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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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474 子守り唄の音階は

「こーこーろーざーしを、はーたーしーてー、いーつーのーひーにか、かーえーらーんー」


 三日ぶりに帰宅し玄関を開くと同時に、妻であるゆかりの歌声が微かに聞こえてきた。それは、ト長調の『ふるさと』。

 できるだけ音を立てぬようにドアを閉じて鍵を掛ける。声がするのは寝室だ。足音を忍ばせて寝室へと向かい、そっと扉を開けた。そこには、ベビーベッドで眠る娘・真弓を見守りながら、ベッドに腰掛けて歌を歌うゆかりがいた。


「やーまーはーあーおきーふーるーさーとー、みーずーはーきーよきーふーるーさーとー。おかえりなさい、お父さん」

「うん、ただいま」

 視線を真弓から離さず、なおかつ扉に背を向けた状態でも、ゆかりは夫の気配にきちんと気づいていたようだ。

 ゆかりはこちらへ振り向き、嬉しそうに微笑んだ。その表情は穏やかだが、やはり若干の疲労の色がある。真弓を起こさぬよう、小さな声で会話を始める。


「お仕事、お疲れさまです」

「ゆかりさんこそ、お疲れさま。本当に、いつも任せっきりで申し訳ない」

「謝らないで。こういう時は、“ありがとう”の方が嬉しいです」

「そうだね。いつもありがとう」

「うふふっ、はい」


 ゆかりの横に腰掛け、真弓に目を向ける。お気に入りの玩具を右手で握りしめたまま、ぐっすりと眠っている。

「うさぎのぬいぐるみ、握ったままだね」

「離そうとしなかったから、そのままでもいいかなーと思いまして」

「ははっ、いいんじゃないかな」

 真弓の寝顔を見ているだけでも、自然と頬が緩み、激務の疲れが取れていくのが分かる。ゆかりと真弓の存在は、今やこの上ない癒しである。


「最近ね、この歌を歌うとあっという間に寝てくれるんですよ」

「ああたしかに、子守歌にはちょうどいい曲だね」

「でも、ひとつだけ不思議なことがあるんです」

「不思議なこと?」

 ゆかりは、不思議でたまらないといった表情で話を続ける。


「この子、決まった音程で歌わないと、寝てくれないんですよねぇ」

「へぇ……どうしてですかね?」

「さぁ? この子なりのこだわりかもしれませんね~」

 なぜだろう、と二人して首を傾げる。


「私、地声だとさっきの音程は少し歌いづらいんですよ。でも、音程を高くして歌うと、真弓は全然寝ないんです」

「なるほど……」

 だから、ゆかりにしては少し低めのト長調で歌っていたのかと納得した。


「もしかしたらですけど……真弓は和樹さんの歌声を覚えてるのかもしれません」

「え?」

「ほら。真弓がお腹にいた時に、何度か歌ってくれたじゃないですか」

 そういえばたしかに、ゆかりにせがまれて、何度かギターを弾きながら歌ったことがある。


「ふるさとを歌うと機嫌がよかったから、試しに寝かしつけの時に歌ったんです。でも、最初は全然寝てくれる気配がなくって。そのとき、和樹さんが歌ってたのを思い出して。もしかしてと思って同じようにキーを揃えて歌ったら、びっくりするくらいあっという間に寝ちゃったの」

「そうなんだ。もしそうなら凄いことだな。それに嬉しい」

「ですね! うふふふん」


 まだ顔も見ぬうちから覚えていてくれていたのであれば、感動ものだ。

 親友と演奏したいがために覚えた「ふるさと」。この思い出深い曲が、真弓の中でも“忘れられない一曲”の一つになれば良いと、心の底から思う。


 その時、真弓の口元がむにゅむにゅと動いた。そのふわふわとした頬に触れたい衝動に駆られる。しかし、起こしてしまっては悪いと思い、ぐっと耐えた。


「……今、真弓のほっぺツンツンしたいって思ったでしょう?」

「……ゆかりさん、実はエスパーですか」

「和樹さんが分かりやすいんですよ~」

 そう言ってゆかりはクスクスと笑う。ポーカーフェイスは得意と自負していた和樹も、妻と娘の前では形無しである。


「少しくらいなら、触っても起きませんよ?」

「いや。まだお風呂にも入ってない状態で真弓に触るのは気が引けるし、今はやめておく」

「あ、そっか! ごはんもまだですよね? ごはんの準備しますから、その間にお風呂に入ってきてください」

「うん、ありがとう」


 この様子なら、真弓はしばらく目を覚まさないだろうと判断し、ゆかりと共に寝室を出る。

 こうして子守歌を歌いながら寝かしつけることも、三年も経てばできなくなるだろう。そう思うと少し寂しい気もするが、それまでに、よりたくさん歌を聞かせられたらと思う。




 そんなことを考えて、およそ三年後。

「うーたーぎーおーいち、かーのーやーまー。こーぶーなーつーりち、かーのーかーわー」

「真弓ちゃん、上手になったね~!」

 書斎から出ると、真弓とゆかりのやり取りが耳に入った。リビングへの扉を開くと、洗濯ものを畳んでいるゆかりと、そのすぐ側で昼寝をしている息子・進。そして、その隣で寝そべりながら子守歌として「ふるさと」を歌う真弓がいた。


「あ! おとーさん、おちごとおわり?」

「うん。終わったよ」

 三人の側に座ると、真弓は続きを歌い始める。


「ゆぅめーはいぃまーも、めーぇぐーぅりぃて~。わーしゅーれ、がーたち、ふーるーさーとー」

「真弓、いつの間に歌えるようになってたんだ?」

「おとーさんとおかーさんがよくうたってたもん! ほいくえんでもうたうことあるよ!」

 少し前まで聞く側だったのに、もう聞かせる側になっていることに、成長の早さを感じる。


「ほいくえんでさんばんまでちってるの、まゆみだけだったよ!」

「そっか、よく覚えてたな」

 真弓の頭をわしゃわしゃと撫でると、嬉しそうに笑う。真弓はふと顔を上げ、首を傾げながら尋ねてきた。


「ねぇ、おとーさん。うさぎっておいしいの?」

 真弓は何やら可愛らしい勘違いをしているようだ。そしてこれは、子供の頃なら誰もが一度は持つ疑問かもしれない。


「う~~ん。兎は食べたことないから、美味しいかどうかは分からないなぁ」

 それを聞いたゆかりは、耐えきれずに吹き出した。

「ぷっ! あはははっ!」

「うーん、そっかぁ」

「あとなぁ、真弓。『うさぎおいし』は、兎が美味しいって意味じゃないよ」

「えぇ! そうなの!?」


 本気でびっくりしている娘がたまらなく可愛い。

 もしかしたら隣で寝てる息子とも、同じやりとりをするかもしれない。

 十年くらい経ってからジビエ料理を食べに行ったら、昔の微笑ましいエピソードとして笑いあえるだろうか。


 このやり取りも、忘れがたい思い出の一つとなりそうだ。


 ウサギの料理……ジビエもですが、フランス料理ならしれっと出てそうな気はしますよね。鳩とかもあり得るかな。


 さて、今回のこどもの勘違いあるある。

 私の『ふるさと』は最初に見たのが漢字にフリガナをふってある歌詞だったので、そんな勘違いをするルートにたどり着けませんでした。

 なにせ初めて聞いたのが音楽の授業だったので。


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