462 野暮ったい処世術
和樹さんが喫茶いしかわでお手伝いを始めて少し経った頃のお話。
カンカラランとちょっと間抜けにも聞こえる音をさせて、最後の客が出ていった。その背中を見送りながら、ゆかりは濡れたタオルでチノパンをゴシゴシとこする。
けれど茶色いコーヒーの染みは一向に薄まることがなく、はあとため息をついてタオルをカウンターに置いた。
「やっぱり染み抜きしないとどうしようもなさそうですね」
ゆかりの右の太もも――無論、そのものではなくチノパンだ――を見ながら和樹は言った。
「そうですねぇ。でも、いいです。これ千九百円だし」
ベージュのチノパンはやわらかそうで、値段以上のものに見えた。少なくとも、和樹の目には。
「これ、動きやすくて気に入ってたんですけど、何時間もかけて染み抜きするほどのものじゃないですし」
最後の悪あがきとばかりにもう一度ゴシゴシとタオルでこするけれど、労多くなんとやらでその甲斐はなかった。
ゆかりが給仕をしている時、運悪く客の手がアイスコーヒーのグラスに当たり、下半身にもろにかぶってしまったのだ。火傷しそうなホットコーヒーでなかったのが不幸中の幸いといったところか。
それから暇を見つけてはゴシゴシとチノパンをタオルでこすっていたが、結局そのゆかりの努力が報われることはなかった。
「これからは着替えを置いておくことにします。これまではなかったとはいえ、今後もこういうことがないとも限らないし」
気疲れのためか、カウンターの椅子にだらりと腰掛けたゆかりは呟く。和樹はそのことばに頷きつつ、テキパキとテーブルのナプキンを補充し、塩と胡椒を回収した。
「ゆかりさんって、結構シンプルな服装多いですよね」
あまりスカートを履いているのも見かけない気がします、そう口にしたあとすぐに、余計なことを言ったと和樹は後悔した。セクハラともとられかねない言動だ。
本職で受けた管理職向けのセクハラ講習を思い出し、肝を冷やす。
一方のゆかりはというと、気にした様子もなくふふっと笑っていた。
和樹はほっと息を吐く。
ゆかりはニヤリとしてからわざとらしく右手の人差し指を立てて横に振る。
「チッチッチッ。和樹さん、わかってませんねぇ。こういう接客業ではね、野暮ったいくらいがいいんですよ」
「……そうなんですか」
暗に野暮ったい服装と思っていたことがバレバレで、和樹は少し気まずく思った。
「そうですよ。お客さんはご近所で働いているおじさまおばさまが多いですからね。とくにおじさま方は、悪気なく色々言ってきますし」
立ち上がったゆかりは、カウンターの中にひらりと戻って洗い物を始める。ザーッと勢いよく流れる水が、ふたりの無言をおぎなった。
ああ、本当に余計なことを言った、と和樹はひどく後悔した。
彼女の野暮ったく見える服装さえ、処世術のひとつなのである。
てんで分かっていなかった自分を恥じて、いつかゆかりがこの店を辞める時、うんと素敵な服を送りたいなどという見当違いのことを思った。
恋愛ポンコツ&無自覚片思いな和樹さんの片鱗が見えますねぇ。
野暮ったい服って、クレーマー(というかとりあえずで文句つけたい人や説教したい人)避けの効果はそこそこ高いですよね。




