516―1 落とされたのは僕(前編)
ただの喫茶店同僚だった時期のお話。
どうしてこんなことになってしまったのか、彼はいま大量の洗濯物を携えて石川ゆかりの自宅前に立ち尽くしていた。
◇ ◇ ◇
ここのところ全国的に天気が悪い日が一週間ほど続き、鮮やかな色の傘たちが街中を彩っていた。その様はまるで四季の花をすべて同時に咲かせたかのごとく絵になる光景ではあったが、鼠色の空の下では誰も彼も止まない雨に辟易としていた。
しかしながら移動手段が車である和樹にとっては雨など多少視界が悪くなる程度の存在で、さして気に止む対象ではなかった。どんな悪天候も雲の向こうには必ず光が待っているのだから何も杞憂することはない。
だから雨など恐るるに足らないのだと彼はそう高を括っていたのだが事件は思わぬところで発生してしまったのである。
その日は久しぶりに朝から晴天となった。
外に出てみればキラキラとした光が地面に反射してつい眩しさから目を覆ってしまいたくなる。あちらこちらで"今日は絶好の洗濯日和"と聞こえてくる。少し汗ばむくらいに気温の高い今日は確かに洗濯日和、誰もがそう思うだろう。無論、彼もまたそう思い溜まりに溜まった大量の洗濯物を片付けてしまおうと近所のコインランドリーを訪れていた。
意気揚々とコインランドリーに着いたはいいが中に入ると、あまりの混雑ぶりにうっかり声が出そうになった。
場所を変えてみるも近場のコインランドリーは軒並み混んでおり待てど暮らせど空きそうにはない。きっと他のコインランドリーに行ったところで混んでいるのは同じだろうと和樹は頭を抱えた。仕事の忙しさと雨を理由に洗濯をしなかった自分が悪いのだから仕方がないが、この両手に余る洗濯物を今日中に片付けなければならないことを考えるとゾッとした。
(午後から会議が二件、その後は長田と合流して……)
和樹は自身の予定を思い返しながら洗濯物に目をやり、どう考えても今日中に片付かないことに気付いたと同時に今日洗濯ができなければ明日の着替えが一式ないという事実に戦慄が走った。何故もっと早い段階で洗濯機を回さなかったのか、"明日やろうはバカ野郎"とはまさにこのことではないかと過去の自分を罵倒した。
一瞬、自身の頼れる部下である長田という男が脳裏をよぎるがさすがにこんなことを頼めるはずがない。"自分はあなたの洗濯物を片付けるためにこの会社に就職したのではありません"と言われたら正論過ぎて返す言葉もない。彼は決して家政夫ではないのだ。
車内で考えること数分、明日の着替えは最早買うしかないという結論に至ると車のハンドルに影がかかる。いつの間にか車の外に人が立っていたのだ。一瞬顔が見えずに目を細めると、その人物の特徴的なほっこり笑顔がはっきりと視界を支配した。
「こんなところでお会いするなんて偶然ですね」
運転席の窓を開ける。隔てるものがなくなると彼女の声が車内によく響いた。喫茶いしかわの看板娘である石川ゆかりは助手席にある大量の洗濯物が目に入ると一瞬目を丸くするもすぐにいつもの笑顔に戻った。
「ゆかりさんはお買い物ですか? たしか今日はお休みでしたよね」
「久しぶりに晴れたので散歩してたんです。そしたら車の中でこの世の終わりみたいな顔してる和樹さんを見かけたのでつい声掛けちゃいました」
「え、僕そんな顔してました?」
「和樹さんのそんな顔初めて見たので結構新鮮でしたよ」
この世の終わりとまではいかないが確かに絶望的状況であることには変わりない。ここは大混雑のコインランドリーで助手席に乗っているのは大量の洗濯物。それを目にすればどんなに鈍感な人間だったとしても察しがつく。
「もし困りごとがあれば力になりましょうか?」
「いや、そんなゆかりさんの手を煩わせるようなことは……」
「良いお天気なのは今日だけで、明日からはまた雨降りの日が続くそうです。和樹さん、それ洗濯するなら今日しかないですよ」
ゆかりは助手席に積まれたものを指差すと、はからずも自分がそれを片付けると言い出したのである。困りごとの理由がバレていたことの恥ずかしさより驚愕の方が上回り、和樹はつい慌ててしまう。
「この量の洗濯物を片付けるとなったら一日がかりになってしまいます。ゆかりさんも予定があるでしょうからお気持ちだけで充分です」
「和樹さん、明日着る服あるんですか?」
「……ないです」
「今日は特に予定ないですから洗濯くらいどうってことないです。うち乾燥機もありますから今日中に終わりますよ」
和樹は悩んだ。彼女には兄がいるから男性の衣類は見慣れているはずで、こちらも特段見られて困るようなものはない。彼女の善意は大変にありがたいが嫁どころか恋人ですらない人間に溜め込んだ洗濯をお願いするなど些か厚かましくはないか。
「いや、でも申し訳ないですから……」
「和樹さん、あなたの本業も喫茶いしかわも接客業ですよ。清潔な装いをするのは当たり前です。そんな二日間同じ服なんてOLと上司が朝帰りのまま出勤して不倫がバレるきっかけみたいなことしないでください」
昼ドラであればその後に嫁が乗り込んできてどう転んでも修羅場が待ち受けている展開なのはともかく、正直なところ会社に缶詰めになっている時は二日どころか三、四日同じ服を身につけざるを得ないこともあるし、靴下に穴が空いても見て見ぬフリをすることもある。しかしそれらの行いは接客業のゆかりから見て許せないことだった。
もしも喫茶いしかわの客が清潔感と言われて空気清浄機の次くらいに和樹を連想しているのであれば尚更同じ服を二日も着ることは許されないだろう。
「ゆかりさん、本当にご迷惑ではないですか?」
「大丈夫です、和樹さんに二日間同じ服で出勤される方が迷惑ですから」
「じゃあ今日だけお言葉に甘えてもいいですか?」
「はい、お任せください」
そうと決まれば、と和樹は洗濯物を後ろへと移動させ助手席にゆかりを乗せた。ここからゆかりの自宅までは車であれば五分とかからない。普段であれば買い出し中の車内で世間話をするのが常なのだが今日に関してはそんな時間もなく、文字通りあっという間にゆかりの自宅前へと到着した。
「じゃあ車をパーキングに停めてくるのでゆかりさんはこちらで」
彼女を降ろすと和樹は近くの駐車場へと車を走らせる。幸いにもちょうど車が出て行ったばかりだったのか停めやすい場所が空いていた。慣れた手つきで車をバックで停め、両手いっぱいにズシリとした重さのある洗濯物を抱えて駐車場を出た。我ながらよくもここまで溜め込んだものだと思う。
歩くこと数分で到着したゆかりの自宅に来るのは初めてではなかった。とは言ったものの喫茶いしかわの営業後に何度か彼女をアパート前まで送っているだけであり昼間の明るいうちに訪れるのは初めてのことだった。
まさか洗濯をしてもらうため女性の部屋にお邪魔することになるとは思わず、どうしてこんなことになってしまったのか彼はいま大量の洗濯物を携えて石川ゆかりの自宅前に立ち尽くしていた。




