475-2 満月を食らう(中編1/3)
一足早く居室へ入った彼女に
「和樹さん鍵しめて、早くこっち」
と呼ばれた。
言われるままに鍵はしめるが、誰かが来た時に誤解を解きやすいようチェーンは掛けずにおいた。長居をするつもりはないという意思の根拠になるように。あまり有効だとは思えないが。
入室の断りを入れてスニーカーを脱ぐ。客として訪ねたのであって親密な関係ではないという根拠になるようにスニーカーは、きっちり揃えておく。
向き直って廊下の先にいるはずのひとを探すが、開かれたドアの視界にいない。閉められたカーテンが部屋を明るく彩っているのがわかる。尋ね人は、この向こうにいるのだろう。自分を招くために。
ここまで来てようやく、いま困っているのは、そして先々困るのは、自分なのだと理解した。
そう思えば、それなりに何も起こさない覚悟ができるというものだ。意識的に肩の力を抜く。平静を取り戻し、防衛策としてまず防犯の話をしようと二度目の決意をした。
「ゆかりさん」
部屋に入って見えたのは、ローテーブルに置かれた豆大福の紙袋、ベッド、その上にある特大の丸いおにぎりだった。男の拳よりもはるかに大きいおにぎりは、ラップに包まれ、皿、お盆、ベッドに乗せられて、照明を淡く反射している。そのままお盆の内を見れば、透明感のある箸置きにフォークのくびれ部分が乗っているのが確認できた。うっかり茫然としてしまう。
「ちょっと待っててください」
というゆかりさんの声もうつろで、頭の中はなぜベッド上におにぎりがあるのか? と困惑しきりだ。意識せずとも部屋に満ちている女性らしい甘い香りが脳を刺激しているというのに。警鐘は鳴りやみそうにない。
そんな困惑をよそに後方から香ばしいにおいが漂ってくる。磯の香り。親しく身近な香りによって我に返り、足裏で床材のカーペットを擦って振り返る。
「海苔ですね」
ゆかりさんはコンロの火を止めてにこりと笑う。
「炙ってみました。おにぎり用に」
おにぎりは一つであるし、シンク横の水切りかごの中に一組の茶碗と汁椀があり、さらに丸皿と箸、いくつかの調理器具も干されている。となれば、彼女が用意しているのは来訪者、つまり僕のもののみだろう。電話をした時点で食事は済ませていたのかもしれない。
「わざわざそんな」
「おいしい方がいいじゃないですか」
そう受け答えて、ゆかりさんは湯気がほわっと立ちのぼる鍋からマグカップへ味噌汁をそそぐ。
まさかそこまでと驚き、立ちすくんでいると、彼女はもう一度にこりと笑った。
「さぁさぁ!」
と部屋へ入り、自分を追い越した。ベッド上のお盆にマグカップと皿に乗せた海苔を置く。
そして、振り向いた彼女は言い放った。
「よかったらベランダに出ませんか? 広くないですけど」
時を止めるように口を結んで、一瞬息が止まる。
カーテンのサイズからして、ベッドの向こうに大きな窓がある。そこからベランダへ出られるのだろう。ベッドの長さと窓の幅はほぼ同じで、部屋のスペースを広くとるためか、ベッドは窓に密接している。
カーテンが外側から揺れる。足元に涼やかな風が流れる。窓が開いていることに今更気が付いて、その他のことにもやっと気が付いた。か細い息が零れ落ちる。掌で首裏をさする。
「あ、ああ……えぇと……」
三つの事柄が脳内を駆け、どう言葉を発するべきかと悩みだす。
まず一つ目、ゆかりさんが呼び鈴に対して無警戒に応じた理由がわかった。遅すぎだと密かに自分につっこみ、ここまでの道中ではそれは建物に遮られていたからだと自己弁護をする。
二つ目、彼女が夕食をと誘った理由も、その一言で納得した。豆大福を届けた礼というより、今日のこの時間でしか味わえない特別な出来事があるからだ。特別はイレギュラーな言動をもたらす。
三つ目、ベランダに出るためにベッドを越えてと言っている。現時点では防犯のことよりも、一人の自室に男を招くことよりも、ベッドにおにぎりがあるよりも、これが一番大問題のように思う。
どうしたものかと思案して、結局三つの事柄に共通しているものについて言葉にすることにした。
「皆既月食ですね?」
この確認にゆかりさんは得意げな表情になる。
「和樹さん、忘れてたでしょ? 忙しいですもんねぇ」
「……ええ、まぁ、それほどでも」
と、頭を掻く。
「帰りながらでも見られるだろうけど、止まりながら見た方が安全だし、ゆっくり見られると思って。今日を逃したら、次の皆既月食は数年待たなきゃいけないらしいですよ」
玄関前で警戒心がなどと不安に思っていたのは、独り相撲だった。やはり困っていたのは自分で、焦っていたのも自分だった。二つ目の真実が彼女から明かされたので、一つ目の謎を解く。
「僕が来たこと、わかっていましたね?」
ゆかりさんは、何を言っているのかというように小首を傾げた。
「そうですよ? 和樹さんから『これから喫茶いしかわを出ます』ってメッセージもらったので、部分月食を見つつ、そろそろかなーって下を見つつ」
杞憂に胸を撫で下ろす。
「安心しました。ゆかりさん、どれだけ警戒心がないのかと心配してしまった。呼び鈴を鳴らしたとき、ちょうどスマホに連絡が入ったんです。それでカメラからすぐに離れたので、あのとき僕は映像に映っていなかったはずです。でも、ゆかりさんはドアを開けたでしょう?」
「そうだったんですねぇ。上から見てたから、和樹さんだとわかってましたよ。それにおにぎりをベッドに移すのにちょっと慌ててて」
「なぜおにぎりを?」
防犯について話すよりも先につっこみたくなってしまった。
「えっと、部屋に入って最初に目につくところに大きなおにぎりがあったら、びっくりするかなって」
「……大いに驚きましたよ」
無邪気なこの様子をみるにおそらく蠱惑的な意味は一切ない。単純に特大おにぎりの存在を引き立たせたかっただけだろう。食事と不釣り合いな場所という意外性も含めたのかもしれないが、それ以上、それ以外の意味はないと思っていい。それだけこの時間を楽しみにしていたのだと思う。
「……だから食べてくださいね?」
警鐘が鳴りすぎて頭が痛い。
当の本人は、窺う類の視線を送っている。何かしらやってしまったらしいとは思ったようだ。
「……その前に一言。ドアを開ける前に相手を確認した方がいいと思います。僕がマンションに入ったのを見ていたとしても、僕より先に不審者が来る可能性はありましたから」
「でも、モニター見ても和樹さんはいなかったんですよね?」
「それは呼び鈴を無視したらいいんですよ。状況的に僕はもう一度鳴らしました。自分が映っていないだろうことはわかっていましたから。一応ですが、確認はモニターでしてください。ドアスコープだと、気配が伝わって居留守が使えない場合があるので。ドアポストから何が投げ込まれるかわかりませんから」
ゆかりさんはさっきよりも控えめな角度で首を傾げて苦笑した。
「心配性ですねぇ」
「これでもそれなりに顔は広いので、色々目にしたり耳にしたりしてるんです。気を付けてくださいね?」
「はぁい」
少しだけ膨れて返事をしたあと、彼女はお盆に手を伸ばし、いよいよ三つ目の大問題に手をかける。
「……じゃあ、どうぞ」
ベッドを踏み越えろという合図だ。
逃れられない。無垢に素直にこの特別を用意してくれた彼女の誘いを無下にできない。空の移り変わりは待ってくれない。自分が一秒でも長くここに佇むほど、ゆかりさんは楽しみにしていた時間を失う。
「ベッドをどかせたらよかったんですけど、さすがに重たくて。気にせずどうぞ!」
そんな「ベッドはプライベートスペースですけど、気にしないので気にしないでください」のように言われても。




