497 if~もしもゆかりさんが寝言で告白しちゃってたら~
またもやifです。
「かずきさん、だーいすき……」
休憩中の眠り姫の囁きは男の心臓のど真ん中を射抜き、男の鉄壁の仮面をあっさりと砕いた。
「和樹さんてば今日変なのよ」
ディナータイムの喫茶いしかわで夕飯を食べていた飛鳥とユキエに向かってゆかりはぼやいた。
「変? どゆこと?」
ユキエが和樹に視線を向けると苦虫を噛み潰したように顔を顰めた和樹が「ゆかりさん」と抗議の声を上げた。
「だってねユキエさん。今日の和樹さんお皿何枚も割るし、料理も失敗続きなのよ」
「え、でも私たちが食べてるのは……あ、これはゆかりさんが作ったやつだったわね。和樹さんがお料理失敗なんて珍しいよねぇ。どんな失敗したのかしら?」
「それがね。サンドウィッチに具を入れずに余計にパンを挟んだり、カレーライスをルウだけお皿いっぱいに盛ったり、パフェのホイップを三十センチも積んだり、ケーキの上にケーキを重ねたり……。ポンコツにも程があると思わない!?」
キッと睨んでくるゆかりに和樹は殊勝な面持ちで詫びを入れる他なかった。
「よほど疲れが溜まってるんだろうと思って早退してくださいって言ったんだけど大丈夫の一点張りで、でもミスはするから仕事増えちゃって大変よぉ」
「それは、その……本当に申し訳ないです」
歯切れの悪い和樹を窺うように見ていたのは飛鳥だった。降って湧いた珍しい謎解きに知的好奇心を煽られているに違いない。
ゆかりがユキエに愚痴り続けているのをチクチクと感じながら、和樹は飛鳥に身を寄せゆかりたちに聞こえぬよう小声で告げた。
「このことに関して君の謎解きは必要ないからね」
「でも、らしくないんじゃないの? 何かあったんでしょ?」
「君には関わりのないことだよ」
和樹は一方的に話を終わらせ離れていった。これ以上は藪蛇とばかりに和樹は逃げを決めたのだ。
が、その頬が一瞬赤らんでいたのを見逃す飛鳥ではない。
「ゆかりさん。僕、裏で在庫整理してきますね」
「……はーい」
和樹がバックヤードに消えると冷ややかな瞳でその背を見送っていたゆかりは大仰に溜息を吐いた。
「あーらら、和樹さん逃げちゃったわねぇ。アタシあんな和樹さん初めて見たわ」
「でしょうユキエさん! 私だって初めてよ。別にね、悩みを話してほしいとかじゃないの。和樹さんの方が年上で私よりも広い世界で生きてるからね、アドバイスできるとも思わない。そもそも悩みを聞き出すほど深い仲でもないし」
「えっ」
「えっ?」
間髪入れず上がった戸惑いの声に思わずゆかりとユキエはじっと見合った。
「もしかしてユキエさんまで私と和樹さんのこと勘違いしてる?」
「え? えーと……違うの? まだ?」
「まだもなにも……!」
「でもみんな時間の問題だって思ってるわよ?」
「なんでーっ!?」
盛り上がるゆかりとユキエを他所に飛鳥はバックヤードへの扉を見つめ目を眇めた。
正直二人のことは戸惑いもしたが、段々気安い態度になっていく和樹と、ゆかりを見るときの混じり気のない瞳に彼も人間だから恋もするか、と確信せざるを得なかった。ゆかりを幸せにするために手が足りないときは自分も力を貸そうと密かに決意している。
とはいえ和樹の様子は気になる。例外はあるものの、常に理性的な彼があれほどポンコツになる理由が気になる。最後にわずかに頬を赤らめたこともゆかりの態度を見る限りよくわからない。
「ねぇ、和樹さんいつからあんな感じなの?」
「うーん、今日のカフェタイムからだったかしら。お昼の後、私が休憩終わったときにはあんな感じだったわ」
飛鳥が問うとゆかりは顎に手を添え考えながら答えた。
「ゆかりお姉ちゃんの休憩中いつもと変わったことは?」
「別になかったと思うけど……」
「そのとき居たお客さんはわかる?」
「よく勉強しにくる学生さんと初めて来たサラリーマン連れだったかしら。バックヤードで休憩してたから見てない人もいるかもだけど」
「その学生ってよく見る男の人だよね。うーん……」
飛鳥が唸るのをゆかりとユキエは固唾を飲んで見守っていた。
「電話とか掛かってきた?」
「ううん、鳴らなかったと思う。あ、私休憩中にちょっと寝ちゃってたから、もしかしたら気づかなかったかも」
「え、寝てたの?」
「昨日ちょっとゲームで夜ふかししちゃったから眠くてね」
えへへ、と苦笑するゆかりを飛鳥はまじまじと見つめた。
「休憩中、和樹さんはバックヤードに来た?」
「ううん、来てないと思う。寝てたときはわからないけど。結構ぐっすり寝てたのよねぇ。あと、和樹さん普段から扉の開け閉め静かだし」
飛鳥は浮かんだひとつの可能性に口元に弧を描いた。
和樹のあのおかしな様子はゆかりとなにかあったのではないかと最初は思った。けれどゆかりがあまりにも普段通りだったからそれは除外したのだ。でも他に和樹が動揺するような情報はない。そこへゆかりが寝ていたという事実。
「和樹さんが寝てるゆかりお姉ちゃんに何かしたとは考えにくいから、ゆかりお姉ちゃんが何か和樹さんが動揺するような寝言でも言っちゃったんじゃない?」
「え、寝言?」
飛鳥の指摘にゆかりは固まった。やがて青ざめて両手で頬を覆う。
「実家で暮らしてたときたまに寝言言ってるって言われたことある……! えーっ、私なに言ったの!? 変なこと? それとも和樹さんの悪口とか!?」
「え、ゆかりちゃん悪口なんて言うの?」
「言わないけど! 寝てるときはわからないじゃない、夢は制御できないし!」
どうしよう、うわぁ余程ショックなこと言ったってことよね!? と右往左往するゆかりに悪口ではないだろうなと思いつつ「わからないけど、あとは二人で話したほうがいいよ」と笑顔で匙を投げて飛鳥はユキエと喫茶いしかわを出た。
飛鳥を送る道すがらユキエが声を弾ませた。
「あの二人やっと何か進展するかもだし、アタシ明日の朝ごはんも喫茶いしかわにするわ! 飛鳥ちゃんはどうする?」
「うん。お母さんがいいよって言ってくれたらだけど……」
他人の恋バナには鋭いユキエに心の裡で空笑いしながらも飛鳥は首肯した。
恋バナが好きなのは女の性であろうが、あの和樹の秘めたる恋路に好奇心が疼かないはずがないのだ。
扉の札をCLOSEに反し二人きりの閉店作業になっても和樹はまだどこか心ここにあらずの様子だった。いつもなら手際よく済ませている片付けが遅いくせにこの期に及んでゆかりには何も話すつもりはないようだ。
ゆかりは一人てきぱきと倍速で片付けを済ませたところで意を決して和樹に詰め寄った。
「和樹さん」
「あ、ゆかりさ……ん? えっと……?」
いつの間にか壁際に追いやられていた和樹は目を丸くして戸惑っていた。しかも左右にはゆかりが壁に手をついており囲まれている。まさかいわゆる壁ドンをされているなどと考える余地もなく和樹はまばたきを繰り返した。
背の高い和樹に自分が壁ドンをしたところで大した意味は成さないとゆかりはわかっていた。でもこういうのは拘束感が重要なのだ。逃げられるとしても追い詰められたという状況が今の和樹には必要だ。
とはいえいざ壁に手をついてみたら思った以上に和樹の顔が近くてわずかばかり息を呑む。えーい、ままよ! とゆかりは睨みをきかせた。
「和樹さん。もう隠さず話してください」
「え……。いや、でも」
「私が休憩中に寝ちゃってたとき、なにか寝言を言ってたんでしょう?」
ゆかりの言葉に和樹はみるみる頬を赤らめると目を逸らしてしまった。やはり飛鳥の言ってた通りだったと確信すると同時に背筋に寒気が走る。和樹をこんなポンコツにしてしまっただなんて一体何を言ってしまったのか。
「和樹さん。私が何を言ったのか教えてください! なにか気に障ることを言ってたなら謝りますから!」
「あ、謝るだなんて、そんなことは……」
「さあ、はっきり言ってください!」
「………………って」
あまりの剣幕に観念したように見えたが、もごもごと小声だった答えはゆかりには聞き取れなかった。
「え、今なんて? 聞こえなかったです」
「……『和樹さん、だいすき』って言ってたんです」
「――――――えっ」
和樹さんだいすき?
だいすきってなんだっけ。
脳内でゲシュタルト崩壊したように意味がわからない。頭の中で辞書を開いてぐるぐる意味を探している間に心は宇宙船に乗って地球を旅立った。有に地球を三周した頃、ようやくゆかりの頭の回線が繋がりそれまで固まっていたゆかりは瞬間沸騰して茹で蛸の如く真っ赤になった。
なんてことだ!
すきって、だいすきってどうしてそんな!
そういえば美味しい賄いを食べる夢を見ていた気がする。きっとそれで賄いを作った和樹さんにお礼というか味の感想というか。
いや、それ以前に好きだったけど! 告白するつもりなんて……まさか寝言で告白なんて全くの想定外すぎる!
「や、えっと……やだなぁ、そんな、冗談やめてくださいよ。……て、あれ?」
兎にも角にもこの近づいた体勢はまずい。
ゆかりは後退ろうとしたが、しかしいつの間にか和樹の腕ががっしりと腰に巻きついて一歩も身動きが取れなくなっていた。おまけにもう片方の手がゆかりの後頭部を捕らえていて顔を背けることもできない。
「ちょ、ちょっと和樹さん!? 離して」
「僕ね、すごく嬉しかったんです。ゆかりさんいつも炎上嫌がってたから脈無しなのかと」
「みゃ、脈って。え?」
「脈無しならと我慢してたんです。でもゆかりさんの好意を聞いて嬉しくて、心が浮つくのを抑えられなくて。とても我慢が効かない。僕の心をこんなに掻き乱せるのはゆかりさん、きみくらいだ」
至近距離に迫る和樹の瞳が甘く溶け、その奥に宿る熱がゆかりの視線を絡め取る。確かな愛欲を向けられていることをさすがのゆかりも感じたものの、あまりの急展開についていけず目が回りそうだった。とにかく距離を取って落ち着きたい。なのに何度和樹の身体を押し返してもびくともせず、逃げられない事実はますますゆかりを混乱させた。
「ねぇ、僕のこと好きって本当ですか?」
「それは、えと」
既にショートしている思考回路はどう答えればいいのかまったく導き出してくれない。今が告白するタイミングなのだろうか。でもまだ本当に全然告白なんて考えてなかったのに、こんないきなり心の準備ができるはずがない。
真っ赤な顔で唇を震わせながら視線を右往左往させていると、ゆかりの表情を眺めていた和樹はふっと眦を下げた。ゆるゆるに緩んだ笑顔が愛情たっぷりにゆかりを見つめている。
「本当にかわいいなぁゆかりさんは……」
「か、かわいい!?」
和樹からの突然の褒め言葉が信じられなくて声も出せず固まっていると不意に柔らかいものがちゅっと唇を掠めた。何度も啄むように触れるのが気持ちよくて頭の奥から蕩けていくようだ。
「か、かず……、んぅ…………ぁ」
キスされている。そう理解が追いついたときには小さく開いた隙間から和樹の舌が侵入していた。ゆかりの口内を味わうように絡む舌にゆかりはただ翻弄されるがまま。触れあう舌が今度は上顎を舐め、歯列をなぞっていく。ぞわぞわと押し寄せる官能の渦に呑みこまれ、あっという間にゆかりは心も体も溶けてしまった。和樹の支えがなければとっくに立つことさえできないゆかりは無意識に和樹にしがみつく。
「ねぇゆかりさん、今夜これから、ゆかりさんの家に行ってもいいですか?」
「ふぇ……? うち……?」
「うん。もっときみに触れたい」
それってつまり。ちゃんと考えなくちゃと思うのにその間にも額に瞼に頬に唇に首筋に和樹がキスの雨を降らせ続け、ゆかりに考える隙間を与えてくれない。触れる唇の感触と、ちゅっちゅっとわざとらしく立てるリップ音がゆかりの羞恥心を煽っていく。
「はぁ……すきだ。すきだよゆかりさん……」
キスの合間、酔いしれるようにすきだと繰り返されて心の裡に甘い痺れが引くことなく広がっていく。和樹の告白が本心からのものか確かめたいけれど、その後も止まないキスの嵐にゆかりはもう和樹の望みに首を縦に振るしかなかった。
ようやく一旦解放されたゆかりは和樹に手を引かれながら家路についた。時折こちらを向く和樹が満面の笑みを浮かべているのが気恥ずかしく、ゆかりはひたすら唇を引き結ぶ。
キスも初めてだったのにこんな急になんの準備もできてないのにこれから彼と。
いつも優しく朗らかな和樹がまさかこんな強引な人だったなんて。
心臓もどきどきと跳ね続けて、私もう死んじゃうかもしれない……。
こうして眠り姫の呪文が目覚めさせた狼は一晩中、愛しい娘を離さなかったのでした。
翌朝喫茶いしかわのモーニングを食べに来たユキエはゆかりの姿がないことに落胆した。しかし花畑でも背負っているかの如くご機嫌な和樹が昨日と同じデニムを穿いていることに気付いた飛鳥は好奇心に満ちた眼差しを和樹に向けた。
自分で書いててアレだけど……ちゃんと好きって伝えてるだけマシとはいえ、和樹さんこれはいくらなんでもがっつきすぎじゃありませんか?(苦笑)
飛鳥ちゃんはこれ以上追求してはダメよ?
(上はカーディガンがわりに店に置いてあったシャツに着替えればよかったけど、さすがに下の替えまでは置いてなかったとかいう、どうでもいい設定)




