505-2 長田夫妻の初産あれこれ(中編1/3)
看護士の案内で通された陣痛室にはピリピリとした空気が漂っていて、まだ両手で足りるほどしか会ったことのない環の母とは陣痛室に通された途端、視線が交わった。
「悟史さん……」
妻とよく似た顔に名前を呼ばれ、短く礼をするも挨拶をする余裕はなかった。
見たこともない機械が忙しなく働いていて、よく分からない波を示す紙がひっきりなしに出てきている。
その奥。カーテンで仕切られたベッドには汗で額に張り付く前髪もそのままに全身を震えさせている妻・環の姿があった。
朝、玄関で見送ってくれた時の笑顔は影も形もない。その、すっかり生気が抜けてしまった顔がいつか見た曾祖母の死に顔を思い出させた。分娩着の明るい桃色さえ悪い冗談みたいで笑えない。
仕事を終えここに来るまでの間、妻に会えたら手を握ってやろう、だとか、腰を摩ってやろう、だとか頭の中でシュミレーションしていたことがすべて抜け落ちてしまった。
(もしかして、このまま……)
なんて、悪い考えを遮るようにやって来た助産師が「あぁ、旦那さんいらっしゃったのね」と手馴れたようにベッドに向かい環の股の間を覗き込む。
いけないものを見てしまっているようで、悟史は思わず目線を逸らしてしまう。今、一体どういう状況なのか、確認しなければいけないのに声も出ない。とにかく緊急事態なのだということだけは理解できた。
「まだまだね、赤ちゃんも頑張ってるからね。長田さんも頑張ろうね」
そう言って助産師は出ていってしまった。
その時、悲鳴とも泣き声ともとれる環の声と荒い息が陣痛室に響いた。
「環さん……!」
声をかけ手を握ろうとするも、痛みに耐える環の手はベッドサイドの柵を壊してしまいそうな程に強く握りしめていて気持ち程度に添えることしかできない。
こんなに苦しそうなのに助産師は何もしてくれないのか。薬か何か使って彼女を楽にさせてくれないのか。自分には何ができるのか。悟史にはやり場のない焦りだけが募った。
仕事では怖いもの無しの魔王の頼れる右腕だと言われているが、出産を前に一人の父親として何もできない事実が背中にのしかかり、悟史は柄にもなく狼狽えていた。
そのまま何時間が過ぎただろう。窓もない陣痛室にいると何もかも感覚がよく分からなくなってきている。ただ、引いては寄せる陣痛の間隔が短く強くなって来ていることだけは確実だろう。体力を奪われ、飲食したものを吐き出した環の顔はどんどん青ざめてきていた。
悟史の仕事用のスマートフォンが震え、「ちょっと失礼します」と部屋を出る。
「そうか、ご苦労だった。あとはそっちの領域だ。頼んだぞ」
以前の部署にいた頃に慣れ親しんだ部下の声が、悟史が抱えていたいくつもの案件の終息を知らせる。
『はい。お任せください。……ところで』
「なんだ?」
『奥様は大丈夫ですか?』
「……高畑か? 口止めしておいたのに」
『いえ、私の妻も今日そちらで定期検診で、たまたま見かけたようで』
「あぁ、そうだったか。じゃあ妻のこともわざわざ聞かずとも把握しているのでは?」
『いえ、さすがにそこまでは……妻に話を聞いてからけっこう時間が経っていますし、その……一友人としてお訊ねしました』
「そうか。……まだ産まれそうにはないよ。また産まれたら知らせる。ありがとう」
『いえ、奥様にも宜しくお伝えください』
そんな短い通話を終わらせると、スマートフォンに示された時刻は午前五時半。もう朝方か、とプライベート用のスマートフォンもチェックすると、こちらにはメッセージアプリに連絡が一つ。差出人は、どこからか聞きつけたのか、たまに酒を酌み交わすようになったクリーニング店の店員からだった。
『みんなも心配してるから産まれたら知らせてください』
という文字にニャッターマンが手を振るスタンプ付き。
いつの間にか友人が増えたな、なんて感傷に浸っていると陣痛室に再び助産師が入っていくのが見えた。
陣痛室に入ると、助産師が環の脚と脚の間に頭を突っ込んでいた。何度目かのこの光景にもいつの間にか慣れが生じた自分に気付く。
「うん、奥さーん、頑張ったねぇ。もう全開に近いからあとちょっとでいきめるよー。ゆっくりでいいから分娩室に行こうね」
「っはい……」
助産師の指示で立ち上がろうとする彼女の震える体を支えると
「悟史さん、ありがと」
環が掠れた声で笑いかけてきた。
(こんな時にまで笑わなくてもいいのに……)
口にするのは無粋だろう、と唇を噛み締め二人分の命が入った体を支え歩く。
「旦那さん、後期の母親教室は受けた?」
「は? え、母親教室?」
助産師の言っている意味が分からずに悟史は思わず言葉をオウム返ししてしまう。使えない、と言わんばかりの顔でペラペラと書類らしき物を確認し
「参加……してないね! じゃあ待合室で待ってて!」
そう言って助産師に環の体を支える役割を交代させられてしまった。
「あ、でも……」
「規則だからね! 講習受けてない人は立ち会いできないの!」
貫禄たっぷりの助産師からピシャリと叱られてしまう。悟史もこうなってしまえば形無しだ。
そういえば妻を溺愛する上司が死にもの狂いで母親教室に参加すべく予定をやり繰りしていたと思い出す。あれほど必死で受講していた理由に今更ながら納得した。
時折来る陣痛の波に歩みを邪魔されなから
「悟史さん、行ってきます」
と、振り返る環は相変わらず苦しい顔で笑っていて「頑張れ」の一言も送れなかった悟史には、環と子どもの無事を祈ることしかできなかった。
待合室へと促され座席に座ると、自然と深く長いため息が出た。もうすぐ産まれるのだという感動と、あの苦しそうな様子からやっと環が解放されるのだという安堵で身体中の酸素が抜け出てしまうんじゃないというような大きなため息。同時に、頬が濡れるのを感じてそれが自分の目から零れたものだと気付いた。
「悟史さんでも泣いたりするんですね」
一緒に待合室に入った義母が微笑ましいとでも言いたげな優しい目で悟史に笑いかけた。
「でも、感動するにはちょっと早いわよ? これからが本番だもの」
「そうですね……あの、環さんには、言わないでください。俺、環さんの前ではわりとカッコつけてるんで……」
零れた涙に蓋をするように目頭を抑えていると
「ふふっ。あの子気付いてるんじゃないかしら」
と、義母が言った。
「え?」
「いつも言ってるもの『悟史さんはとってもかわいい人だ』ってね」
「参ったな……いや、情けないです」
「いいのよ、情けなくて。夫婦なんだから。この先何十年も一緒にいなきゃいけないのよ? 一々格好なんて気にしてたら疲れちゃうわよ」
確かに義母の言う通りなのだろう。
それでも好きな女の前で格好付けていたいと思うのは男のサガというやつなのかもしれない。悟史はそう思いながら馬鹿になってしまった涙腺の締め方を模索していた。




