475-1 満月を食らう(前編)
和樹さんが必死に自覚に抗おうとしていた頃の話。
外廊下の照明の下で、同僚宅のテレビドアホンを押した。
よくある軽い電子音が控えめに響いたのち、ドアの向こうから、ふんわりした「はぁい」という声が微かに届いた。ドアホンの通話じゃない。声の主は、ドアに隔たれて見えないこちらに返事をした。
自分は、玄関の横にあるすりガラス窓の反対側にいるから、彼女がいる室内から姿形は捉えられない。なおかつドアホンのカメラの画角外という位置取りだ。ちなみに窓とカメラの中間にあるドアスコープの視野からも外れている。
同僚の軽やかな声が脳内で警鐘に変わる。不用心がすぎる。自然と眉根が寄る。
もっとも、窓、ドアスコープ、カメラという室内から外廊下を窺うことにおいては好条件な設備を無意味なものにしているのは自分だが。
なぜセキュリティを自ら外れるのかについて責めを受けたなら、それは仕方がない。素直に謝る。だが、問題はそこじゃない。
まだ「すみません」とも「ごめんください」とも言っていない。当たり前だ、通話可能な機器があるのだから、呼び鈴を鳴らしながら言う必要はない。相手が通話に応じたあとに挨拶をすればいい。
それなのに通話じゃない。
ちなみに現在時刻は午後七時半を過ぎている。空にはすでに夜が広がっており、たとえ夏であろうともこの時刻は一般的に夜に分類される。
嘆息が漏れる。これだから、困る。喫茶いしかわの看板娘——石川ゆかりの無邪気さ加減には。
室内からドアに近づいてくる足音がする。隔たれている先の音をこの耳が拾うのは、感覚を研ぎ澄ませるスキルとカメラの画角外にいるために壁に寄っていることによる。だから、音を立てるなとは言わない。言わないが、だ。
そう思いながら、画角外のまま扇状にドアから離れて、音も振動もしていないスマホを荷物のない右手に持つ。ぼうっと光る画面を食い入るように見つめる。耳はドアの向こうの音を拾い続ける。足音の次は、金属がすれる音がする。チェーンロックを外している。
彼女はいま、呼び鈴を誰が鳴らしたのか知らないまま、このドアを開けようとしている。そもそもドアの向こうに誰がいるかわからないのに、彼女は無警戒な声音で直接返事をしたのだ。同僚の防犯意識を試すつもりはなかったから、不意打ちで恐ろしい現実を知る羽目になった。
渡すべきものを渡したらすぐ帰るつもりでいたが、一言物申していこう。ただ、挨拶の前に不用心を指摘するのは野暮だ。ぐっと堪えなくては。
そう自戒している間に開錠され開扉される。
「お疲れさまです、和樹さん。わざわざすみません。あれ? どうしてそんなところに?」
「こんばんは。仕事の連絡に急ぎ返信を」
「ああ。お疲れさまです」
いつも通り笑っている彼女にいつも通り笑えていたと思う。
出迎えてくれたゆかりさんは、今日入れ違いで退勤した時と同じ服装だ。流行りらしいゆるめのTシャツを着て、裾にいくにつれて窄まるゆるめのズボンを履いている。
そういうゆるさが返って華奢さを演出するし、想像を引き立たせるのだが、後者はこちらの都合なのだから、それについても何も言えない。ひとまず部屋着や寝間着の類でないことには胸を撫で下ろした。
「では、これを」
左手に下げていた紙袋をゆかりさんに差し出す。中身は喫茶いしかわの客からもらった老舗和菓子屋の豆大福ふたつ。和スイーツのメニューを考えていると雑談したことがきっかけで、「ぜひ参考に食べてみてほしい」と差し入れしてくれたもの。
彼女は丸い瞳を輝かせて、頬と口角をきゅっと上げて、そう満面の笑みだ。
「ありがとうございます!」
「いえ、僕は届けただけなので。お礼は尾川さんに」
「届けてもらったことへのお礼です。尾川さんには後日きちんと伝えます」
「それもそうですね。では、お礼を受け取りました」
「はい! と言いたいところですが、まだです」
「え?」
今夜の任を無事終えて、防犯について提言しようとしたところで会話が詰まる。
明日以降になれば、餅が固くなり風味が落ちる豆大福を今日中に彼女に渡す。これが喫茶いしかわで働く和樹の本日最後の仕事だ。
「女性の自宅に行くなら少しでも早い方がいいね」
というマスターの紳士的計らいによって、閉店時刻より早く来訪できたというのに、何かが始まる気配がする。
「何かあるんですか?」
「はい! ご飯まだですよね? 用意したのでよかったら」
屈託ないにこやかな表情に面食らう。自宅に招かれている。
「えっさすがにそれは、えぇと」
「あ、予定ありますか?」
「いいえ、ないですが」
バカ正直に答えたな、いま。
彼女の純真さに当てられたに違いない。一瞬気後れした相手に気が引けたに違いない。女性に恥をかかせるのは紳士として非道だ。そういうことにしておきたい。
そういうことにしておきたいが、紳士として言わないといけないこともある。提言しようとしたことと種類は違えど通ずることだ。
「その、さすがに女性の自宅に男一人で入るというのは」
こちらが躊躇いがちに伝えていることを、まさしくきょとん顔で受けている。また面食らう。
一階に呼び出すべきだった。いや、
「豆大福をいただいたので、このあと届けてもいいですか?」
のタイミングで、併せて
「一階で待ち合わせましょう」
と言うべきだった。いや、これも違う。
「僕はそのあと予定があるので、下まで下りてきてもらえますか?」
だ。これなら夕食を用意させずに済んだ。それに自宅ではブランが待っている。予定はないが、ブランが待っている。あれ? まだブランのことは話していなかったかな。
考えを巡らせている間に焦りや恥じらいの表情が現れてくれれば、警戒心をもってくれたなと安心できたのだが、なんと彼女は「それは一体何の冗談だ」というように笑った。
「だって、和樹さんだもの。和樹さん、私とどうこうするつもりないですよね? 私もないです」
一刀両断がすぎる。信頼されているにもほどがある。眼中にないのが一目瞭然だ。
一般的に、女性の部屋に男が入室する際に当てられる言葉として、彼女の言説の方が荒唐無稽だろう。これまでの経験を振り返っても、蠱惑的な雰囲気なく女性の自室に立ち入ったことがあっただろうか。
だが彼女との現実は、こちらの配慮や心配が杞憂で荒唐無稽なことでないとならない。つまり彼女の認識は、この関係において間違いはなく、むしろ正しい。初夏の高原のように瑞々しく軽やかなその瞳には、ぬかるみに誘い込むような陰りはない。夜、であるというのに。
ここは彼女の言い分を受け入れて、現実的に返答する。二人に誤りがなくとも、周囲が放っておいてくれるとは限らない。
「それはそうですが。変な噂が立っても困るでしょう」
「……それならさっさと入ってください。ご近所さんに痴話喧嘩してるって思われちゃう」
「……わかりました」
予定がないことを伝えてしまったばかりに、彼女の中に和樹が帰るという選択肢が最早ない。SNSの炎上についてはよく気にするわりに、周囲に人がいないとなると大胆というか、警戒心がないというか。
本人は和樹を異性として意識していないのに、周囲の目を通すとお互いは異性同士でやっかみを買うのだと意識している。合理的に考えれば齟齬のような気がするが……まぁ、異性であると認識しているが、そういう対象だとは思っていないということだろう。
ならばせめて防犯知識を置き土産にして、短時間で辞去しようと決意する。




