475-4 満月を食らう(中編3/3)
「わぁ! 赤というよりオレンジっぽいかなぁ?」
「ええ」
皆既月食中の月は、地球の大気や影の具合で目に映る色が変わる。赤銅色と表される色が一般的だが、大気の塵が少ないとオレンジに見えることもあるという。今夜の月が太陽と地球の重なりを映す。皆既月食と一言で言っても、そこに現れる様相はいつも違う。
いま眺めている月も、おにぎりの月食も、二人のこの状況も、二度とないものだ。
でも、どんなときでも、そこにあるのはもう二度とないものだ。それなのに、この胸は特別なものばかり、殊更に強調して柔く締め付ける。
車の走行音、弾む子どもの声、向かいの建物で消える照明、雲がかかる赤銅色の月、生姜焼きのにおい。いま胸に灯るのは、切ないほどの愛しさだ。ここにあるものすべてへの。
満ち足りた夜の風が、静かに頬を撫でていく。風が攫う。風が誘う。
瞼を閉じて、生姜焼きのたれがしみ込んだおにぎりのかけらを頬張り味わう。雲を払った月を見上げながら飲み込んだ。チノパンのポケットの中でスマホが振動している。
「綺麗ですね」
「きれい、神秘的って言うのかな」
「うん、そうですね」
味噌汁をすすり、食事を終える。
そろそろ部分月食へと変わる頃。
「ごちそうさまでした」
そう笑いかけると、その眼差しは、柔和そのものだった。
「お粗末さまでした」
「とても美味しかったです」
差し出されたお盆に詫びを入れつつカップを置く。
「おにぎりお月さまも皆既月食になりましたねぇ」
「はい。今頃僕の胃の中で生姜焼きとお味噌汁と合わさって赤銅色ですよ」
「わ! そこまでは考えてなかった!」
「でしょうね」
深い意味を探すのは、いつだって差し出された方だろう。
「あ、本物のお月さまは戻ってきましたね」
「おにぎりはさすがに元には戻せませんね」
「戻さないでください」
「もちろん、戻しません。戻したくないです」
ゆかりさんは、まるでこちらを明るく照らすように笑った。
彼女は太陽だ。
歩みを止めてはいけない。立ち止まってはいけない。
華奢な膝に乗せたままのお盆から、おもむろにガラスの箸置きを手に取る。おはじきに似た箸置きを掌で転がし、太陽にかざす。
「……な、なんですか?」
「……いえ、特に何も」
苦笑で何もかも誤魔化せたらよかった。
「……でも、さきほどの話ですが、僕を地球だとするなら、ゆかりさんは太陽ですね」
「へ?」
「エネルギーの生みの親は太陽ですから」
細い指を顎に当てながら「エネルギー……」とひとりごちた彼女は、閃く。
「おにぎりだ!」
その閃きによって、周囲の明度と彩度が増すかのようだ。
「そうです。これで明日も頑張れます」
「ふふふ。頑張ってください」
太陽は、地球にあらゆるエネルギーを与える。そのエネルギーを利用して、消費して生きる。与えてもらえるだけ与えてもらう。過不足は自分でどうにかするしかない。過剰だから、あるいは足りないからといって、太陽に求めることはできない。太陽も還元されることを望んでいない。そのままで十分に満ちている。
この距離でいなければいられない。開いた掌を握る。
「それで? 箸置きはなんですか?」
好奇心を浮かべた前のめりなその様子に、思わず笑みが零れ出る。
「手品は出ませんよ」
「え、そっかぁ」
と、姿勢を後ろに引いて、少しだけ肩を落とす。
「それはまた今度」
「楽しみにしてますよ?」
甘えるような、挑発しているような上目遣いに「もちろん」と頷く。
「それじゃあ、えっと、箸置きは?」
「食い下がりますね」
伝えたいけれど、言いたくない。だが、話したい。彼女の好奇心は、この胸の内をくすぐる。
「だって急に手を伸ばして来て、こうしてたら気になるじゃないですか」
ジェスチャーを交えて催促してくる。それは、「あなたが何を考えているのか知りたい。あなたを知りたい」と言っているに等しいことを、きっとこのひとは知らない。無邪気に人を求める心に、人生とは酷なものだという断絶を、いつでも希望はあるのだという結び目を、教えたくなる。
「……本当に大した意味はないです。ただ、ここにプリズムがあったなら、太陽であるゆかりさんの光は、何色に分かれるんだろうなと思ったもので」
「……えっと」
小首をかしげ、瞳をぐるりとまわしながら、こちらが言ったことを咀嚼しようとしている。彼女が首を傾げたときは、耳を傾けてくれているときだ。抗うことを難しくさせる。好奇心と優しさが映る瞳にガラスを指先でつまんで見せる。
「虹と似た原理です。プリズムに太陽光が入ると色が分かれるんです。条件はありますが」
「虹がつくれるんですね」
「ええ。まぁ厳密に言えば、虹は空中にある水滴でできるものを指しますが、ここでそれはいいでしょう」
「ふふ」
彼女が始めた遊びだ。いいだろう少しくらい。少しくらいはいいだろう。
「太陽であるゆかりさんの光は、その色は、きっと綺麗だろうと思ったんです」
「……えぇっと……」
まっすぐ合っていた視線が逸れた。指で隠される口元、揺れる瞳、ゆるやかに赤く染まる耳。ここに来てやっと恥じらいの表情をみせた。その表情に綻びそうになる喜びを隠して笑う。
「喫茶いしかわの看板娘、ゆかりさんは喫茶いしかわにとっての太陽です」
「な、なんだかすごく褒められてる……?」
「ええ、もちろん。いつも感謝しています」
逆光によって、頬の赤みまでは確認できない。できない方がいい。これから難関を跨がないとならないのだから。
「さ、外はまだ肌寒いですから、中に入りませんか?」
月見のためにこれだけの用意をしてくれたから、この提案に難色を示すかもしれないと思ったが、彼女はすんなりと頷いた。
「そうですね。続きは中から見れるし」
「ええ。あと僕はそろそろお暇しますね。そうは言っても、あまり長居するのはよくないでしょう」
「……はい」
神妙な声色だった。
立ち上がったゆかりさんに「お先にどうぞ」と促され、ベッドを跨ぐ。床に足を着けば、外気に慣れた鼻が甘い香りを捉えた。視界の端にいまだコテリと寝転ぶ彼に「君がいてくれてよかったよ」と、心の中でそっと感謝を伝えた。
網戸越しに月を見納める。丸い影から覗く淡く白い光が夜に色を添える。
見納めている間にキッチンに移動したゆかりさんに「洗い物します」と声をかければ、「自分でやった方が早いからいいですよ」と言ってくれた。それに甘えることにした。
そして、退室するのにいいタイミングだった。
改めて礼を伝えると、はにかみながら微笑んだ。
「どういたしましてです。……一緒に楽しめてよかったです」
「……はい。僕もです」
スニーカーを履き、ドアを開ける。ゆかりさんへ振り返る。
「お邪魔しました。おやすみなさい」
「帰り気をつけてください」
頷いてドアを閉めた。
閉まったばかりのその向こうで、金属がすれる音がした。




