどの声量で囁くと、ようやく和樹がこの場に来た意図に気づいたらしく、こくこくとゆかりは頷いた。




「──わかりましたか?」

「……はい」

 あの後。多少は目立ちつつも、そつなく二次会を抜け出せた先で。

 久しぶりの挨拶を交わす間もなく、アルコールの危険性をこんこんと説教され、ゆかりは神妙に頷いた。話に耳を傾けていたのが助手席でなければ、正座でもしそうな殊勝さだった。困惑こそ浮かべていたものの、理解不能だという表情をしないくらいには自分の置かれていた状況の危うさを理解したらしい。普段の快活さは身を潜めて、反省の色がゆかりの瞳を満たしている。彼女の住むマンションが目前なこともあいまって、和樹はゆるやかに話を切り上げることにした。助手席に収まる小さな背丈を、これ以上縮こまらせたくなかったという理由もある。


「カクテルの話はこれくらいにして。あとは、ああいう相手には警戒心を持っておくべきです」

「ああいう?」 

「ゆかりさんに気がある素振りをしてた彼みたいな」

 間の抜けた声を上げたゆかりが、戸惑いを引きのばしたように口を開く。

「う、いや、あれは恋愛対象としてというか、冗談を言い合う友達として」

「身内や気の置けない友人でないなら変わりはないですよ」

 警戒はするに越したことはないです、と念押しした和樹の笑顔に圧を感じ取ったのかは定かではないが、ゆかりはまた神妙にこくこくと頷いた。

 タイミングを計ったように、覚えのあるエントランスの前で車が停止した。


「そういえば、あの……エンジェル……ライム?」

 思い出した、とでもいうように、車から降りて歩くゆかりの視線が持ち上がった。

「あれはどんなカクテルなんですか? 初めて聞きました」

 首を傾げたゆかりに、和樹はそっと息を吐く。そういえば、そんなことを言った。エンジェルショットのライム付き。鮮明な白茶色と、薄っぺらく並べられるレディーキラーに冷ややかな不快感を味わったときには、するりと口から零れていた単語。


「さっき色々教えてくれたカクテルの中には出てこなかったし」

「まあ、存在しないので」

 訝しげな視線が隣から刺さる。エレベーターではなく階段を使っているのは、色々食べたから、とゆかりが歩きたがったからだ。高さの違う二人分の靴音が反響する音を聞きながら、和樹は少しだけ口元を緩めた。

「一種の暗号みたいなものです。エンジェルショットのストレート、ロック、ライム付き……意味合いは多少変わりますが、一緒にいる異性のことで店側に助けを求めるためのものなんです。日本ではあまり浸透してないサービスでしょうし、仮にさっきの店にこのサービスがあったとしてもこのカクテル名ではないでしょうけど」

 暗号、と呟く声が聞こえた。響きに惹かれたのか、少し弾んだ声色だ。

「じゃあライム付きはどういう意味にあたるんですか?」

「……警察を呼ぶ」

「ええ!? えっと、あの、警察を呼ぶまでのことをされたわけじゃ……あれ? 警察?」

 はっと言葉を途切れさせたゆかりは、やや顔を青くする。

「まさかわたし、そんなに危険な状況だったんですか?」

「……どうでしょう?」

「……?」

 ゆかりが首を傾げたところで、ほんのわずか、ふらりと揺れた小柄な体躯を和樹は支えた。足を踏み外すようなものではないが、やはりアルコールは完全に抜けきってなかったらしい。

「わ、すみません」

「いえ。心配性でよかったです」

「うっ……」

 少し気まずげにゆかりは視線を逸らした。階段を使うゆかりを気遣って玄関まで送ることを申し出た和樹に、心配性ですね、と笑っていた発言を思い出したのだろう。


 ゆかりを少し支えた以外は特に何事もなく辿り着いたひとつのドアの前で、ゆかりはくるりと和樹に向き直った。

「迎えに加えて、ここまで送ってもらってすみません。ありがとうございます」

「次からは気を付けてくださいね」

「はい! ……マスターにもお礼言わないとですね。私を心配して和樹さんに頼んでくれたんですから」

 とゆかりがひとりごちる。和樹は視線をかすかに落として、そうしてまたゆかりへ戻した。

「マスターには頼まれてませんよ」

「……え? でも、和樹さん、マスターに私のことを聞いたって」

「聞いたのは、そうですね。でも迎えに行ったのは僕の意思ですよ」

「……同じようなことじゃないんですか?」

 戸惑いがみてとれる声に、和樹は初めて笑みを空気に乗せた。

「僕がゆかりさんを迎えに行きたいと思ったから行ったんです。ひとりきりで帰したくなかった」

「えっ、そうなんですか……?」

 おずおずとこちらを窺うゆかりの耳に大ぶりのイヤリングが揺れている。マンションの照明の下でも映えるフォーマルなワンピースを、和樹が見たのは今夜が初めてだ。普段は見ない着飾った格好が、似合っているからこそ面白くない。だから、回りくどくてわかりにくい言葉で、君がどうか困ってくれたらいいのにと浮かぶ。

 大人げない思考だと理解した上で、和樹は「それにね」と意味深に言葉を発してから身を屈めてゆかりの耳元に唇を寄せた。

「……あのカクテルを、僕がおすすめするのはゆかりさんに対してだけですから」

 エンジェルショットはざっくり、こんな感じ。

・ストレート→出口へエスコートを頼む

・ロック→帰宅用の車を呼ぶ

・ライム→警察を呼ぶ


 雑学の一つとしてそこそこ有名な話なので、店によっては違うカクテル名を付けていたり、全然違うワードを使ってたりするかもしれませんね。


 当時の、モテないから彼氏いないんだと思い込んでるゆかりさんの危機感はさほどないのです。




 余談ですが、いま、『王妃に求めるただひとつの』という中編を投稿中です。

 あと1週間くらいで完結するので、気が向いたらお読みいただければ嬉しいです。

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