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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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487 食べごろ

 ちょいと艷系のお話なので、苦手な方は自衛してくださいね。

 家主が不在のリビングに一人、ゆかりは足元に落ちたコンビニの袋に視線を落としたまま、途方にくれていた。


 時間を遡ること一時間前。ゆかりは喫茶いしかわの勤務を終え、手早く着替えを済ませていた。ピンクのエプロンを畳み、ロッカーの内側についている鏡で髪を整えて。ただ家に帰るだけなのでちゃちゃっと簡単に身支度を終えたら、もう一度お店を通って帰る。それがいつものルーティンだった。

 喫茶いしかわを出たタイミングで和樹と出くわしたのが始まり。早く仕事が終わったからとやってきたらしい。目的は喫茶いしかわでコーヒーを飲むことではなく、ゆかりに会いに来たという和樹と近くのパーキングまで一緒に歩く。これからご飯でも行きましょうか、なんて話しながら。


 その道すがらゆかりがふと「今日気になってたコンビニスイーツが発売するんですよ。買って帰らなきゃ」と口にして、和樹がそれに対して「へえ、どんなスイーツなんですか?」と聞き返す。思いのほかスイーツ談議が盛り上がってしまい、パーキングそばにあったコンビニに二人して吸い込まれたのである。

 その流れからご飯を食べに行くのではなく、家で食べようということになり、目的地が和樹の家に変わったのだった。


 コンビニスイーツのほかに、飲み物やお惣菜、最近仕事が忙しくてなかなか買い物ができてなかったからと和樹は日用品にも手を伸ばしていた。薬局より割高なティッシュを手に取った和樹が「僕の買い物ばかりなので」とささっとカゴをレジに通してしまって。

 二人並んでコンビニから出ればキンと冷えた風が頬を撫でた。どちらからともなく手を繋ぎ合わせて、彼の愛車へと急いで向かう。そこからは寄り道することなく、和樹の家へと帰ったのであった。


 そして、冷蔵商品をコンビニの袋から取り出し、冷蔵庫に入れたタイミングで和樹のスマホに着信が入った。小さなため息をついて、すぐ険しい表情に切り替えた和樹が「ちょっとすみません」とリビングから出て行ったのが五分ほど前のことで。


 事件が起きたのは、そのすぐ後のことだった。

 和樹がリビングを出て行ったところで入れ替わりに、彼の愛犬であるブランがやってきてゆかりの足元に飛びついたのである。冷蔵庫に入れ忘れはないかしら、と袋に手をかけたタイミングで、勢いよくアタックされたゆかりは受け止めきれずよろめいてしまい、手元にあった袋をテーブルの上からフローリングへと落としてしまった。

 袋から飛び出したのは小さな紙袋。そして紙袋の口の締まりがわるく、出てきてしまった小箱。それを拾い上げようと目を向けた時、その正体に気付き、ゆかりの体はぴしりと固まってしまったのだ。


(いやいやいや、待ってほしい)


 小箱に書かれた文字がわからないほどゆかりは子供ではない。自ら手に取ったことはないけれど存在はもちろん知っている。

 ばっちり見えたサイズ表記につい頬が引きってしまう。いや、そんなことより。そんなことじゃないけど、そんなことより。


 和樹と付き合い始めたのは、つい先日。お互い成人しているし、学生のような青臭い付き合いをしているわけではない。隣を歩けば手は繋ぐし、愛情表現の一種でハグもするし、帰り際に軽く重ね合わせる程度のキスもする。その先の行為だって知らないわけではないし、いずれはすると思っていたけれど。彼にならすべてを委ねられるって思っているけれど。


 たまたまお互いの仕事が早く終わり、なりゆきで彼の家に行くことになり、はじめてプライベートの空間で二人きり。条件は揃っているかもしれないけど、こんなに早く関係が進むなんてゆかりは想像していなかった。まさか、今日そういうふうになるなんてまったく考えもしてなくて。


「…………どうしよう!」

 下着の上下あってるっけ、ムダ毛処理っていつしたっけ、なんて考えはじめてる自分も大概だ。いやいや、それより、そのまえに。そんな心配の前に、この足元の小箱をどうにかしなくては。


 ふるふると顔を左右に振って、やっと金縛りを解いたゆかりはそれを素早く拾い上げて、紙袋の中へとしまいこむ。今度はそれをビニール袋の中に入れて、テーブルへと戻したその時。がちゃりとドアの開く音が背後から聞こえた。

 間一髪。セーフ。和樹がこっそり買っていたこれをゆかりはまだ知らない。という状況に戻すことは成功した。安心してほっと息を吐くのと同時に和樹がゆかりの名を呼ぶ。


「すみません、一人にしてしまって」

「い、えいえ。だいじょうぶですよ」

「ん? どうかしました?」

「うぇっ!? なにも! 大丈夫です!」

 嘘をつくのも誤魔化すのも苦手なゆかりはしどろもどろになってしまう。何かありました、と言わんばかりの返答に和樹が首を傾げた。それでも追求することなく、ご飯にしましょうかと和樹は微笑んだのだった。


 そのあとは、久しぶりに一緒にご飯を作って、向かい合ってご飯を食べて、楽しみにしていたコンビニスイーツを食べて、ソファで二人テレビを見て、ゆっくり過ごした。話したこと、話したことはなんだっけ。

 正直、ずっとあの小箱のことが頭の端にちらついてて覚えていない。だってもしかしたらこのあと。そういう雰囲気になるのかもしれないし。


 何度も和樹の話を聞き返してしまうし、箸も取り落としそうになるし、いつもはお喋りな言葉数は減っちゃうし。そんなゆかりを見て気遣わしげに目を細める和樹の表情ばかり思い出す。ああ絶対に怪しまれている。


「…………さ……ん、ゆかりさん!」

「へ!? は、はいっ!」

 またやってしまった。

 慌てて和樹へと顔を向ければ困ったように笑う彼の姿。どうしようと意味もなく両手を胸の前で大げさに振れば、その手を一回り大きい手にそっと包まれてしまった。


「もう時間も遅いですし、送っていきますよ」

「はい。………………はい?」

 あれ、おかしいぞ。なんかおかしいぞ。思っていたのと違うんだけど?

 玄関前でしっかりとコートを着た状態のゆかりは微かに首を傾げた。この家に上がってすぐに見てしまったあれは、ゆかりが偶然見てしまったあれは、違ったのだろうか。いや袋にしまう時に思わず箱の裏まで確認してしまったけど、確かにベッドの中で活躍するあれだった。間違いない。

 もしかして今日使うつもりではなかったのか。それなら別に今日買わなくても良かったのではないだろうか。念のために買っておいた? それともゆかりと使うものではない? あれって使用期限とかあるのかな。ほらなんでも新鮮なほうがいいというし。あれ、いわないっけ。

 

「ゆかりさん、大丈夫?」

 頭の中をぐるぐる回る疑問に、もたついてしまう足元。和樹が心配そうに声をかけてきて、ゆかりが何も考えずに返した言葉は。


「しょうみきげんが」

「え、賞味期限?」

「あっ、いや、その」

「デザートは食べましたよね? まだ何か買ってましたっけ?」

「ないです、大丈夫です」


 何を言っているんだろうかと自分でも自分がよくわからない。新鮮なもの、食べ物、賞味期限に繋がった自分の思考回路が理解できない。

 慌てて取り繕うように早口で言葉を重ねれば、和樹の動きがぴたりと止まる。なんだか様子が気になって、そろりと後ろを振り向けば、顎に指を添えて考え込む和樹の姿があって。

 ふと視線が合う。瞳の奥が、ゆらりと揺れた気がした。


「……もしかして見ました?」

「えっ!? な、なにも」

「紙袋の中身、見たんですね」

「ちっ、ちがくて! あの、勝手に見たわけではなくて、袋が落ちちゃって、あっ」

 しまった。正直に話してしまった。

 だらだらと背中に流れる汗と、早まる心臓の音。もしかしたらとは思っていたけれど、覚悟は出来ていない。今日はやっぱり見逃してほしい。


 すぐ後ろにある玄関扉に飛びつこうと、踵を返そうとしたそのとき。ぐっと腕を引かれて、和樹の腕の中に捕まってしまった。ゆかりの背中をするりと撫でる指先が、なんだか熱を持っているような気がして。厚手のコート越しだから、感じるはずないのに。

 ぴたりとくっついた距離にゆかりの全身がかっと熱くなる。顔まで熱くてしかたなくて、ぎゅっと目を瞑れば耳元に吐息がかかった。


「まさに、食べごろですね」


 ああ新鮮な食べ物は自分だったのか。なんて、知りたくなかったとゆかりは身震いした。


 ゆかりさんの頭の中はパニック全開。

 書いてる私が言うのもなんだけど、全然そんなはずない話題なのに、うっすらホラーに見えてくる(苦笑)



 連載中の『シンデレラ奇譚』、かなりコメディに寄せたひとつめのお話(約3万5千字)が完結しました。

 現在もうひとつのお話を投稿中。年内に完結予定です。

 トータル8万字くらいになりそうなので、年末年始のお時間あるときにでもイッキ読みで楽しんでいただければ嬉しいです。

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