516―2 落とされたのは僕(中編)
「和樹さん、どうぞ入ってください」
インターホンを鳴らすとドアが開き、玄関に入ると可愛らしいスリッパが用意されていた。三十路近い男が履くには少し抵抗があるものの、せっかく用意してくれた彼女の厚意に感謝し喜んで足を入れた。
「じゃあ洗濯物お預かりしますね」
「本当にすみません、助かります」
「大丈夫ですよ! わっ、結構重いですね」
見た目よりも遥かに重量感のある洗濯物を預かるとこれはやり甲斐があるとゆかりは腕まくりをした。
「今更ですけど和樹さんて洗濯洗剤にこだわりありますか? 私が普段使っているもので洗ってもいいですか?」
「こだわり?」
洗剤へのこだわりとは何だろうか、最近はどのメーカーもレベルが高いのだからどこの製品でも一緒ではないのかと和樹は考える。いつも自分は適当に目に付いたものを購入しているがゆかりは違うのかと。界面活性剤の含有量で決めているのか、それともグラムあたりの単価で決めているのか、選ぶ基準は分からないが粉末だろうと液体だろうと洗剤へのこだわりなどない和樹の答えなど決まっていた。
「こだわってないので何を使ってもらっても大丈夫ですよ」
「良かった、和樹さんいつも良い匂いしてるからこだわりの柔軟剤使ってるのかと思ってました」
ゆかりは和樹とのすれ違い様に感じる香りが好きだった。当然それが洗剤によるものだと確信していたのだから好みど真ん中のこの香りの柔軟剤を求めてドラッグストアを回って探したこともある。しかし一向に見つかることがなく、きっと一般的な安価なものではなく海外かどこかの高価なものを取り寄せているのだろうと思っていたのだった。
だからこそゆかりは和樹の言葉に驚きを隠せなかったのだ。
「柔軟剤は使ってないです」
「え!? 和樹さん柔軟剤入れてないんですか!?」
ゆかりは驚愕のあまり手に持っていた洗濯物をその場に落としてしまう。柔軟剤を入れずにその香りとは和樹さん恐るべし、と一緒にしゃがみ込みながら洗濯物を拾い集める和樹をチラリと横目で見た。
「僕が柔軟剤にこだわってたらめちゃくちゃ気持ち悪くないですか?」
「そんなことはないですけど、むしろこだわってる方がイメージ通りというか……」
「調味料には少しこだわるかもしれませんが、洗剤やシャンプー類は何もこだわってませんよ。一般的なものを使ってます。それよりも……」
洗濯物をすべて拾い上げて和樹はニヤリとゆかりを見据える。一見純粋な笑顔のようだがその中に見え隠れする悪戯っ子の気質を察知してゆかりは咄嗟に一歩後ろへ引いた。
「ゆかりさんは僕が纏う香りが心地良いと思ってくれていたんですか?」
ゆかりのすぐ後ろは壁。もう一歩後ろに下がろうとするも、かかとはそれ以上先に進むことを許されなかった。目の前の男は先程までの困惑した表情を一変させ、ゆかりの頭上で不敵な笑みを浮かべ続けていた。
「良い匂いを感じる相手とは遺伝子レベルで相性が良く本能的に惹かれるんだそうです。僕もゆかりさんの香りが好きです」
喫茶いしかわのカウンターで肩を並べるよりも更に踏み込んだ距離まで近づきゆかりの耳元で囁くと、ゆかりはその顔をこれ以上なく赤くした。
「遺伝子的には相性バッチリですね、僕たち」
「え、炎上します! いけません!」
ゆかりはそう一言だけ残し、大量の洗濯物を両手に抱えて和樹の脇をすり抜けた。
「あとは私に任せてください! 和樹さんは仕事があるんでしょう? 夜また取りに来てくださいね!」
まだ火照りの収まらない顔のまま矢継ぎ早に続けるとおそらく洗濯機が設置されているであろう脱衣場と思わしき部屋へと消えた。
「洗濯終わったら連絡します!」
ゆかりはそう言ったが和樹の前に姿を見せてはくれなかった。やれやれ少しやり過ぎてしまったかと和樹は苦笑したが別に彼の中に後悔などない。
「ではゆかりさん申し訳ありませんがよろしくお願いします」
気持ち大きめの声で言うと向こうからゆかりの返答が聞こえる。顔は見せてくれずとも声は聞かせてくれるならそれだけでもう充分だと顔も見えない相手に対し愛嬌たっぷりに笑ってみせた。
そうして彼は本業に邁進すべく安寧という概念のない世界へと旅立つのだった。
◇ ◇ ◇
「それはいくら何でも信用しすぎなのではないですか?」
頼れる部下は自動販売機で購入したコーヒーを片手にそう呟いた。
遡ること数時間前、和樹は本来あるべき顔を取り戻した。
本業の顔を取り戻してからというもの彼だけ時間の流れが三倍速なのではないかと錯覚する程に仕事に忙殺されていた。空気の張り詰まる会議を終えて彼は自身の右腕である部下と合流するとようやく一息つく。
「お疲れ様です、早速ですがご報告してもよろしいですか?」
しかし茶を飲む暇さえ与えず目の前で部下である長田は書類をチラつかせた。淡々と内容を述べる部下の顔には明らかに疲労感が窺える。まともな睡眠時間も得られていないと見た。
「以上が今回の報告です。まだこちらが動くのは時期尚早のように思いますが追加調査が必要であれば指示を」
「そうだな……しばらくこの件は泳がせておけばいい。それよりも今は君に休息を与えることの方が先決みたいだしな」
「そんな、自分はまだ大丈夫です」
「少し休憩しよう。僕も頭を整理したいところだったから丁度いいだろう?」
右腕に倒れられたら仕事のパフォーマンスが驚くほどに低下する和樹としては是が非でも休んでもらわねば困るのだ。
何の説得力もない顔で意見する長田も上司が休憩したいのだと言えば従わざるを得なかった。実際、不眠不休状態が続いており心身共に疲弊していたのだから全く悪い話ではない。
自動販売機前で硬貨を数枚入れて長田はいつものブラックコーヒーではなく鮮やかなブラウンをしたラベルのものを購入した。
「カフェオレなんて珍しいな」
「何となく甘いものが飲みたくなったんです。たまにありませんか?」
長田はプルタブを開けてひと口コーヒーを飲むとホッとしたような笑みを浮かべた。
「最近天気も悪かったでしょう? 家に帰れても溜まった洗濯物を片付けるのに精一杯でなかなかゆっくり休めなかったんです」
「洗濯物か……」
普通は自分で片付けるのが当然であって他人に任せるものではないのだ。一瞬でも溜まった洗濯物を長田に頼もうとした挙句に知り合いの女性からの申し出だったとしても洗濯を頼んでしまった自分の恐ろしさに和樹は返す言葉も見つからなかった。
「和樹さんは洗濯とか掃除とかどうしてるんですか?」
「……実は」
和樹はいたたまれない気持ちのまま包み隠さず長田に今日の経緯を話すと部下は最初こそ真剣な表情をしていたがそれを段々と崩していき、最後には苦笑いをしていた。
「それはいくら何でも信用しすぎなのではないですか?」
「僕も本当に魔が差したと思っているよ。でもゆかりさんは善良な一市民で悪いことが絶対に出来ない人間だと分かっているからついお願いしてしまった」
「善良な一市民なら……聡美さんでしたか? あの娘さんなら和樹さんの頼みを断るはずないと思いますが」
「いや、嫁が出て行って家事の負担が大きくなっている高校生にそんなことをさせられないよ」
「ふむ、成程。喫茶いしかわのウェイトレスの作ったものは口にできるし、溜まった洗濯も引き受けてもらえる、あとは住居を構えれば衣食住コンプリートという訳ですか」
和樹は想像した。同じ住居内に愛犬、そしてゆかりがいる生活を。これではまるで彼女を嫁にもらったも同然ではないのか。
こんもり盛られたご飯としゃもじを手に「今日はあなたの好きな炊き込みご飯を作りました。おこげもバッチリです」と笑うゆかり。
アイロンとハンガーを手に「ワイシャツにアイロンを掛けておきました」と笑うゆかり。
極め付けは両手をお腹にあてて「もうひとり家族が増えるのでもう少し広いところに引っ越しませんか?」と笑うゆかり。
「……悪くない」
「は?」
「然るべき時が来たらそれもいいかもしれないな。生活の三大要素である衣食住を任せられるゆかりさんを嫁にもらうのは悪い話じゃない。君もそうは思わないか?」
長田は同意を求めてくる笑顔の上司と同じように自身も表情筋を最大限に動かし、この上なく愛嬌の良い笑顔を見せ無情にも言い放った。
「ちょっと何言ってるか分からないです」
「なんで何言ってるか分からないんだよ」
逆に自分が何を言ってるのか理解しているのかという言葉をグッと堪え、長田は相当に疲れているであろう上司を早く休ませることが部下の務めだと悟った。
「和樹さん、今日はもう帰りましょう。都合が良いというだけで嫁になんて思考をあなたが持つはずがありません。たまには早く帰ってゆっくりお休みください」
「いや、気持ちはありがたいがまだやるべきことが……寧ろ君が帰って休んでくれ」
「糖分を摂取したので自分は大丈夫です。ここは任せて早く帰ってください」
「目を充血させながら何を言っているんだ。君が帰ってくれないか」
いや、あなたが。いや、君が。と両者は一歩も引くつもりがなくその場で押し問答を繰り広げるが決着が付くことはない。結局、その十分後には上司と部下が仲良く肩を並べて退勤したところで勝負はついた。時に男とは必要以上に頑固になるものなのだと彼らは身を持って教えてくれたのである。




