515 おねだりの作法
賑わう喫茶いしかわの店内でため息をつく男がひとり。その表情は憂いに満ちていた。
「お待たせしました。お好みで砂糖とミルクをどうぞ」
そんな男の前に静かに置かれるのは先ほど注文したブレンドコーヒー。男は運んできた店員の声を聞くとすぐさま顔を上げた。
「いっ……石川さん……」
ここは初めて訪れた喫茶店。しかし、目の前にいる店員のことを男は知っていた。この店員は男が所属する部署の上司であり絶対的なエース。男にとって憧れの存在であったのだ。
職場では決して見ることのない笑顔に男の背筋は凍る。
「……とりあえず椅子にかけてください」
勢いのあまり、大きな音を立てて椅子から立ち上がっていた男は店内にいた客の視線を一人占めしていることに気づくと、頭を掻きながら気まずそうに着席した。
「参ったな……まさかあなたがいる店だなんて」
小さくボソリと呟いたはずの言葉は店員の耳にしっかりと届いていたようで、間もあけずに貼り付けたような笑顔で和樹は口を開いた。
「お客様が何を言いたいのか僕には分かりませんが、ここは僕のバイト先です。僕はただのアルバイトですからお間違いのないように」
詳しいことは男もよく知らないが、目の前の人物が和樹であるとするならば、たしか彼の妻の実家が飲食店だと耳にしたことがあったはず。まさかこの店だったとは。
和樹は声色こそ柔らかいものの、言葉のところどころにトゲを感じる。和樹と面と向かって話をしたことなどなく、記憶を遡ってもせいぜい挨拶をする程度の関わりしかない。だが間違いなくこのトゲは和樹の持っているものであると男は確信した。
男は頭を抱えた。
つまりは自分が何気なく入った雰囲気の良さそうな喫茶店はプライベートの和樹に近しい関係各所のひとつであるという、ただそれだけのシンプルな話だった。たまたま数多ある飲食店の中でここを選び、たまたま和樹の出勤時間と来店時間が重なってしまっていた、という偶然の重なりにより発生した出来事なのである。
「お、お騒がせしました」
男はこれ以上関わるまいとコーヒーを思い切り口に含んだ。しかし、まだゴクゴクと飲める程の温度までは冷めていないコーヒーを飲んだ男はあまりの熱さに悶絶した。
「大丈夫ですか? そんなに慌てて飲んだら火傷してしまいます」
「……は、い」
和樹は男にグラス一杯の水を差し出した。カラリ、と氷の揺れる音は何とも涼しげで聴覚から爽涼感を感じ取れた。
「どうぞゆっくりしていってください。疲れた身体に喫茶いしかわのコーヒーは最適です」
和樹は一礼して男の前から去ると、それ以降は男に話しかけることもなくテキパキと喫茶店の業務をこなしていた。誰がどう見ても愛想の良い好青年は女性客の頬をいともたやすく染める。そこに、男が知る本来の彼の姿はどこにもない。もしかしたら、あの人には双子の兄弟がいるのではないかと錯覚してしまうほど見事だと思った。
そんなことを呑気に考えながらコーヒーを飲んでいた男だが、その翌日あの店員はやはり和樹だったのだと嫌でも認識させられる事態が発生した。
呼び出されたのだ、彼に。
人気のない会議室で、昨日の愛想の良い店員はどこへやら、店員と同じ顔をした人物は笑顔もなく男の前で腕を組んでいた。
「忙しいところすまないが、どうして君をここに呼び出したか分かるか?」
「昨日、自分がプライベートのあなたに接触してしまったから、です」
「半分正解ってところだな」
逆に他に何があるのかと男が他の理由を考えていると、唐突に和樹はスマホを彼の目の前に突き出した。カメラアプリが起動された画面には男の険しい顔が映っている。
「君は気付いてないかもしれないが、昨日、喫茶いしかわに来た君は今鏡に映るこの顔よりも怖い表情をしていて少し目立っていた」
「すみません……」
「疲れが溜まっているのは分かるが、自分が客観的にどう見えるかを考えながら意識的に表情を作った方がいい。昨日、その険しい顔のせいで喧嘩を売られたと勘違いした人と揉めそうになっただろう?」
「はい、その通りです……」
返す言葉も気力もなく、男が俯いていると和樹は本題はここからとでも言うように会議室の机に手を着いた。
「で、その顔の原因はなんだ?」
「え?」
「君は優秀で、本来はポーカーフェイスだと話に聞いている。そんな君があんな表情をしているということは何かあるんだろう?」
「いや、大したことじゃないんです。とても石川さんにお聞かせする内容では……」
しかし、それで食い下がるような人間ではないことを男はよく知っている。当然、彼の眉間には男の比ではない程の皺が寄る。
「いいから早く吐いてくれないか。今のままの君を取引先に出したら大なり小なり問題が起きることは明白。見逃すことはできない」
「いや、本当にくだらないことなので……」
「早くしてくれ」
「多分、石川さんの想像以上にくだらない話ですが……」
「しつこい、いい加減諦めてくれ」
男はため息を吐き、ぼそりぼそりと事の発端を話し始める。
「自分は、長いこと付き合っている彼女と同棲しているんですが……」
男の話によると、昨日の失態の原因は彼女との揉め事であり、すべては一昨日の夜から始まったのだという。
男は一昨日、早く帰宅することができたため彼女と夕食を共にすることになったという。彼女から「夕食は何が食べたい?」と聞かれたため、男は「カレーでいいよ」と言った。そこから彼女の態度が冷たくなったというのだ。
「何で彼女があんなに怒ってるのか分からなくて……」
「なるほどな……」
和樹は顎に手を当てて、男をチラリと見るとやれやれ、とため息をつく。
「そもそも君はカレーが食べたかったのか?」
「いえ、別に……。彼女も日中仕事をしているので、勤務後に手の込んだ料理は大変だと思って簡単にできるカレーをお願いしたんです。俺なりに気遣ったつもりなんですけど、何故かプリプリ怒ってて……倦怠期ってヤツですかね」
「君、料理しないだろ?」
「しないですね、せいぜいカップ麺かお茶漬けくらいです」
男がそう言った瞬間、和樹は両手を着いていた机から般若のような顔をして身を乗り出した。
「じゃがいもの皮を剥くことがどれだけ面倒か、玉ねぎを焦がさないように炒めるのがどれだけ大変か。灰汁を取り除いたり、煮込んだり、カレーでいいなんてそんなあっさり言われるほどカレーは簡単な料理じゃないって分かってるのか? 彼女にもカレーにも失礼極まりないだろう」
「は、はぁ……。何でもいいって言われるよりはいいかな、と思ったんですが」
「そういう気遣いができるなら伝え方を考えた方がいいんじゃないか? カレーでいい……では、しょうがないからカレーで妥協してやると捉えられても仕方ない。"カレーでいい"んじゃなくて"カレーがいい"、もしくは君の作ったカレーを食べたいと言えばカレーにデザートがついていた未来だってあったかもしれないというのに、本当に君は……」
「すみません……」
「謝る相手は僕じゃなくて彼女だろう。誠意を見せるのであれば"今日の夕飯は俺が作るよ"くらい言ってみたらどうだ?」
和樹はそういうが、男が作れるのはせいぜいお茶漬けかカップ麺。お湯を沸かして注ぐ程度のことしか出来ないのだ。勝手にキッチンに入って食材を無駄にすれば待っているのはいま以上に悪化する恋人関係。男は恐怖で血の気が引いていく。
「自分が作れる料理なんてたかが知れてます」
「僕も昔は料理は全然ダメだったんだが、ハマると結構楽しい。だから始まる前からそんなことを言わずにやってみるといい」
「和樹さんにも苦手なことがあったんですか?」
「そりゃあ、僕だって人間だから苦手なことだってあるさ」
「……善処します。それから彼女に謝ってみます。ご心配をおかけして申し訳ありませんでした」
男は頭を下げると、和樹は男の肩を励ますように二回叩く。男にとって、和樹と面と向かって話をしたのは今回が初めてだったが、彼が皆から慕われる理由が何となく分かる気がしていた。
二人が会議室を出てそれぞれの持ち場に戻ろうとした時、和樹は男を呼び止める。
「明日、昼前に時間があったら喫茶いしかわに来られるか? 僕が考案した和風たまごサンドや昔から人気のハムサンドをぜひ食べてほしいんだ」
「え? いいんですか? 石川さんの料理、食べてみたいです。必ず伺います」
男は翌日、言われた通りに喫茶いしかわへと足を運んだ。昼前とあってまだ店は然程混んではいなかった。ドアベルが鳴り、中へ入ると若い女性の明るい声が耳に入った。
「いらっしゃいませ、お好きなお席へどうぞ!」
昨日も入店時に接客をしてくれた女性店員だった。愛想も良く、店の看板娘と呼ぶにふさわしい彼女を周りの客が"ゆかりちゃん"と呼んでいた。老若男女が落ち着いたひとときを過ごしているこの喫茶店が、平凡とは無縁なイメージの和樹の義実家であるのはやはり男にとって違和感でしかなかった。
「昨日もご来店いただいた方ですよね? 今日も来てくださってありがとうございます」
「ここの和風たまごサンドとハムサンドが美味しいと聞いたので……また来ました」
嬉しいです、と笑うゆかりの笑顔に男は自身の彼女の笑顔を重ねた。客が数名しかいない店内で、男は今の時間であれば構わないだろうと隅の四人がけのテーブル席に腰を下ろそうとすると、背後から"お客様"と声をかけられる。当然、それはゆかりの声ではなかった。
「お客様、せっかくですからカウンターにお掛けになってはいかがですか?」
胡散臭い笑顔を貼り付ける和樹を前に断ることなどできず、カウンターの右端に腰掛けると和樹はあろうことか、ど真ん中の席を指定してきたのだ。
「ここが喫茶いしかわの中でも特等席ですから、どうぞ遠慮なさらずお掛けください」
「いや、そんな自分ごときが特等席に座っては他のお客さんに迷惑です」
「大丈夫ですよ、さぁ遠慮せずに。早く座ってください」
笑っているが目の奥には"手間をかけさせるな早くしろ"という言葉がくっきりと浮かび上がっている。お冷とおしぼりが既に用意された席へ腰を下ろすと、ものの数秒で噂のハムサンドが出てきたのである。
「こちらハムサンドです。和風たまごサンドは後ほど」
「ありがとうございます、恐縮です」
「お客様、お飲み物は何にしますか?」
和樹は男の前にドリンクメニューを差し出した。メインは当然コーヒーだが、カフェラテやカプチーノなど豊富なカフェドリンクが用意されているようだった。しかし、男は和樹に手間をかけさせる訳にはいかないと注文を遠慮したのである。
「いえ、お冷で大丈夫です」
「ふーん、お冷でいいんですね。お冷で。答えを変えるなら今のうちですよ」
お冷「で」と強調する和樹のこめかみがピクリと動き、男は自身の失言に青ざめた。散々、昨日お叱りを受けたはずなのに、この発言はまずい。男は慌てて「あなたにこれ以上の負担はかけたくないから水がいい」のだと言葉の真意を伝えるが、返ってきた言葉は、
「喫茶いしかわの自慢はコーヒーだと知っていてお冷で済ませるなんて冒涜です。舐めてるんですか?」
という肝の冷えるような一言だった。男は咄嗟にブレンドコーヒーが飲みたいと注文すると、こちらもハムサンド同様にものの数秒でゆかりが男の前にコーヒーをサーブした。
「和樹さんに頼まれたんです。きっとお客様はブレンドコーヒーを注文するはずだから準備しておいてくれって。こちら喫茶いしかわ自慢のブレンドコーヒーです、熱いので気をつけて召し上がってくださいね」
「昨日、あなたはブレンドコーヒーを注文していました。飲み物の選択を急かされたら十中八九、記憶にある味を注文すると思ったんです。それに新規の方はブレンドの様な定番商品を頼みやすい傾向にありますから」
どうして注文内容が分かったのか目をぱちくりする男と反対に至って平静に、さも当然かの様な口ぶりで和樹は解説をする。彼の観察眼は喫茶店でも存分に活かされているようだった。和樹の視線はふと、隣にいるゆかりに注がれた。
「さぁ、今のうちにゆかりさんも休憩に入ってください。ランチタイムのピークは二人体制で接客しましょう」
「いいんですか? 大丈夫であれば先に入っちゃいますね」
「どうぞどうぞ。手も空いてますし何か賄い作りますよ、何がいいですか?」
賄い、と聞いてゆかりの目は光が溢れ、キラキラと輝きだした。
「それなら、和樹さんがこの間作ってくれた冷製パスタが食べたいです! あっさりしてて美味しかったからまた食べてみたくって」
「それくらいお安い御用です」
「ありがとうございます。面倒な料理お願いしちゃってすみません。和樹さんの賄いは私たちの勤務が被る時の特権だから朝から楽しみにしてたんです」
「ははっ、ゆかりさんは嬉しいこと言ってくれますね。できたらバックルームに持って行きます。さぁ、ゆっくり休んでください」
ゆかりは店のエプロンを外しながら男にごゆっくりどうぞと一礼した。ゆかりの姿が店内から消えると、和樹は男がかつてみたことないほど、上機嫌な笑顔を見せていた。
「分かったか? 何が食べたいか聞かれた時の正しい対応方法は。流石はゆかりさん、百点満点だ。自分が食べたいものを明確に伝え、それに加えて賄いを作るという手間に対しての感謝の気持ちを伝える誠実さも忘れていない。更に僕が作る料理を朝から楽しみにしてたなんて言われて嫌な気持ちになる人間がどこにいる? どこにもいないだろう。現に僕はデザートにプリンをつけようと思う程度には気分が良い」
もしかしなくてもこの人、たぶん奥さんのゆかりさんて人にベタ惚れなんじゃないかと男が勘繰る程に目の前の上司は舌に油を塗ったかのように饒舌で、舞い上がっているように見えた。
「いや、でも自分口下手ですから、とてもあの女性のようにはうまくできません」
「できるできないじゃない、やるんだ。やる前から諦めるなんて情けない。長田を見習ってくれ。どんなに無茶な頼みでも彼はやる前から諦めたことなんてないぞ」
「長田さん……噂には聞いてます。推しのイベント中に呼び出されるなんて可哀想にも程があります」
「とにかく、君も自分の彼女と仲直りして心置きなく長田までとは言わずとも職務にあたってくれ。これは僕からのプレゼントだ」
和樹は男にテイクアウト用の喫茶いしかわの紙袋を手渡す。その中には二杯分のドリンクと和風たまごサンドやハムサンドをはじめ、喫茶いしかわの料理がぎっしりと詰められていた。
「彼女の機嫌取りにも喫茶いしかわの料理は有効らしい。さっさと仲直りして二人で食べてくれ」
「ありがとうございます、石川さん」
男は紙袋を抱き抱え、深く深く頭を下げた。自身の目の前にも提供されているハムサンドをひとくち食べると、彼女の喜ぶ顔が脳裏に浮かんだ。今度は二人でここに食べに来よう、男はそう決心したのだった。
「あれ? こちらにいたお客様、お帰りになったんですか?」
「えぇ、これから仕事みたいで食事が済んだら急いで出て行かれました」
「昨日から元気なくて少し気になってたんですよね。喫茶いしかわで少しは気分転換できたならいいんですけど」
ゆかりは休憩後、昨日より気になっていた客について和樹に訊ねる。あまりにも喫茶いしかわの雰囲気と真逆のオーラを放っていた男のことが頭から離れなかったのだ。
「彼なら大丈夫ですよ、ゆかりさんの淹れたコーヒーを飲んだら表情が柔らかくなりました。それよりも……」
隣に並び、仕込みをしていた和樹はゆかりへと一歩近づくと彼女にだけ聞こえる声で囁いた。
「今夜は久しぶりにゆかりさんお手製のカレーが食べたい気分なんです。どうか僕の我儘を聞いてもらえませんか?」
「カレーいいですね、ぜひ作りましょう! 最近和食が続いてたから、ちょうどいいですね。用意して待ってます」
「ありがとうございます。残りの仕事もゆかりさんのお陰で頑張れそうです」
「和樹さんは作り手をその気にさせる天才ですね」
二人は仲睦まじく肩を並べて仕込み作業を続けた。
モ部下くん、彼女さんと仲直りできるといいですねぇ。
この後はちょこちょこ彼女さんが顔を出すようになって
「ゆかりさぁん! 彼がね、酷いんですよ」
「あらあら、今回はどうしたの?」
みたいなことがありそうな気がします。




