451-2 ピエロですらない俺(後編)
休憩を告げるベルが聞こえれば、ビニール袋からおもむろにそれを取り出して給湯室へ向かう。
ポットの湯を拝借してデスクに戻って時間にして三分。
ズルズルとすすりながら、誰にも気づかれないように小さく息を吐いた。
いつもなら、週に二回までと決めているお気に入りの喫茶店でランチタイムをしている曜日だというのに何が悲しくて社内でカップ麺をすすらねばならないのか。
「ああ……ゆかりちゃん……」
先日の出来事を思い出せば、胸がギュッと苦しくなる。
やはり、女神に恋をしてしまうだなんて神への冒涜だったのか。
「……って、何考えているんだ僕は」
でも、あの笑顔は女神様そのものだと思う。
少なくとも、同時に失恋仲間となった連中も同じことを思っているだろう。
スープを飲み干して、腹を満たす。
本当に腹が満たされただけだったな。
いつもなら、ゆかりちゃんお手製パスタに舌鼓をしていたというのに。
畜生、カズキめ。
まだ見ぬカズキに心の中で八つ当たりをする。
あの日以来、なんとなく喫茶いしかわに近付きにくくなってしまっていた僕は脳内に記憶したゆかりちゃんの笑顔で日々を乗り切っていた。
ああ、会いたい。
人妻でもいい、会いたい。
いっそのこと、不倫相手にしてくれないかな。
新婚だから無理か。
……新婚、なんだよなぁ。
……人妻、なんだよなぁ。
そんなことばかり脳内を巡らせながら、残業までやりこんだ僕が帰る頃には辺りは暗くなり始めていた。
「はぁ……疲れたなぁ」
今日はなぜか忙しかった。
疲れが溜まっているのだろうか。
コキコキと肩を回して会社を後に、帰路へと歩き出す。
しかし、無意識に自宅へ向かうそれとは逆方向に歩いていたらしく、目の前には喫茶いしかわの看板。
そういえば、帰りにも寄らないようになっていたんだった。
避けるように、帰っていたのに。
ゆかりちゃん不足が加速したのか、本当に無意識だった。
……寄っても、許されるだろうか。
彼女は僕の気持ちを知らない。
それならば、別にいつも通り常連として通っても許されるんじゃないのか。
(平常心……平常心……)
ドアの前で、すぅっと一つ深呼吸。
カランとドアベルを鳴らせば、途端に耳を癒すヴィーナスボイス。
「いらっしゃいませ……あっ!」
「こ、こんばんは」
「こんばんは。先日はお見苦しいところを……」
「いえいえ!」
「お久しぶりですねー。お好きな席へどうぞ」
僕のこと、覚えてもらえてたー!
心の中でガッツポーズを決め込んで、平常心を装いながら入ってすぐのカウンターに腰を下ろす。
常連のみぞ許される空間、カウンターだ。
ちなみに、初めて座った。
「ご注文はお決まりですか?」
「ブレンドで」
「かしこまりました」
コーヒーの支度をするゆかりちゃんをそっと盗み見る。
やっぱ可愛い。
夕飯時になるのか、店内にいる客は僕一人。
チャンス、なのかもしれない。
どうぞと出されたコーヒーに口を付けながら、何の話題を持ちかけようか悩んだ。
会話が弾めば、次は週二回のランチを復活させよう。
「今日は、お仕事帰りですか?」
ゆかりちゃんからの話し掛け、キターッ!
心のガッツポーズ決め込んで、鼻の下が伸びないように顔面に集中力。
「はい。今日は処理が多くて……いつもより遅い時間に終わりまして……」
「そうだったんですね。お疲れさまです」
「ありがとうございます。なので、ここのコーヒーで癒されようと思ってきちゃいました」
「わぁ! 嬉しいです」
ニコッと微笑むゆかりちゃんのその笑顔、プライスレス。
何これ、女神が僕に微笑んでる。
脳内の僕は嬉しすぎて踊り狂っている。
ゆかりちゃん、本当は結婚なんてしてないんじゃないのかな。
そんな疑惑を勝手に出してしまう。
そもそも、新婚さんがこんな時間まで働くのか。
男尊女卑かもしれないけれど……ゆかりちゃんって家でご飯作って待っててくれそうなイメージだからそう思うのかな。
気になる……でも、聞いて現実に直面はしたくない。
僕はもう、妄想上で生きていたいんだ。
現実逃避を始めながら、微笑むゆかりちゃんに笑顔を向ける。
なんか、いい感じじゃないか……?
甘い空気が、流れた。
絶対に流れた。
そんな至福のひと時を壊すように、カランとドアベルが来客を告げる。
ああ、ゆかりちゃん独占タイム終了か。
「いらっしゃいま……和樹さん! お疲れさまですっ!」
ん……? カズキ?
どこかで聞いたことのある名前に、僕はバレないように顔をそっと後ろへ向ける。
「お疲れさまです。僕の可愛い最愛の奥さん」
ゆかりちゃんの目の前には、とんでもないイケメンがいた。
……あれ? コイツ、どこかで……?
見たことがあるような、ないような。
うーん、と頭を捻っているとゆかりちゃんの可愛い声が衝撃の内容を告げるようにハンマーで殴られたようにガンと響き渡る。
「可愛いだなんて……えへへ。最愛って言ってもらえて嬉しいです」
「うん」
カタン、と椅子を引いてカウンターの一番奥へ座り込むイケメン。
そうだ……カズキさんってゆかりちゃんの結婚相手の名前だった。
そして、僕の脳内にカズキさんの不要な情報が上書きされた。
「マスターは?」
「商店街のおじさまたちと麻雀に出かけちゃいました」
「相変わらずだなぁ……」
「ふふっ、ブレンドでいい?」
「うん」
そっと盗み見るが、やはりイケメン。
このイケメン、どこかで見たことあるんだが思い出せない。
名前だけだと、この前、ゆかりちゃんのことで知った程度だし。
知り合いの中にもカズキさんはいない。
カズキさんのコーヒーを用意するゆかりちゃんは、どこか嬉しそうに見える。
でも、僕の中でカズキさんは結婚詐欺師疑惑が外れていない。
少し、様子を見させてもらおう。
僕は、スマホを弄りながらコーヒーを啜る。
二人の会話を聞いてませんよ、という風に装いも完璧だ。
「このあとは戻るんですか?」
「いや、今日は帰るよ。だから迎えにきた」
「本当ですか!?」
パァっと笑顔の花が咲いた。
さっき、僕と見つめ合った笑顔の何倍もいい笑顔だ。
「いつも一人にしてゴメン」
「一人じゃないですよー」
「ああ、専属のボディガードが付いてるもんな」
「そうですよ。ブランくんが守ってくれますからね」
「それはそれは、ブランのことも労ってやらないとだな」
ブランって誰?
また新しい名前に、スマホを弄る手が止まる。
というか、弄ってるけど特にすることないから適当にSNS流し見しているだけだった。
「あー、ダメですよ? 和樹さんがお高いご飯与えるから、ブランくんが最近、普段用のドッグフードと私を交互にジトっと見てから食べるようになっちゃったんですからね?」
犬かな? ゆかりちゃんがつけたのかな? センスの塊だな。
ああ……この会話が僕とだったら。
チラりと見れば、やはりカズキに微笑むゆかりちゃん。
嬉しいんだろうな、ひと目でわかる。
もう、限界だった。
「あの……お会計を……」
カタンと席を立って、チラリとカズキを見れば涼しい顔をしてコーヒーを啜っていた。
畜生。
「ありがとうございました。ゆっくり休んでくださいね」
「あ、ありがとう!」
労いの言葉をもらった僕は、アッサリと気分が急上昇した。
単純だな。
カランとドアベルを鳴らして、僕は喫茶いしかわを後にした。
「なぁーんて…」
独りごちて、喫茶いしかわから出てすぐの路地に入り込む。
ここからなら、誰にも気づかれない。
もしかしたら、僕がいたからわざとカズキと仲睦まじくしていたのかもしれない。
二人きりになれば、カズキが横暴なのかもしれない。
DV野郎なら警察に突き出してやる!
ゆかりちゃんファンのアイツらならとっ捕まえる協力もしてくれるさ!
帰っていく姿で横暴さが出るかもしれない。
これはストーカーではない。捜査だ。
ちなみにカズキが横暴だったらゆかりちゃんに目を覚ましてもらうように明日から絶賛アプローチ大会を開催する予定だ。
この前、ありったけの思いをぶつけた僕に怖いものなど無い!
喫茶いしかわの閉店時間はもうそろそろだ。
(来た……!)
少しして、ゆかりちゃんがカズキと喫茶いしかわから出てきた。
何やら楽しそうに会話をしている。
というか、ゆかりちゃんが一方的に喋っているような。
(!?!?!?!?!?)
目を疑った。
ゆかりちゃんがカズキに何か話しかけたあと、ゆかりちゃんからカズキの手を取ったのだ。
手繋ぎやがって!
「あっ……!」
それを、今度はカズキが繋ぎ方を変えた。
恋人繋ぎしてんじゃねーよ! 手を離せカズキめ!
電柱を渡り歩きながら、少しの距離をついていく。
コインパーキングがあり、どうやらカズキはそこに車を駐車していたようだ。
(あれがカズキの車!? 高級車じゃ……)
普段、車に乗らない僕ですらわかる。
何者だよカズキ……アイツそんなに給料いいのか……。
助手席に座ったゆかりちゃんは慣れた手つきでシートベルトをしているようだ。
(ん……?)
カズキが突然ゆかりちゃんに覆いかぶさった。
……キス、した。
それを見た瞬間、背筋がゾクリと震えた。
なぜなら、ゆかりちゃんと唇を合わせながらも冷徹な瞳が僕を捉えたように見ていたから。
(まずい……!)
気付かれたかもしれないと思って、僕は慌てて踵を返して最寄り駅まで全力疾走をしたのだった。
後悔しても、遅い。
その日の夜、僕は布団の中で盛大にうめき声どころか涙で枕を濡らすのだった。
◇ ◇ ◇
仕事を切り上げて喫茶いしかわへゆかりさんを迎えに行けば、例の男が店内にいた。
コイツ、懲りずにまだ通っていたのか。
ゆかりさんはそんなことに気づかず、嬉しそうに微笑んでいる。
「戸締りオッケーです!」
「じゃあ、帰りましょうか」
「はいっ!」
僕が来たからか、あの男はすぐに会計をして出て行った。
これで喫茶いしかわに来なくなればいい。
そう思いながら店を出ると、あからさまな視線を感じる。
(待ち伏せか)
僕の粗でも探して、ゆかりさんに目を覚ませるように告げるつもりだろうか。
それとも、後ろから刺されたりして。
まぁ、素人が刃物を持ったところで何一つとして問題はないけれどゆかりさんが怖がるからそれはやめてほしいな。
ゆかりさんの話に相槌を打ちながら、駐車場までの道のりを歩く。
「和樹さん」
「うん?」
「あの……手、繋いでもいいですか?」
「いいよ」
パァっと嬉しそうにしながら僕の手を取るゆかりさんに口が緩む。
可愛いなぁ。
「ゆかりさん、それならこうでしょう?」
「……ッ! ……えへへ、照れますね」
何それ可愛い。
いわゆる恋人繋ぎにし直したらふにゃりと微笑むゆかりさん。
これ、家着いてからブレーキ効かなくなりそうだな。
素数でも数えるか。
背後からは、息を飲む声が聞こえた。
運転席に乗り込めば、隣でゆかりさんがシートベルトを慣れた手つきでしめていた。
アイツは……まだ、いる。
僕以外に、このパーキングに停めている車は無いからアイツは車ではないはず。
さて、どうしたものか。
「ゆかりさん」
「はぃ……ンッ……!」
ゆかりさんにキスをしながら、目線はアイツを捉える。
お前ごときが、ゆかりさんに近寄れると思うなよ?
瞬間、アイツは一目散にこの場を去っていった。
それを確認してからゆかりさんと唇を離す。
「……ふふっ」
「何その反応」
「えっ、おかしいですか!?」
「……可愛すぎて困る」
「か、わいくないですよ! 和樹さんは私に甘すぎます!」
「ゆかりさんしか甘やかしたい相手いないから仕方ないね」
「うっ…も、もう! 帰りますよ! 発進!」
「ふっ……はいはい、奥様」
車をゆっくりと発進させる。
流れる景色を見ながら、隣でお喋りをするゆかりさんに相槌を打つ。
今後、あの男はこないだろうと思っているもののまだわからないな。
鉄平くんに偵察させればいいか。
そんなふうに結論づけて、このあとゆかりさんを美味しくいただく方向に考えをシフトチェンジするのだった。
ということで、結婚直後の大量モブさん勝手に失恋話でした。
ドリフとか新喜劇スタイルくらいのつもりで眺めていただければ。
発熱(not新型コロナ)はほぼおさまったのですが、執筆に支障の出る体調不良のほうがちょっと長引いてまして。
実は文フリ原稿も入稿を大幅に遅らせて……どころか落とすかもだったり。
申し訳ありませんが、しばらくは不定期更新になりそうです。




