523 彩りフルコース
仲の良い同僚だった頃のふたり。
窓の外で空がオレンジと濃紺のグラデーションを描く中、ドアベルがカランという音を立てる。この色とこの音の重なりは喫茶いしかわの、少し早めの営業時間終了の合図だ。最後のドアベルは、この店の看板娘が店頭看板を両手に抱えて店内に戻ってきたことを僕に知らせてくれる。
「ゆかりさん、今日この後時間あったりしますか?」
「大丈夫ですよ。久しぶりにご飯でも食べに行きますか?」
忙しかったからお腹減っちゃった、とはにかむ様子に、これからの作戦が成功することを確信した。
「いえ……新メニューを考えてみたので、もしよければ……」
言い終わらないうちに、みるみる彼女の顔が明るくなっていく。ぱあっと灯っていく笑顔は、いつも僕の心までも温かくしてくれる。
「それは味見する人が必要ですね! もう、仕方ないなあ……私が試食してあげます!」
予想通りの反応に、内心ほくそ笑む。ゆかりさんは食べることが好きな人だ。彼女の食べっぷりと、その時の蕩けるような顔を見ていると、こちらまで食欲がわくような、一方でその姿を見るだけでこちらが満腹になってしまうような、不思議な感覚に陥ってしまう。
「何かお手伝いしましょうか?」
「いえ、大丈夫ですよ。ゆかりさんはのんびりしていてください」
「それじゃあ、明日資源ごみの日だから、バックヤードで段ボールまとめてますね」
「よろしくお願いします」
彼女の姿が店内から消えたことを確認し、すぐさまキッチンを出る。カウンター席を通り過ぎ、テーブル席へ。手にしていたクリーム色の布をばさりと広げてテーブルにかけた。その上にフォークとナイフを並べ、グラスをセットする。最後に、レジ横の小さな花瓶を拝借し、テーブルの端へ。即席のディナーテーブルの完成だ。
普段、昼や夜の賄いは、カウンター席でささっと済ませてしまうが、今夜は特別。たまにはこういう日があってもいいだろう。
「えっ、これどうしたんですか? お店みたい!」
ゆかりさんはいつの間にかフロアに戻ってきていたらしい。喫茶いしかわだって立派な店だろうと、その反応に笑いそうになりながらも、どうやら喜んでくれているらしいと少しだけ安心した。
「じゃあそういうことにしましょうか。レストラン和樹の開店です。お客様、どうぞこちらの席にかけてお待ちください」
椅子を引いてやれば、彼女は新しいおもちゃを与えられた子供のように、たれ目がちの瞳をキラキラとさせている。慌てたようにピンクのエプロンをはずした彼女は、腰を下ろすとそわそわと落ち着かないようだ。
「まずは一杯目をどうぞ。ノンアルコールのシャンパンです」
「え? これどうしたんですか?」
「この間、知り合いからいただいたんです」
……まったくの出まかせだ。今日これから出す料理に合うようにと、甘さ控えめのものを自分で選んだのだ。朝から喫茶いしかわの冷蔵庫でこっそり冷やしていたのだが、気づいていなかったらしい。
シュワシュワと泡を立てる金色の液体が、細めのグラスに注がれていく。グラスの半分程度注いだところでボトルの傾きを正した。待ちきれないという視線を痛いほどに感じ、「どうぞ」と告げれば、細い手がそのグラスを持ち上げる。
「ん、おいしい」
「お口に合ったみたいでよかったです」
僕が優しく笑顔を作れば、それに返事をするように、ゆかりさんもふわりと優しく微笑んだ。
彼女のグラスが半分くらい減った頃合いに、用意していたトレイを手にフロアへ向かう。
「まずはこちら、小エビのサラダでございます」
「うわあ、おいしそう!」
「バゲットもありますのでよろしければどうぞ」
食べやすいように切り分けたバゲットをいくつか入れたかごを、バターと共に目の前に出してやる。さながらフレンチやイタリアンのようだ。
「バゲットのお供に、よろしければスープも」
今日のスープはコーンスープ。滑らかな舌触りになるまでよく煮込み、最後にクルトンと、スプーンひとさじの生クリームを。
黄色と白のコントラスト、そしてサラダの緑や赤。テーブルの上が鮮やかに彩られ始めた。
次の料理の準備をしながら彼女の様子をうかがっていると、へにゃりと笑って幸せそうにフォークやスプーンを口へ運んでいる。たまに、おいしい、と呟いたかと思えば、隠し味を当てようとしているのか、真剣な表情で口をのぐもぐと動かしたりもしている。
見ていてまったく飽きない。家でもこうやって嬉しそうに食事をするのだろうか。彼女のことだから、お気に入りのぬいぐるみにでも話しかけながら食事をしているのかもしれない。
自分の頬が緩みっぱなしなのがわかるが、当分の間、この表情は戻せそうにない。料理をする手も自然と軽くなっていく。
「本日のメインディッシュは、チキンソテーのバジルソース添えでございます」
次は何が出てくるんだろう、と上半身を伸ばして視線を送る彼女の元に、今日のメインディッシュを運べば、今日一番の目の輝きを見せてくれた。
皮はパリパリ、中はしっとりジューシーに焼き上げた鶏肉が、皿の上で食べてほしそうに湯気を立てている。その中でふわりと香るバジルが、食欲を刺激する。
ゆかりさんは、その柔らかい塊にフォークとナイフを丁寧に入れて、パクリと一口頬張った。相変わらず一口が大きいなと微笑ましくなってしまう。
「和樹さん、すごくおいしいです! でもこれ、全部おしゃれで……うちのメニューに合いますかね?」
「確かに。今回はテーブルセッティングまでしてしまったので、ちょっと雰囲気が合わなかったかもしれませんね。料理だけで見れば決して豪華なメニューではないと思うんですが……」
「そっか。今日はレストランみたいだから……。ワンプレートにしてみたり、定食っぽく案内すれば、喫茶いしかわのメニューには合うかも!」
ふんふんと納得したように、また一口。一口食べるごとにおいしいと反応してくれる。それがわざとらしくもなければ大げさでもない。純粋にこの時間を楽しんでくれているのがわかり、自分の心が一気に温かくなっていくのがわかった。
さて、最後の仕上げだ。冷蔵庫で冷やしていたものを取り出し、ガラス皿にそっと乗せる。用意していた挽きたてのコーヒーをゆかりさん専用のマグカップに注ぐ。
「食後のコーヒーと、季節のフルーツを乗せたタルトをどうぞ」
「え……これ……」
タルトの上に乗せられたものを見て、ゆかりさんは驚いたような表情を見せた。やっと気づいてくれたか。まあ、ここまで気付かないのもゆかりさんらしくはあるが。
彼女の視線の先には、チョコレートでできた小さなプレート。そこにホワイトチョコで書かれたメッセージは、もちろん……。
「はっぴー、ばーすでー……って、書いてある……」
「やっと気づいてくれましたか。今日はゆかりさ……」
「わかりました! これ、誕生日用のコースメニューの試食だったんですね! バースデーケーキの用意できないかって聞かれること、たまにありますもんね! 昨日もそんな電話いただいたし。……うん、確かに、コース料理ってのもアリかもしれませんねぇ。今度マスターに提案して……」
思わず頭を抱えてしまった。いや、ゆかりさんらしくはある。ここまで気づかないのもゆかりさんらしいと、たった今思ったばかりじゃないか。
「……ゆかりさん」
「はい」
彼女はと言えば、こちらの気持ちなどおかまいなしに、嬉しそうに首をちょこんと傾けて、こちらを見上げている。
「今日は何日ですか?」
「え? 今日? えっと……」
「もう一つ聞きますね。ゆかりさんの誕生日はいつですか?」
「私の誕生、日……あ!」
向かいの椅子を引き、僕はそのまま腰を下ろした。
「お誕生日おめでとうございます、ゆかりさん」
「え、じゃあ、今までの料理って……」
「新メニューの試食、というのは嘘です。ショッピングセンターで色々とプレゼントになりそうなものを探してはみたんですが、女性への贈り物を選ぶのは難しくて。大したものではないのですが、僕からの誕生日プレゼント、ということで……」
彼女の誕生日が近いと気づいた時、いつも迷惑をかけっぱなしの彼女に、何か贈ろうと思った。でもこの関係は、長期海外出張が確定してるのだから近い将来消さなければならないだろう。それならば、消え物を。例えば食べ物とか、ゆっくりできる時間とか、そういったものであれば……。それが和樹の判断だった。
「何言ってるんですか! 忙しい和樹さんの時間をもらえるなんて、すごく贅沢じゃないですか!」
試食だと思ってたから夢中で食べちゃった、もっとじっくり味わえばよかった、と聞こえたかと思えば、何かにハッとして僕の顔を覗き込んできた。
「和樹さんの誕生日も教えてください! お返ししたいし」
「僕の誕生日ですか……もう三十になっちゃいますからね、祝うようなものじゃないですよ」
僕にとって自分の誕生日は、記念日でも何でもない。今日のゆかりさんと同じで、忘れていることの方が多い。思い出したとしても、またこの一年も何とか生き延びた、そんなことを思うだけだ。
「……この一年も無事に生きられた」
「え?」
「それだけで十分祝う価値があると思いませんか? 元気に生きてるってすごいことなんですよ!」
きっとゆかりさんは、食べることがただ好きなのではないんだと思った。いや、食べることが好きなのは間違いないんだろうけど。
そうではなく、ご飯がおいしいとか、よく眠れたとか、天気がいいとか、今日も元気でいられるとか、そういった日常の些細なことに、明るい色をつけられる人なのだ。彼女を取り巻くその色は、ゆかりさん自身にも明るい色をまとわせる。彼女がまぶしいのは、きっとそのせいだ。
……今の僕には、いささかまぶしすぎる。
「さ、ゆかりさん。遅くまで付き合わせてしまったので家まで送ります。片付けちゃうので、帰り支度してきてください」
「ごちそうになったんだから片付けくらい……」
「レストラン和樹はお客様に後片付けなんてさせませんよ」
「じゃあお言葉に甘えて。無銭飲食で訴えないでくださいね」
バックヤードに戻る小さな背中を見送る。バタンとそのドアが閉じられたことを確認し、ふふっと一つ笑みをこぼした。
「お代はもう余るほどにもらってますから」
ぽつりと吐き出した言の葉は、泡と共にシンクへと流れていく。反対に、いつか彼女に誕生日を祝ってもらいたいという思いが小さく火を灯す。
「和樹さん、片づけ終わりました?」
「はい。荷物とってくるので少し待っててください」
「そうだ和樹さん! まだちゃんと言ってなかった!」
何だろうと首をかしげる。すると、弾けんばかりの声色が、僕を取り巻くすべてを揺らした。
「誕生日祝ってくれて、ありがとうございました」
荷物を手に、店内の電気を消す。一瞬で暗闇に包まれたはずなのに、胸のどこかで小さな明かりが灯っているようだった。
◇ ◇ ◇
「あ! ブランくん! これはだめ! 和樹さんの誕生日ケーキに使うんだから!」
足にまとわりついて生クリームを狙う愛犬と格闘すること十分。ほら、と新しいおもちゃをリビングに投げれば、ようやく足元を離れてくれた。
「やだもうこんな時間! 急がないと!」
「はは、ブランに邪魔されたのか。ゆっくりでいいよ」
まだ聞こえるはずのない声が鼓膜を揺らし、思わず生クリームの入ったボウルを落としそうになる。
「か、和樹さん? 予定より早くないですか? まだ準備できてないです!」
「ゆかりさんに早く会いたくて。手伝おうか?」
「大丈夫です。祝われる人はのんびりしててください!」
そのやりとりに、懐かしい記憶がふと頭をよぎる。ボウルをキッチンに置き、心の中でふふ、と笑ってしまった。
「和樹さん、レストランゆかりの開店……いえ、開店準備中です。どうぞおかけになってお待ちください」
いつだったか自分がされたように椅子を引けば、何かを思い出したように笑って座ってくれた。和樹さんの自然な笑顔は、いつも見惚れそうになってしまう。
「このレストランは、僕の好みのデザートを置いてくれてるのかな?」
「今、頑張ってケーキ作ってるので! 和樹さんの好きなショートケーキ! あとは生クリーム塗ってデコレーションするだけですよ」
「あぁ、それも好きだけど」
椅子に座っていたはずの彼がその腕を伸ばしてくる。ぐいと腕を引かれてバランスを崩すと、和樹さんの胸に飛び込む形になってしまった。耳元で、吐息が漏れるのが聞こえる。それがとてもセクシーで、恥ずかしくなってしまい顔を上げることができない。
「最後のデザートにゆかりさんを食べたいな」
耳から移動した口元が、頬に当てられる。ざらっとした熱が押し当てられ、そのままぺろりとなめられた。顔がかあっと熱くなる。
「な、なにするんですか!」
「ん? ほっぺに生クリームついてたから美味しそうだなと思って」
「もう! これ以上変なことしたら、最後のデザートはなしですからね!」
ちょうどいいタイミングで、チキンの香ばしい匂いを振りまいているオーブンがピロリと音を立てた。慌ててキッチンに戻り、最後の仕上げに取り掛かる。
この一年元気でいてくれてありがとう、また来年もこうやって誕生日を迎えられますように。そんな思いを、たっぷりと込めながら。
スープはお野菜たっぷりのミネストローネだったり、バゲットじゃなくて白ごはんだったり。
少しずつ違いはあるものの、あのときのおもてなしを意識しているゆかりさんのメニューににやにやが止まらない和樹さん。
ごはんの後は(ゆかりさん自身はこういう言い方好きじゃなさそうだけど)たぶんこんなやり取りが続くはず。
「和樹さん。わたしと出会うために生まれてきてくれてありがとうございます(ニコッ)」
「(じーん)ゆかりさんっ(ムギュギュギュギューッ)僕と出会ってくれて、結婚してくれてありがとう! 僕はなんて幸せなんだ……っ!」
「ぐえっ! 和樹さん力強すぎ! わたしを捩じ切らないで! 緩めて緩めてえぇぇっ(腕をぺしぺし)」
「ごめん(腕の力をちょっと抜く)嬉しすぎてつい(すりすり)」
「もう、仕方のないひとですねぇ(なでなで)」
これで和樹さんは前後1週間くらいご機嫌でいてくれる……かもしれない(笑)




