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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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459 ふたりで過ごすと

 うれしはずかし新婚さんだった頃の一コマ。

 そろそろ夏の半ばを過ぎたが日々記録的な暑さをニュースは告げる。

 そんな日の夕方、ゆかりは喫茶店いしかわから帰宅する。

 一人暮らしの家を引き払い、春には和樹と結婚し、新居であるセキュリティ万全のいわゆる高級マンションに越してきた。

 二人で住むには広い家だ。空いた一室はいつか子ができたらとのたまう和樹にゆかりは気が早いなと笑顔を引きつらせたのも、まあ良い思い出だ。ちなみにその空室は現在、専らクローゼットになっている。


 玄関を開けるとちぎれんばかりに尻尾を振る白い犬が出迎えてくれた。

「ただいまブランくん」

 抱えた荷物を降ろして、ブランをわしわしと撫でる。それからシューズボックスの上の犬の顔の形をした真鍮製の鍵置き場に鍵をカラリと置く。

 ブランは荷物の一つの買い物袋にスンスンと鼻を寄せた。

「ごめんねブランくん。きょうはあなたのごはんは入ってないの。まだ残ってるわよ。これは和樹さんと私のぶん」

 買い物袋を持ち直してキッチンへ行く。

 今日は三日ぶりに夫である和樹が帰宅するのだ。仕事中はロクに食事を取れないのだという夫のために、さて何から作ろうかと腕組みしてから調理を始めた。



 先に調理を済ませてからブランを散歩に連れていきシャワーを浴びる。

 徹底したスキンケアをして髪を乾かしストレッチも終わった頃、テーブルに置いたスマホが鳴る。画面を見るとメッセージアプリに「今から帰る」と短い一行のみが入っている。

 ここは何かあった時のために和樹の勤務先に近く、もうすぐの帰宅だろう。時間は二十時を過ぎていた。ブランにごはんをあげる時間も過ぎてしまっている。うっかりしていた。


 冷めてしまった浴槽のお湯を温め直し終わった頃、玄関からガチャリと音がする。和樹さんだ! 玄関に続く室内ドアを開けると、ただいまと靴を脱ぐ夫がいる。

「おかえりなさい和樹さん、お疲れさま。ごはんとお風呂、どっちがいい?」

 スーツの上着を半ば強引に受け取りつつ問うと、和樹は髪をかき上げ、ニヤリと笑い

「それ誘ってる? もちろんゆかりさ……」

「お疲れのようだからゆっくりお湯に浸かって、それからごはんね! 温めるからその間にね。あ、会社に持っていった着替えは脱衣所に置いといて。片づけます」

 マシンガントークで久しぶりの逢瀬? を跳ね返して風呂場へ押し込む。

 フラグクラッシャーゆかりは結婚後も未だ健在だ。




 適温の浴槽に浸かって息を吐く和樹は本当に良い伴侶を得たと頬を緩ませつつ濡れた髪をかきあげる。

 自分と結婚までしてくれて詳しく話せない仕事には一切立ち入らずに支えてくれる。駆け引きや腹の探り合いとは無縁のお人好しで天然で疑うことを知らない瞳。自分はそこに居場所を見つけた。ゆかりさん、天使か!


 ここ数日の疲労を落とすかのように風呂でくつろいだ後は、さっと髪を乾かし野菜たっぷりの和食が並ぶダイニングへ移動する。

 自分の好みが和食と知ってから、家で出される料理は和食が主だ。和樹が休みの際は自ら洋食をゆかりに振る舞うこともある。互いに同じものを食べる幸せ。喫茶いしかわの賄いとは違う、僕らの家庭の味。


「和樹さん、味濃くない? 実はちょこっと分量間違えちゃって」

 テーブルの向かいに座って煮物を摘んだ後、へにゃりと困り顔をするゆかり。あ、天使凹んだ。

「大丈夫、丁度良いよ。味噌汁の出汁もよく出てるし美味しいよ奥さん」

 そのフォローにぱあっと顔を輝かせるゆかりに吹き出しそうになりながら話をすり替える。


「今日は喫茶いしかわだったんだろう? 仕事忙しかった?」

 ゆかりは箸を置いて麦茶をコクリと一口飲むと

「ん〜今日はいつもより忙しかったかなぁ。マスターと聡美ちゃんも同意見だったよ」

 最近、聡美が喫茶いしかわでバイトを始めた。ゆかりが以前のようにフルでシフトに入れなくなる日があること、そして聡美自身が少しはお金を稼ぎたいと考えているとのことで、新しいバイトを募集することなく決まった。

 いつもはマスターか聡美どちらかと一緒だが今日はマスターの都合もあって早めの閉店。珍しく三人揃っての仕事となったのだ。


 今日は朝から人が多く、ランチタイムを過ぎても人が途切れなかった。くたびれた様子のマスター曰く、聡美がいる日は聡美の友人や近所の知り合いの少年少女など、若い客で賑わうらしい。

 ゆかりがシフトの時にはいつもの常連の老人や商店街の面々、姦しいマダムたち。常連の子供らもちょこちょこ顔を出す。

 そして大学生の男やサラリーマン男性が増えるので男臭い喫茶店になるとのこと。

「今日は二人ともいたから更にお客さんが多かったね」

 とマスターに言われ、溜め息とも嬉しい悲鳴ともわからない笑みを聡美と共につい浮かべてしまった。


 バキッ!

「ぎゃ、和樹さん箸折れてるわよ!?」

「あ、なんでだろ。ヒビでも入ってたのかなおかしいなー」

 ほぼ棒読みで笑顔で返すとゆかりが新しいお箸〜と和樹から背を向け、棚を開けて探している。


(これは良くない案件だな、僕のゆかり目当てにやって来る奴らを一掃せねば……てか長田ァァ! お前何してんのォ!? 僕が不在の喫茶いしかわに顔を出すならゆかりさんの職場に現れる不審者洗い出せって言ってるだろ、チィッ! 休み明けはみっちり説教してから常連の素性調査させよう、うん、そうしよう)


 不審者も何も、特に怪しい客などおらず、当の長田には不条理な言いがかりである。そのころ長田は会社でへくしっ、とくしゃみをし、謎の悪寒がしたそうな。



「はい、和樹さんお箸。ごめんなさい、ひび割れとか気付かなくて」

「いや、気にすることないよ。これ、この前出かけた時に買った箸だね、桜の花びらが散りばめられてるやつ。ゆかりさんはセンスも素敵だ。男女どちらでも使えるデザインだよ」

 と絶賛すれば今度は真っ赤に頬を赤らめる。

 ああ、僕の妻が可愛すぎてたまらない件についてというレポートなら何枚でも書けそうだ!



 食事を終えた和樹はリビングのソファーに凭れてゆかりと共にたわいもない話をする。

 先程の喫茶いしかわの話は終わり、今度はテレビを見つつ、旅番組でここに言ってみたいなーと話す。今テレビに映るのは国内の海だった。ホテルのプライベートビーチでのんびり過ごす水着の人々。

 和樹は残念ながら連れては行けないなと独りごちる。なぜならこんな無防備なゆかりの水着(なかなかボリュームのある胸とか、腰から下の素晴らしいラインとか)を他の奴等に見せるのは言語道断だからである。


「あ、でも和樹さんお休みなかなか取れないよね。それに和樹さんが水着とか着たらもう周りは鼻血ものだし私ももれなく鼻血行きだし、わたしも水着着る勇気がもうな……」

「水着は言語道……じゃなくて、海は無理だけど、休みなら(長田に仕事押し付ければ無理矢理)取れるからどこかに行こう」


 斜め上の会話をするゆかりの手を取り握ると驚いたように目を開く。

「本当に!? わたし、和樹さんとならどこでも楽しい」

 そう向日葵の咲くごとく笑う愛する妻の顔を見て天を仰ぐ。

「どうしたの和樹さん?」

 ひょいとゆかりを抱き上げテレビを消す。

「旅行の予定は明日にも立てよう、明日は休みだからね」


 これからは夫婦の時間。ウィンクして片手でゆかりを抱えつつ、片手で寝室のドアを開ける。

「ちょっと和樹さん!」

 ゆかりの抵抗虚しく寝室のドアはパタリと閉まる。


 空調の効いた部屋でブランは丸くなって眠っていたが、騒々しくなったリビングの片隅の寝床でピクリと耳を震わせ、薄眼を開けてまたかとばかりに眠りについた。


 翌日ゆかりが起きた頃、太陽がかなり高い位置にあったのはまた別の話。


 長田さん逃げて! 超逃げて!


 調査しても何も出てこなくてさらに理不尽な言いがかりが始まるに一票。

 長田さんはさっさとゆかりさんにチクるといいよ!(笑)

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