453 とある応援し隊員の思い出話・Case15
ふたりがただの、ちょっと仲の良い同僚だった頃のお話。
お隣のお姉さんは笑顔が可愛い癒し系だ。
そして自分にとって幸運の女神でもある。
彼女に恩人だと直接言えば、大袈裟だと首を横に振られるかもしれない。
元はと言えば最初の勤務先がブラック企業だった時点で詰んでいた。
このままこの会社にいれば過労死まっしぐら。分かっちゃいるが転職する暇などないし余裕もなかった。
サービス残業を終えて、よろけそうな身体に気合いを入れながら徒歩十五分。
重い足を引き摺り、自宅マンションに辿り着いた頃にはとうに朝日が昇っていた。
徹夜もこう連日連夜だと思考力はますます低下して仕事の効率も悪くなる。
帰宅する気力がなくなり雑然としたデスクで仮眠を取ることも多くなっていた。
季節は八月。
会社に泊まり続けるのも二日が限界だ。
なぜなら体臭がヤバい。
ふらつく身体に鞭を打ち、自室の前で鞄の奥から鍵を探す。
そんな簡単なことも身体も頭も疲れきった今の自分には難しい動作だ。
死にてえ、と一人虚しく呟けば、バサッ、と右の方から何かファイル類の束が落ちるような音がした。
「い、いけません!」
声の主は隣人の女で両手の拳をギュッと握り締めているのが印象的だった。
眉を下げてこちらを見上げてくる隣人の目は、咎めるような感情を乗せて光っている。
どうやらこの女は自分の独り言を真に受けたらしい。
自身の床に落ちたファイル類を拾い上げることもなく、俺の自暴自棄になっていた心情を見透かすように真っ直ぐ見つめてくる隣人。
こういうタイプは厄介で関わらないことに越したことはない。
「あの、良かったらこれ使いに来てください!」
溜め息をつきながらクリアファイルを拾い、女に差し出すと礼を言われて、その中から何枚綴りかの紙を渡された。
隣人の視線から逃げるように自室の扉を開けて手早く鍵を閉める。
こちらに押し付けるように渡された紙を見れば手作りなのか厚紙で作られており、“喫茶いしかわお試しランチ券”と書かれていた。
ひっくり返すと裏には喫茶店の簡単な地図と住所が記されている。
会社から向かえばそう遠くない場所だ。
誰が行くか。休日なんて期待するだけ無駄でそんな時間があれば寝てた方がいい。
誰かがチクったのだろう。これから数時間後、出社した時に労基が入ったことで仕事どころではなくなるのだがそんなことは夢にも思っていなかった。
まさか総務が労基から口頭や書類による指導を受けているのを横目に退勤する日が来るとはな。
自宅に帰るとワイシャツのまま着替えることもなく久し振りにベットで泥のように眠る。
起きて携帯を確認すると昼で、普段ならコンビニの握り飯を缶コーヒーで流し込む時間だ。
総務からは通信アプリを通して会社から連絡するまで休むようにと勝手だが有り難い連絡が来ていた。
鞄を探り、奥深くクシャクシャに丸めていたあの厚紙を開いた。
行くつもりなんかなかったのにな。
隣人の女性からあの紙を渡されたことで灰色だった生活に転機が訪れた気がしていた。
「いらっしゃいませ! あ、来てくれてんですね」
看板がなくともいかにも喫茶店だと主張している外観の扉を開けると、カラン、とドアベルの音が鳴った。
店の奥から出て来て出迎えてくれた隣人の姿は、喫茶店の名前のロゴが入ったエプロンを身に付けている。
「あの時はどうも」
軽く頭を下げる。
「気にしないでください」
真ん丸とタレ目がちの瞳を見開き、首を横に振っている彼女は首の動きに合わせて片手を大きくブンブンと振っていた。
表情がコロコロと変わって面白い人だな。
そう思った俺はヘラっとした笑顔を隣人に向けながら席まで案内されていく。
だから気付くのが遅れたのだ。カウンターの奥、厨房に当たる場所から俺を観察するかのように鋭く光る眼差しに。
「遠慮せずにあの券使ってくださいね。なんと和樹さんが作った新作のランチがお試しできるんですよ。あ、和樹さんは喫茶いしかわの看板なんです」
テーブルに水を置いた彼女がカウンター奥へと目線を送る。
その場所に俺も目線を送ると、とんでもない色男がいた。
自分を見ている俺達に気付いたのかニッコリと瞳を細めて好青年の笑顔を向けてくる。
「もしかして石川さんの彼氏?」
「違いますよ。だってあんな格好いい人が平凡な私を選ぶと思います?」
返答は小声で耳打ちされたので彼女の吐息が耳にかかり、くすぐったく妙な気分になった。
そんなに卑下する必要なんかないのにと思う。その証拠に奥のテーブルから強面の男達が俺を軽く睨み付けている。
「あのおっさん達の視線怖いし石川さん、モテてるじゃん」
「おっさんって……皆さん常連さんで私のこと心配性のお父さんみたいに見守ってくれてるんです」
また小声で話す隣人だがおっさん達の俺をガルガル威嚇する視線を受けてからは、先ほどよりは俺と距離を持って話している。
「彼氏がいないならさあ、俺りっ……」
ガチャン、とガラスの割れた音がしたのと同時に彼女が厨房の奥へと駆け出していく。
「和樹さん。大丈夫!?」
「すみません。お騒がせしました」
隣人の声に軽く頷いたイケメンは手当てされるのだろう。彼女の手に引かれて奥へと姿を消していく。
その前に気付いたことがある。
客席に音で騒がせた詫びにと頭を下げた色男の唇の端がニヤリと不自然に吊り上がっていたことを。
状況にそぐわないその表情に気付いたのは俺一人ぐらいだろう。
何故ならその男の悪い笑みは俺一人に向けられたものだと確信していたからだ。
一瞬だが敵意に満ちた凍るような視線。
彼女―――石川ゆかりの心は自分のものだと言わんばかりの目だった。
「ご馳走さま。今度は会社の奴らとでも普通に食べに来るからあのイケメンさんにもよろしく」
綴りから一枚破ると追加で注文したコーヒー代と一緒にキャッシュトレイに置いた。
「そんな、まだ一枚しか使われてないのに遠慮せずに使ってください」
残りの綴りも小銭と一緒に置くと、隣人は顔を曇らせていく。
「馬に蹴られたくないし。それに石川さん唇の端に付いてるよ」
「え、やだ、拭いてこなきゃ! あの、また来てくださいね!」
洗面所へと走り去る彼女の顔は紅葉色。唇の端はショコラ色に彩られていた。
ランチの終わりに出されたチョコレートムースと同じ色だ。
ランチの提供を終えた後、しばらくの間姿が見えなくなっていた彼女が戻ってきた後に付いた色だと思われる。
また同じ頃、あの色男の姿も消えていた。
デザートの試食でもした時に付いたのか、もしくはそれとも誰かに付けられたのか。
「ゆかりさんのお知り合いなら大歓迎しますよ。また来てください。お待ちしています」
彼女の代わりに看板男がわざわざ見送ってくれるらしい。
扉を開く指の項に彼女と同じショコラが付いているのは見せつけるため、だろうか。
扉が閉まる前、誰かの唇を奪った時のように指の項に口付けた男は相変わらず人の悪い笑みを浮かべていた。
ちゃんと引き際を心得てるモブさん。




