524 百一回目のオムライス
和樹さんが喫茶いしかわの同僚になった頃。
喫茶店の軽食と聞いてあなたは何を想像するだろうか。
例えば辛子マヨネーズがアクセントのサンドイッチ、熱々のグラタン、それから具だくさんカレー。好みはあるだろうがそれらを好む人はマジョリティと言えるだろう。甘いケチャップ味のナポリタンも忘れてはいけない。そして同じくケチャップライスが特徴的なオムライスも……。
これはそんなオムライスに翻弄された、ある男の話である。
喫茶いしかわはコーヒーもさることながら軽食も非常に人気があった。名物は看板娘の作る豚汁とマスターの作るナポリタンだが、隠れた人気メニューがある。それがオムライスだった。
石川ゆかりはケチャップライスをフライパンで熱されている卵の上に乗せ、慣れた手つきでくるみ、でき上がったそれを皿に乗せる。艶のあるたまごが美しい、昔ながらのオムライスが完成した。
「上手いもんですね」
感心したように和樹は横からフライパンの中を覗く。彼は半月前、喫茶いしかわにアルバイト(仮)として入店したばかりであった。
「最近ようやく慣れてきたところです。最初の頃のオムライスなんてとても人様に出せるような代物じゃなかったですよ」
「いやいや、ご謙遜を」
「本当ですってば。そういう和樹さんはきっとオムライスも綺麗にできちゃうんだろうな」
ゆかりはオムライスに自家製トマトソースをたっぷりと乗せ、トレーにアイスコーヒーとサラダ、そしてカトラリーを用意すると笑顔で和樹へ手渡した。
「はい、どうぞ召し上がれ。大盛りにしてあります」
これが和樹の今日の賄いだった。今はまだ簡単な軽食しか任されていないが、彼も喫茶いしかわの店員ならばいずれはこのように美しいオムライスを作らなければならないのだ。
薄いたまごのヴェールにスプーンを入れれば中からは色ムラもなく炒められたケチャップライスが顔を出す。大盛りでも破れることなくたまごに包まれているのはまさしくプロの技だ。
「ゆかりさん、美味しいです」
喫茶いしかわのオムライスは美味いと話には聞いていたが確かに文句なしに美味い。スプーンは止まらず、大盛りのオムライスはあっという間に彼の胃の中に姿を消した。
「和樹さんもそろそろオムライスの練習してみますか? 喫茶いしかわの秘蔵レシピを教えますよ」
「本当ですか? それはぜひ教えてもらいたいです。早く僕も一人前の店員としてバリバリ働きたいですから」
その言葉の半分は偽りである。本職もあるし、早く一人前になりたいと思う気持ちはそこまで強くはない。しかしオムライスのレシピを教えてもらいたいという気持ちは本物である。それくらい、いま作ってもらったオムライスは美味かった。
「さすが和樹さん、店員の鑑ですね!」
ポテンシャルの高い後輩ができたことが嬉しかったのか、ゆかりは早速レシピが保存されたファイルブックからオムライスのページを抜き取り、コピーしたものを和樹へ手渡した。
特別な材料が使われている訳ではないのに、いま食べたものは家庭的なようであり違う。家庭では出せない店の味がした。彼はじっくりとそのレシピを見つめ、笑顔でゆかりに礼を言った。
「ありがとうございます。早速練習してみます!」
彼は言葉通り帰宅後、早速キッチンへと立った。
メモを見ながらまずはケチャップライスを作ってみる。丁寧に炒めた玉ねぎの甘さとケチャップは相性が良く、いま作ってみたものは今日ゆかりが作ってくれたものと比べるとやや酸味は残るが初めてにしては及第点をやれる出来だと思った。
しかし、問題は別の工程にあった。
そう、肝心なのは卵である。たまごの綺麗な黄色でこのケチャップライスを破れないように巻かなければならない。大抵の人間がつまづくポイントはここだろう。無論、それは彼とて同じだった。
正直なところ、彼は高を括っていた。繊細なフレンチや懐石料理ではなく、家庭料理の定番とも言えるオムライスだ。何回か作ってみればすぐにできるようになる未来しか見えなかった。自分の作った完璧なオムライスを見て同僚のゆかりが拍手して喜ぶ顔が目に浮かんだ。
しかし、現実はそう甘くなかった。
冷蔵庫のたまごを使い果たした挙げ句、テーブルを埋め尽くしたのは炒り卵乗せケチャップライスという面妖な代物だった。
彼を援護する訳ではないが味は決して悪くはないのだ。目を瞑って食べれば多少は食感が悪くても立派なオムライス。しかし、いくら味が良くても見た目がこれでは到底客に出すことはできない。となれば同僚のゆかりにコツを教えてもらいレクチャーしてもらうのが一番手っ取り早いのだが、普段の器用さも相まってオムライスくらいさっさと簡単に作れるようにならなくてはと考えてしまう彼のプライドがそれを許さなかった。
その日から彼のオムライスに翻弄される生活が始まった。
喫茶いしかわにいる時はこっそりとオムライスを作るゆかりの手元を見て視覚から技を学んでいた。本業でデスクワークをしている時はパソコンに付いたマウスですら小ぶりなオムライスに、仮眠用の黄色のブランケットさえ薄焼たまごに見えていた。それを掛けて寝るのだから当然夢の中でもオムライスに迫られる悪夢を見てしまうのだ。
こうして寝ても覚めても頭の片隅からオムライスが消えず、今の彼にとって赤といえばケチャップと即答できるほどに侵食されていた。
「時間との勝負だからこそ焦らない。たまごで慌てない」
訳の分からないことを呟きながらその日も彼は朝からオムライスを作っていた。
初日に比べたらだいぶ見られるものにはなっていたがまだ火の通り方がまちまちであり、納得のいく代物ではなかった。これまで失敗した回数は五十回を超えてからは数えていない。ただし、ケチャップライスの完成度に関してはプロ顔負けとも言える腕になったため、せめて味変をとバターライスにチェンジしていた。
「和樹さん、オムライスの方はどうですか?」
ゆかりは客足の落ち着いた店内で和樹に問う。なんでも卒なくこなす年上の後輩はすぐにコツを掴み既に自分よりも上手にオムライスを作れるようになっているだろう、と安易な気持ちで視線も向けずに言葉を放った。その瞬間、ゆかりは確かに感じた。彼のどこか普通ではない視線を。
「あの、私何かまずいこと言いました……?」
「いえ、毎日のようにオムライスと顔を合わせているのでオムライスに対して少しナーバスになっているだけです」
「オムライス相手にナーバスって……」
ゆかりは引き攣った笑顔を悟られないよう咄嗟に俯いた。まさかここまで真剣にオムライスに向き合っているとは思っていなかったのだ。
「あの、和樹さん。客足も落ち着きましたし良かったらオムライス作ってもらえませんか?」
「良いですけど、ゆかりさんが作ったものには遠く及びませんよ?」
「そんな弱気なんて和樹さんらしくないですよ!」
さあさあ、とゆかりは和樹の背中を押し、キッチン台の前へと連れて行くとテキパキと材料を用意し始めた。ここまで来てしまえば彼はここでオムライスを作る他ない。大丈夫、自分はこれまで一生分のオムライスを作ってきた。きっとうまくできるはずだと自分を鼓舞した。
調理が始まった和樹の手元を見ること数分。ゆかりは不思議そうに口を開いた。
「和樹さん、それケチャップライスじゃないですよね?」
「え?」
しまった、と和樹は顔を覆った。つい、いつもの癖でケチャップライスではなくバターライスを作ってしまっていたのだ。謝った後に作り直すと言えばゆかりは首を横にブンブンと音が聞こえそうな程勢いよく振った。
「ぜひそのまま作ってください! 和樹さんの作ったバターライスのオムライス食べてみたいです!」
香りの良いバターライスはあっという間にでき上がった。肺の奥にまで届くよう、深くその香りを吸い込むとゆかりは恍惚とした表情を浮かべる。これは絶対に美味しいやつ、と味の想像をすると彼女の胸は高鳴ってしかたがないのだ。
「さて、問題はここからです。ゆかりさん、どうやら僕はたまごの扱いが少々苦手なようです。変なところがあったら遠慮なく言ってください」
和樹はたまごをボールへ三つ割り入れ、丁寧に溶きほぐしていく。熱されていくフライパンはそろそろたまごを入れてもいい頃合いとなっていた。ゆかりは息を飲みながら彼の動向を見守っていた。
和樹は迷うことなく、絶妙のタイミングでボールの中のたまごをすべてフライパンへ流し入れた。ジューッと心地良い音がキッチンに響く。出だしは完璧だ。
「たまごは扱いが難しいからこそ火を入れると焦りたくなる。でも、焦りは禁物……でしたよね? ゆかりさん」
「たまごに火が通り過ぎるのでここに関しては少し焦りましょうか」
同意を求められても困る、とゆかりは何の他意もなく笑顔で否定した。当然、悠長なことを言っている間にたまごへどんどん火が通っていく。炒り卵にならずに済んだものの、完成したものは少し火が通り過ぎて食感が悪くなっていた。
完成品を前に和樹は“また失敗しちゃいました”と笑顔を見せた。失敗とは言うがゆかりはその完成品に目を見開いた。
「お疲れさまでした和樹さん。確かにたまごは少し硬いかもですけど、それ以外は完璧です! 食べてみても良いですか?」
ゆかりは大きなカレースプーンを片手に目をキラキラとさせながら今にも飛びつかんばかりにオムライスを見ていた。さっきからバターの香りにゆかりの腹がきゅるると情けない音を立てていたのだった。
「はい、どうぞ召し上がってみてください」
「いただきます!」
待ってました! と湯気の出るオムライスを頬張る。
火が通り過ぎたたまごとの一体感こそなかったが、中のバターライスはそれ単体でメニュー化できるほど絶品だった。それはゆかりが作り方を教えてほしいと懇願するほどに。しかし、完璧なオムライスを仕上げることができず、和樹の心にはどこか霧がかかっていた。
「にしても和樹さん、この短期間でここまでできるようになるってすごいです。何回くらい練習したんですか?」
何回くらいかと聞かれても覚えていないが七十は軽く超えているのは確かだった。
「さぁ、五十から先は数えていないので分かりませんが、もしかしたら百くらいいってるかもしれませんね」
「百!? ……本当に和樹さんは勉強熱心ですねぇ、尊敬します」
「次は完璧なオムライスをゆかりさんにご馳走しますね」
「じゃあこれは記念すべき百一回目のオムライスってことにしておきましょうか」
ゆかりはオムライスを頬張り笑みを浮かべながら、脳内ではバターライスオムライスの新メニュー入りを冗談ではなく本気で考えていた。
「じゃあ二百回目もぜひゆかりさんが食べてくださいね」
美味しそうに食べるゆかりの顔を見ていると、二百回でも三百回でもオムライスを作り続けられるような気がしていた。
今夜もオムライスを作ってみよう、火の通りやすいたまごは少し焦るくらいで。
和樹がオムライスに翻弄される日々はまだまだ続く。
その後、和樹さんの薄焼き卵オムライスのスキルは「一定レベルはクリアしたけどゆかりさんに軍配が上がる」レベルになりました。
その頃には薄焼き卵で包むよりふわとろオムレツを乗せるタイプのオムライスの方が(あくまでも和樹さん基準で)手軽に上手く作れることに気付き、またゆかりさんを筆頭に女性ウケが良く喜んでもらえることもあり。
そのうち二人が揃っているときは、薄焼き卵はゆかりさん、ふわとろは和樹さん、という分担ができあがりました。
でも実は和樹さん、たまに薄焼き卵のオムライスを作ってはゆかりさんレベルに届かないことをこっそり悔しがっているという……笑。




