501 帳消し
お付き合いを始めて同棲への気持ちを固めるちょい前くらいのお話。
今日は朝からついていない。
天気がいいからと歩いて勤務先まで向かえば、信号待ちの時に何かの液体が右手に握っていたバッグに降りかかる。
やられたぁ! と空を見上げても影一つない青空が広がっているだけ。
よりによってお気に入りのバッグに鳥のフンが付かなくてもいいのに。
車で送ってくれると言ってくれた彼の言葉に素直に甘えればよかったのかな。そんなことを思ってももう仕方がないことだけど。
このバッグは大事な人からの贈り物だった。
しょんぼりとした気持ちのまま喫茶いしかわに着き、裏口から入って行く。
以前なら「おはようございます」と挨拶をかわす相手がいたのだけれど今はいない。
マスターは大抵重役出勤だけど、モーニングの時間帯は近所の常連さんたちがコーヒーを飲みに来店するぐらいでそう忙しくはない。
バッグの汚れは水を絞ったタオルで拭いてどうにか拭き取れたけれど、もう持ち歩かない方がいいかもしれない。
バッグを贈られた時に包装紙をほどいて笑顔を向けるとホッとしたように息を吐いて、やわらかな笑みで返してくれた彼のことを思い出した。
三回連続でデートの待ち合わせを待ちぼうけ。急な仕事だの飛行機が飛ばなかっただのですっぽかしたお詫びですと言われて差し出されたのなら受け取らなかったのかもしれない。
けれど「また君との約束をこの前からのようにすっぽかしてしまうかもしれないし、今後二度とないとは約束できない、けれど見捨てないでまた会ってほしい」
仕切り直し四回目のドライブデート。
海沿いに停めた車。BGMは打ち寄せる波の音。夕日に照らされて紅く染まる自分とあの人の顔。
お膳立てされた完璧なシチュエーション。
大好きな人に乞うように手を握られて、熱っぽく真摯な眼差しで見つめられて落ちない女がいるだろうか。
狡いと手を握り返して目を瞑った。
運転席から助手席に座る自分の頬に触れる固い指。
バッグのプレゼントはそれからの出来事。
震えるように優しいキスの記憶と繋がっていた。
気を取り直したつもりだったのに一回オーダーを間違えて通して落ち込んだ。
マスターは「記憶力がいいゆかりが珍しいね」と笑って許してくれたけれど。
オーダーを間違えて作った和風たまごサンドは賄いで食べることにする。
サンドイッチに挟んだだし巻き卵からしみ出るお出汁は恋しい人に包み込まれたぬくもりみたいな味がした。
お客さんがいない時間帯に暇潰しでもとマスターが置いてくれていたクロスワードは難問揃い。
でも助けてくれる人は今ここにはいないのだ。自分で解くしか方法はない。
一緒に仲良く居眠りして目覚めた時気恥ずかしい思いをする相手もいない。
固い瓶だって開けるのは自分。たまにはマスターも手伝ってくれるけど。
これ以上散々な一日にしたくないとビニールに厳重に包んだバッグを紙袋に入れて、タクシーを頼むことにする。
電話したらきっと迎えに来てくれるだろうけど、そこまで甘えてしまうと際限なく甘えるのが癖になってしまいそうで少し怖い。
「ただいま」
「お帰り」
タクシーの中から帰るコールならぬ帰るメールを送ればすぐに返事が来た。
『今どこ?』
『もうすぐ近くまで来てる』
タクシーから降りて自宅の扉の前に立つ。
すると鍵を探すより先に自動ドアのように扉が開いて、朝から数時間ぶりに会う人の姿。
靴を手早く脱いで式台に上がる。
その前にバッグを入れた紙袋は彼に渡すようにと言われて彼の手に、それから一旦床に置かれて両手でぎゅーっとされた。
彼の手は魔法の手だ。自分の手より一回りも二回りも大きく男らしい彼の手にハグされただけで軟体動物のようにふにゃふにゃになってしまう。
「今日色々あって甘えたいの。和樹さんに甘えてもいい?」
際限なく甘えるのが怖いと少し前に思っていた心とは裏腹に、自分の口は素直に恋人にぐずぐずに甘やかされたいと強請っている。
「勿論。僕なしではもう生きていけないようになるまでどろっどろに甘やかしてあげる」
朝までとか甘くも不穏な言葉がそのあと追加されたような気がしたけれど、まさかそんなそういう意味で甘やかしてほしいとは言ってないんですけど。
「ブランくんおいで!」
出迎えに来てくれた愛犬は愛しい人の背から一メートル離れた場所で尻尾をブンブン左右に振りながらこちらを見上げている。
とてもお利口さんに待機していた。
嬉しそうな声で鳴きながら指を舐めてきて、抱き上げたら顔もペロペロ舐めてくる愛犬は元々人懐こい性格の子なのか、出会った当初からゆかりによく懐いていた。
「今日はチゲ鍋。具材は鶏のつみれ、豆腐に豚肉にえのき。白菜とニラとにんじん。玉ねぎも入れてみた。鍋を食べた〆には卵とチーズを入れて雑炊にするけどどう?」
「どうって和樹さん、そんな素敵なの美味しくいただくに決まってるでしょ。大好き!」
ちなみに和樹さんは自分のエプロンは洗濯中で私のエプロンを着けていた。サイズが全然違うからエプロンで隠れてる場所がどうにもちぐはぐで、ちょっと面白い。
整った顔の男性が可愛い猫のアップリケのエプロンを着ているとギャップがスゴかった。そして可愛い。
「大好きって鍋がそれとも?」
温かで美味しい鍋が待つリビングへ歩く私たちはほんのわずかな距離なのに手を繋いでいた。
私たちを先導するようにブランくんがダイニングの方へと走って行く。
「両方!」
鍋と同列、と拗ねた声を出す和樹さんだけど私を見つめる瞳は蜂蜜を煮詰めたように甘い。
甘いのと好きの過剰摂取で、朝からのついてない出来事は帳消しになるどころかもうプラスに変換されていた。
〆の雑炊を食べてから「せめて片付けさせて」と和樹さんに言った結果、私が皿洗いをして隣で和樹さんはお皿と鍋を拭いてくれる。喫茶いしかわ同僚さんしてた時みたいだな。
同じ人なのだから当然なのだけれど、なんだかくすぐったい気分。
冷凍庫から少しお高めのアイスを二つデザートにして食べる幸せに頬は緩みっぱなし。
「次、和樹さんがお仕事で大変だった時とかアンラッキーな日には私がうーんと甘やかしますからね」
その時は私が、合鍵を預かってる和樹さんのお家で今日みたいに美味しいご飯を作って待っていよう。
「僕としてはゆかりさんとのそれを日常にしたいんだけど」
「それって甘やかされたり甘やかす毎日をってこと?」
今の日常でも十分幸せなのにもっと幸せになるって意味でいいのかしら。
高鳴る鼓動を胸に彼の言葉の続きを待った。
本編の流れでいうと年が明けて少し経った頃、つまり冬のお話になってしまうので、夏寸前な今とは季節感ちぐはぐ。
この暑い時期に鍋て……とツッコみたくなるメニューなのはそのせいです。




