492 運次第のミッション
和樹さんが攻めあぐねていた頃のお話。
こればかりはまさに運次第。
ありとあらゆるフラグが重なって起きる事態にどう迅速的確に対処するか。
それはかなり特殊な事情を抱えることもあるこの職業における必要最低限なスキルと言っていい。
だが、だがなんで寄りにもよってまた俺の時なんだ。
少し前にあまりにも痛いに目に遭わされたばかりの男は今、自らの命の危機を覚悟した。
とあるビルに入る、とある会社にはいくつかの部署があり、その一室のドアの隙間から蛍光灯の光が漏れ出ている。
部屋に並べられた七つのデスクは、どれもありとあらゆる雑多な書類で埋め尽くされていた。
そしてその書類を前に、半ば据わった眼をして事務仕事を黙々とこなしている者二名。
あまりのオーバーワークに、書類の上に突っ伏して意識を飛ばしている者一名。
外へと出払っている者二名。
とうとう身体が耐え切れず、一日限りの休日を取っている者一名。
少数精鋭という言葉がまさにあてはまるこの部屋で、とりわけ奇抜な存在が一名。
今もひたすらにパソコンに向かって案件の整理をしている長田の隣で、恐ろしいほどのスピードで書類に目を通していく人物だ。
トップモデルと言われても疑う者がいないほど容姿端麗な人物。営業としてこれ以上ないと言うほど有能であると長田は評価している。
率先して現場を回り、するりと相手の懐に入り込むその類まれな交渉術で営業成績の最高記録を更新し続けた回数はすでに数える気にもならない。
その上、面倒で無能な管理職をねじ伏せるべく練りに練られる会議や事務処理、さらにはあらゆるトラブルの事後処理に至るまで完璧にこなしきる。
和樹の下で働くことができるのは長田の仕事における誇りでもあった。
だがしかし。
とある場所への訪問を境に、この完璧なる上司に悪癖が付いてしまった。
ここ最近、どういう訳か、大きくはないが長田の所属するチームが関わる案件が頻発している。
各自交代で勤務に当たっているとは言え、この部屋での最高責任者である和樹と彼に追随する長田に実質的休みはない。
なんとか仮眠だけは互いに取りつつ、薄暗い界隈を練り歩いては報告書を書きに戻る日々が続いて三日目。時刻は深夜三時四十八分。
夜と言うよりは明け方前と言うほうが相応しいかも知れない。
日数的にもそろそろ、アレが始まり出す頃だ。
長田はそっと音もたてずに自分のデスクの引き出しを開ける。
その一番奥にしまわれた小さなクリアケースを手元に引き寄せると、サッと目を通した。
『今日は、高岡が当番……か』
これから起こるであろうイレギュラーに対して、用心はしておくに越したことはない。
この部屋で二番目に若手の同僚を頭に思い浮かべると、壁に掛けられた時計を改めて見上げる。
『あと三時間ほど、か。せっかくの休日に申し訳ないが、今のうちに高岡に連絡を入れておくか』
フッと軽く息を吐くと、デスクの隅に追いやったスマホを手にする。
すると目の下にうっすらと浅黒い色が付き始めた上司が、かすかに動く気配こちらを向いた。
「なんだ。何かあったか?」
シンとした室内に重低音に響く声に、しかし長田は慣れた態で首を振る。
「いいえ。ちょっと連絡事項があるだけで。たいしたことではないです」
「そうか。分かった」
淡々と用件のみを伝えるとまた手にした書類に取り掛かる和樹の姿に、長田は一つの指令を同僚に送った。
その直後。
「あー、う……………………みてぇ」
ボソッと、誰にも届かぬほどの囁きが零れ出る。
呟いた本人はまるで意識していないようだが、しかしその声がそろそろ漏れるだろうことを予感していた者は決して聞き逃さない。
メールを送信してから意外にも僅か2分後、同僚から《了解しました》の旨が書かれた返信が手元に届く。
そのことに心の中で盛大に安堵の息をつくと、長田は再び上司と肩を並べてデスクワークに取り掛かっていった。
とりあえずこれで今日一日の精神的平穏は保つことができるだろう。
そしてきっかり四時間後。
「長田さん。プランI-1、遂行してきました」
「高岡、休み明けにご苦労だった」
手渡されたのは一本の細い水色のステンレスボトル。
「プランIがまだ第一段階のうちの当番が俺で良かったっす。これから危険レベル、どんどん上がりますからね。
まだしばらくは和樹さん、缶詰めが続きそうですか?」
「どうだろうな。その日の案件次第だ。このままだとプランIが日を置かず第二段階に移行することもあり得る」
「マジっすか。ホント、プランIに関しては当番制にしといて良かったです」
「なにごとも公平でなければ、このプランに関しては続かんからな。では俺はデスクに戻る」
「はいっ。それ、よろしくお願いします。俺はこのまま客先に出向きますんで」
朝一番のまだ少し寝癖が残った同僚が指さすものに、長田は彼から受け取ったそれを軽く振る。
タプンと小気味よく鳴る音に、メガネの奥の目を細めた。
「分かった。ちゃんと届けるよ。ありがとう」
とあるビルのとある会社のとある一室の中では、秘密裏のプランが常に展開されている。
その名は《プランI》。
これから起こるであろう非常事態に、前もって先手を打つために考えられた苦肉の策だ。
数人で構成されるチームへのミッションは、第一段階から始まり徐々にその難易度は上がって第五プランまでで構成されている。
そしてそのプランは、何時から発動されるかのタイミングがまったく掴めない。
故に彼らは、上司には知られないように曜日ごとに当番を決めていた。
たまたまそのタイミングに当たったが最後、諦めてそのプランを粛々と執行するように彼らの中では暗黙の了解が出来ている。
そうして作られた当番表の管理は、長田一人がメモに書き置くと言う形を取っている。
例えばSNSに残してしまうと、表沙汰になってしまう可能性がある。
あの上司ならそういった隠しておきたいものを暴くのに長けていてもまったく不思議ではないからだ。
だが、とにかくこの部屋の上司にそれが明るみに出るのだけは何としても避けなければならない。
そのため、プランIの作戦作成および代表でもある長田のデスクの奥に手書きの当番表を隠しておいてある。
まさに灯台下暗し。
ネットオンラインの恩恵を受けまくる現代社会ではもうあまり見ないアナログさだ。
だがそれが功を奏してか、いまだにその作戦は順調に遂行され続けている。
その当番表の横に書かれた各段階には、その内容もきちんと明記されていた。
ちなみに高岡が担当したI-1の横には《コーヒー》と書かれている。
順にI-2は《特製スイーツ》
I-3は《軽食》
そしてI-4が《録音》となっている。
もしこれを何も知らぬものが見たならば、次々と並ぶ食事系の内容にまず首を傾げる。
その後に《録音》と言う脈絡のない羅列が巡ってきたことに混乱するだろう。
だがその作戦を実際に遂行する方としてはこの難易度の上がり方は、恐怖するところだ。
今のところはI-4までしか辿り着いたことはない。
だが、その時の当番に当たった奴はその日一日精神的攻撃と疲労で使い物にならなかった。
そしてついにその日はやってくる。
本当に何から何まで運の尽きと言うか、最悪とも言えるくらいに細かな事件が連続してしまったのだ。
一つ一つは大したことがないくせに他の部署に割り振ることもできず、自分たちで手を出さざるを得ない案件が隙間なく襲ってくるのだからつくづく運がない。
既にI-1からI-4までのプランは実行に移されている。
史上二度目のプランI-4担当に当たってしまった同僚はすっかり腑抜けて今のところただの役立たずだ。
数日前に発動されたI-1では
「あー。うまいコーヒー飲みてぇ」
と言う和樹の吐露がされた数時間後。
部下の一人である高岡が朝一番に喫茶いしかわへ開店直後に駆け込んだ。
その喫茶いしかわで働いている看板娘の石川ゆかり嬢の勤務シフトは、来月分までとっくにチーム内で把握している。
彼女にステンレスボトルへとコーヒーを入れてもらって、とんぼ返りで会社へと息せき切って走ったのが今回の始まり。
その翌日。
「頭が疲れた。甘いものが欲しい」
との言葉の端々が忍び聞こえてしまう。
数瞬後にプランI-2発動に至った日の当番だった市原もまた喫茶いしかわに全速力で走った。
これまた喫茶いしかわでゆかりの特製看板メニュー・プリンをゲットするためだ。
続くはさらに三日後に発動のプランI-3。
「腹、減った。ナポリタンが食べてぇ」
などと具体的な商品名まで言われた日には、室内の全員が困り果てた。
なにしろその恐るべき呟きが漏れた時刻は、喫茶いしかわの閉店時間十四分前だ。ラストオーダーの時刻をとっくに過ぎている。
そんな時間にスーツ姿でよれよれの大男が喫茶店にいきなり走り込んだ挙句。
「すみませんっ。理由はなにも聞かずにナポリタンを大至急! テイクアウトで! ラストオーダー過ぎてるのは知ってますが、特別料金の支払いでもなんでもしますから、何卒!」
と土下座で言い放ったらしい。
想像するだけでも可笑しい…………もとい、哀れな状況と言わざるを得ない。
呆気にとられ、それでも快くナポリタンを持たせてくれた女性に頭を下げまくった同僚の田嶋を、長田はその太い首根っこを抱きかかえて褒め称えた。
そこまでの苦労をしたのに、悲しくも僅か数日後に発動されてしまったプランI-4。
「声、聞きたい・・・」
飲食系の欲求でないことを悟った時、『いよいよ末期症状が始まった』と誰もが押し黙った。
水曜日当番の小田が顔を青褪めながら席を立ち、何かにとりつかれたかのようにふらついた足で部屋を出ていく。
虚ろな目をしたまま喫茶店のドアベルを鳴らして、「今日もお仕事頑張ってくださいね」発言を隠れて録音する。
それだけのことに優秀な営業マンが喫茶いしかわに三時間以上居座った。
実際のところは喫茶いしかわの常連客である会社員に石川ゆかり嬢が言ったセリフであって、それを無断で録ってきてしまったものではあるのだが。
この際もう、そんなことはどうでもいい。
本業の仕事が続いてしまい、喫茶いしかわに十日間も行けていない上司の仕事の効率が三割下がってしまうことに比べれば背に腹は代えられなかった。
戻った小田を、チーム全員で目に涙を浮かべながら肩を抱き合って称え、慰め合ったことは言うまでもない。
それからさらに三日が経過する。
和樹があまりに続く案件に、この部屋に缶詰め状態になって十四日目。きっかり二週間。
とうとうボソリと。
地を這い地獄を彷徨い歩く鬼のような地響きにも似た声音が轟く。
「このロクデナシども。こんな押し寄せんと、ゆかりさんに会わせろや」
生温かくて気色の悪い風が足元に吹いたかのように、部屋の中にいた一同全員の背筋がゾクリと粟立つ。
これは本気で、言った本人は無自覚だ。
自覚があったなら、ここまで人を不安と恐怖に叩き落すような欲を吐いたりすることなどできる人物ではない。
マズいマズいとは思っていたが、とうとうプランI-5に初めて辿り着くその日が来てしまった。
そして、よりにもよって曜日は金曜。
まさに長田自身がその日の担当となってしまっていたのだ。
担当表のI-5の横に書かれている内容は《写真》。
行きたくない。心の底からやりたくない。
だがいまだ書類の山の一角がようやく崩れたばかりの最中に、この有能なる上司を外に解き放つわけには絶対にいかない。
となれば、まだ多少は自由の利く長田が喫茶いしかわに出向き、石川ゆかり嬢の立ち居振る舞いを画像として撮ってくる以外の道は残されていなかった。
しかしそれはハッキリ言って、至難の業過ぎる。
彼女だけに限ればどこまでも普通の一般人であるからに、気付かれないように写真を撮ることは容易だろう。
だがあそこには恐ろしく目端の効く飛鳥という子供が常連客として出入りしていたはずだ。
その子供が懇意にしている女性を、理由もなく盗撮しようなどとあの子がさせる筈もない。
だがっ、だがこちらにも【大人の事情】というものがあるのだ。どうか分かってほしい。
なにがなんでもこれ以上、仕事を滞らせることなどできないのだ。
長田とて『それならばあの子供がいないであろう彼女の通勤路を撮れば容易じゃないか』とも一度は考えた。
だがこの状態の和樹が求めているのは、喫茶いしかわで共に仕事をしている石川ゆかりの姿なのだ。
さらに、その喫茶いしかわに出向くこのプランにはまだ他にも危険が待ち構えている。
この暗澹たる部屋に詰めるエリート営業マンらがもっとも恐れていることであるのだが。
ここまで追い詰められた和樹が、
「なぜ、お前が。お前達だけが喫茶いしかわに行けるんだ……」
と言い出す事態も十分にあり得るのだ。
そうなった時、手首を捻られる程度で済むならまだ良い。
投げ飛ばされ腕ひしぎ十字固めをキメられ、再起不能になることも覚悟しなければならないだろう。
長田はゴクンと喉を鳴らすと、タンッとパソコンのエンターキーを押す。
とりあえず自分が抱えている案件の書類作成がこれで一段落して…………しまった。
かつてないほど重い腰をどうにか上げた長田は
「ちょっと、行ってくる」
と片手をフラリとようやく上げる。
まるで亡霊を背負っているかのように重苦しく暗い背中。
この部屋の最上位の存在以外の全員が、最敬礼でその雄姿を見送った。『お疲れさまっす。骨はちゃんと拾わせていただきますっ』との思いが存分に込められたものだ。
さてあの長田が《プランI最終段階》を遂行して、いったいどれだけボロボロになって帰ってくるのか。
今日も心底頭を抱える一同であった。
かなり「ブラック企業めえぇぇええぇっ!」な様相を呈しております。
これもワーカホリック……でいいのでしょうか(苦笑)
この話、実は
『勇者ナガタと愉快な仲間たちは魔王カズキを倒すため伝説の武器エクスユカリバーを入手する旅に出た』
とかいうおバカ全開な思い付きからスタートしました。自分でもサムッと思ったけど、まあそれはそれとして。
どこをどうしたらこうなったのやら。
ただね。
長田さんは自力盗撮を考えるより飛鳥ちゃん(やそのご両親)を手懐けてドリンクやスイーツをおごるかわりにあれこれ協力してもらうほうが心身ともに受けるダメージは少なくて済んだと思う。
和樹さんと個人的に連絡取れるようにしてもらって『きょうのゆかりおねえちゃん』的な写真を2日に1回くらい送ってくれるように頼むだけで魔王召喚は8割くらい回避できるんじゃないかなぁ?
余裕ないと思い付かないんでしょうけど。




