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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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466-1 眩しさが目に染みる(前編)

 モブ氏目線のお話。

 新春初売りビジネススーツ通常価格六万五千円が、今ならなんと一万二千円。地方の大学を卒業し、この町の小さな印刷会社で世間の荒波にもまれること一年九カ月の俺にとって、一張羅と言えるのはこのスーツだけだ。

 やや光沢のあるネイビーのツーピースに形状記憶型のピンストライプのシャツを合わせ、シルク百%の広告を信じて購入した翡翠色のネクタイを締める。就活を機に両親から贈られたチェスターコートとビジネスバッグを抱え、営業活動で磨り減りこちらは五足目となった靴底を鳴らし、俺は喫茶いしかわの扉を開いた。


「いらっしゃいませ。山下さんは今日から仕事始めですか?」

 コトコトと揺れる鍋の音と共に、食欲をそそる白い湯気が立ち上る。不本意ながら取り込んでしまった外気に柔らかな髪がなびいて、その冷気から彼女を守るために俺は慌てて扉を閉めた。


「おはようございます、ゆかりさん。はい、長めの正月休みをいただいてたので今日から仕事です。今日は一日、上司と取引先へ挨拶回りに奔走することになるから、喫茶いしかわのモーニングで英気を養ってから出勤することにしました!」

 旨味を含んだ暖かい匂いに誘われるまま、彼女の正面に立ちカウンターの椅子を引く。

 観葉植物の緑が目に優しい、ナチュラルな空気を纏った店内は、他に客もおらず平日の早朝よろしく心地よい静けさに満ちていた。


「あらぁ、新年早々大変ですね。たくさん食べて、体をしっかり暖めて、お仕事頑張ってくださいね」

 ゆったりとした手つきで木べらを回しながら、彼女がふんわりと微笑む。

 その笑顔につられるように、凛々しさを演出したはずの俺の頬は自然と緩んだ。

 おおらかで表裏のない人柄を表すかのように開かれた卵のような額に、柔らかく細められた瞳。

 あぁ、ゆかりさんは今日もゆかりさんだ、と俺は人知れず安堵の息を吐いた。




 優しい味に舌鼓を打ちながら、年末年始彼女がどのように過ごしたのかさりげなく聞き出すことが、俺の新年最初の任務だった。

 そうですねぇ、とはにかみながら首を傾げた彼女は、大掃除をしたり、初詣に行ったり、お店の常連のユキエさんと福袋を買いに行ったり、自宅でペットと遊んだり……そんなに特別なことはしていませんよ、と屈託なく笑う。


 そういう山下さんは? と問われれば、実家でゲーム三昧、その後今日のためのスーツを新調し、今年こそは貴女に自分の想いを……と、馬鹿正直に告げる訳にもいかず、俺も似たようなもんです、と頭をかくしかなかった。


 彼女の口振りに男の影がないことを確認し、俺は静かに拳を握る。

 二杯目のコーヒーに口をつける頃になっても来客はなかった。

 時間は穏やかに進み、けれどいい加減腰を上げなければ新年の朝礼に間に合わないことに気付く。


 約半年、積もりに積もったこの恋を、今年の俺は少しずつ放流させるつもりでいた。

 夜毎募った恋情は、本来であればダムの決壊よろしく大流出しそうな勢いなのだが、実際は彼女を目の前にすると怖じ気づいて、ゲートを全開させることに戸惑いを覚えてしまう。


 料理が好きで、接客が好きで、思わず零れた愚痴も嫌な顔ひとつせず聞いてくれる彼女は俺の癒しだ。

 いつも明るく元気がよくて、子供や老人、強面オヤジまで笑顔にしてしまう彼女。決して目立つ外見ではないけれど、穏やかに垂れた大きな瞳と、存外てきぱきと動き回る働き者の小動物のような動きは見ていて飽きない。

 そんな彼女の日常に、少しでも自分が入り込むことができたら。

 そんな自分の日常に、少しでも彼女を取り込むことができたら。


 今年こそ俺は、俺と彼女の関係を変えたかった。

 ただ、笑顔を振り撒くだけの関係ではなくて。

 喫茶いしかわでは見せないであろう、彼女の内面に触れられる関係を。

 今度は俺が彼女の愚痴を聞いてあげたかった。

 困ったことがあれば一緒に解決策を考えて、悲しいことがあれば涙をぬぐって慰めて、できることなら毎夜この腕の中に閉じ込めて、想いのたけをぶつけたかった。


 一丁前に妄想だけは膨らんで、俺の心を溢れさせる。

 妄想の中での俺たちの交際は至極順調で、毎度繰り返されるその世界は俺の未来を明るくさせた。


 けれど、妄想だけで世の中渡っていけないことは、俺も重々承知の上で。

 ただ、それにはやはり、多大なる勇気と少しの行動力が必要で……。


 無造作に置いてあるスマホで残された時間を確認する。

 この時点で多少の猶予はあると思っていたのが、既にアウトで一瞬ヤバイと目を瞑る。

 だがしかし、ここで諦めては男が廃る。

 俺はカップの底に溜まっている褐色の液体を一息に飲みほして腹を括った。


 カウンターの向こうでは、彼女が黙々とレタスをむいている。

 言え! 誘え! 連絡先を聞くなら今しかない!

 空になったコーヒーカップの両脇に手をついて、俺は勢いよく立ち上がった。

「あの、ゆかりさ……」


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