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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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475-3 満月を食らう(中編2/3)

「どかしていいのであれば、どかしましょうか?」

「掃除機をかける時間がなかったのでやめてください……! あ、このへんはなんとかコロコロしましたよ」

 そう赤面されては強要できない。

「皆既月食が始まっちゃいます。……それに冷めちゃう」

「それはいけません」


 掃除機をかけるよりも自分の夕食をつくることに時間を割いた。ジロジロ見ないよう努めていても、目に入ったキッチンまわりと棚の小物類から日常的に部屋を整えているのはわかる。不衛生な場所に招かれたわけではない。だから、こう思う。自分が恥ずかしい思いをするよりも、こちらの空腹を満たすために時間をつかってくれたと。もう躊躇う方が愚かだ。


 視野を広げて、それから足元の物の位置を確認した。

 ベッドと押し入れの間の僅かなスペースに移動する。網戸をずらし、風が揺らすよりも強く二枚のカーテンを押し広げて、ベッドを跨ぐ。そうして窓の下枠に両足を着けた。

「うわぁ、足が長いとそういうこともできちゃうんですね……!」

 嬉々とした感心に「それほどでも」と苦笑した。信頼されているのは有難い。こちらが気を揉む必要はないのでは? という気分にさえなってくる。気を抜いてしまいそうになる。


 そのとき、枕元にでんと置かれていた高さ三十センチくらいのぬいぐるみがコテリとバランスを崩し、ローテーブルに寝転ぶ。その角度がなんとなく「見ているぞ」と言っているように思える。そういえば以前、子供の頃から不安な時寄り添ってくれるお守りみたいに大事なぬいぐるみが……と言っていたなと思い出す。あぁ、悪さはできないなと思った。少しばかりほっとした。


 ベランダには、ベランダ用だろうサンダルと小さなビーチサンダルが、すでに用意されていた。

 断らなくてよかった。そう思ったことは素直に認めよう。

 サンダルをつっかけて、よく晴れた空を見る。数メートル上がっただけで随分と景色は変わるものだ。地上では見えなかった月が冴えた空に浮かんでいる。部分月食はだいぶ進んでいた。


 腕を伸ばしてお盆を受け取る。ゆかりさんはベッドを踏み越えてベランダへ降り立った。

「あ、さっきより影になってる」

「少し見逃してしまいましたね。すみません」

「ふふ。うちの配置が問題なんです」

「はは……」

 どれだけのことをわかっていて言っているのか、わからなかった。


「ご飯、いただきますね」

「お盆、持ってます」

 ふっくらと白い腕が差し出される。室内の照明が曲線をなめらかに滑っている。その両手に抵抗する気が起きなくて、素直にお盆を差し出した。

「ありがとうございます。でも、鑑賞しにくくないですか?」

「大丈夫です。こうやって見るので」

 ゆかりさんはベッドに腰かけて、膝の上にお盆を乗せた。

 ますます目の毒だなと思ったが、口に出さなかった。


「和樹さんが立ちっぱなしになっちゃうけど」

「僕はここで十分です。では」

 お盆からおにぎりを手に取り、ラップを外す。それからパリパリの海苔を丸いおにぎりに巻く。海苔が弾けて、断片が宙で踊る。

 「いただきます」と告げて、全型の海苔でも巻ききれないおにぎりを頬張る。海苔の風味と甘みのある米と、食欲をそそる醤油と生姜。食べ応えのある豚肉。

 特大おにぎりの中身は生姜焼きだった。まだあたたかい。


 米粒たちを噛みながら、手刀を切って、おにぎりをマグカップとフォークに持ち替える。味噌の香りを吸い込んで、具と汁を口に含む。長ネギと豆腐の味噌汁だ。

 月よりも高く空を見上げる。

 最高で至高だ。同義語だな。

 口内のすべてで味わって食道に通した。


「とても美味しいです」

 振り向いて伝えると、その表情がぱっと花開く。

「よかった! 仕事終わりだからガッツリ系にしました!」

「実際空腹だったので有難いです」

 事実だった。立て続けに巻き起こる突拍子もない出来事に空腹を忘れていたが、一度口に入れれば、唾液が溢れて、次の一口を欲する。それがこの食事なら、なおさらのこと。おにぎりに手を伸ばし、さらに頬張った。


 静かに影を纏っていく月とあたたかく美味い食事。このうえない贅沢だ。危うくこの時間を無に帰すところだった。台無しにしなくて、よかった。


 密かに胸を撫で下ろしていると、斜め後ろから「ふふふ」と小さい鈴の音に似た笑い声が届いた。

「どうかしましたか?」

 ゆかりさんはまた得意げな笑みを浮かべて、肩を弾ませる。

「部分月食のできあがりです!」

「え? あ! なるほど!」

 一瞬虚をつかれたが、すぐに手にある特大おにぎりを空にかざす。食べかけだが、こういうことだ。

 丸いおにぎりが食われて欠けた。


 月食は、太陽に照らされてできた地球の影に月が入ることで起きる現象だ。それは天体の物理現象であって、天体の意志が働いているのではないのだが、こういうことだ。


「なら、僕は地球ですね」

「ふふ。月なら白いご飯のままがいいかなって思ったんですけど。やっぱりよりおいしい方がいいなって」

「はい。最高に美味しいです」

「よかった!」

 ふわりと目を細め、嬉しそうに笑って、彼女は月を見上げる。何十種類もの笑顔をもっているひとだ。


「いよいよですね!」

 皆既月食が始まった。

 二十分足らずで終わるこの現象をこんな状況で見ることになろうとは。豆大福を届けるだけのはずが、ゆかりさんによって、賑やかで、でも穏やかで楽しく、彩のあるイベントに変化した。

 帰ったらブランと思いっきり遊ぼう。だから申し訳ないが、いまはこの時間を噛みしめさせてもらいたい。


 おにぎりと味噌汁が冷めないうちに、それでいてゆっくり食べる。静謐な夜を味わう。

 それに味わっている間は、振り向こうとする身体を抑えておける気がする。そうしていれば、月に見惚れる彼女に見惚れないで済む。


 平穏を願う心と邪にまみれたくなる欲動と。

 地球の影に食われた月。

 ゆかりさんの遊びは、おにぎりを月に見立てるものだ。それを飛躍させて自分を地球だとするなら、ゆかりさんは太陽だ。地球は自転しながら太陽を周り続ける。もし、イレギュラーな事態によってその動きが止まってしまったなら、地球そのものが、太陽の重力に抗えずに消滅するだろう。

 もし自分がここに、このひとに留まってしまったら……不利益や支障では済まされない事態になる。


 いま振り向いてその姿を映してはいけない。歩みを止めてはいけない。

 瞼を閉じる。鈍色に光る暗闇のなかにため息を落として、開く。


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