43-1 RUSHカレーを食べよう(前編)
「長田、テレビの設置手伝ってくれないか」
「あ、はい」
和樹の言葉にさっと立ち上がる長田。ゆかりは慌てる。
「和樹さんそんなっ、長田さんはお客様なんですよ?」
「いえ奥様、お気遣いなく。むしろお手伝いできることがあってほっとしました」
「そうですか……? では、よろしくお願いします」
ぺこりと頭を下げるゆかり。和樹はゆかりに、朝から大変だったんですから、休憩しててくださいとにこやかに微笑み、席までエスコートすると、席に着いていた環に笑顔を向ける。
「奥様、ゆかりさんのお相手をお願いしますね」
「はい、私も奥様とお話ししてみたかったので」
環とゆかりは、ぽつりぽつりとお互いのことを話し始めた。
もちろん、互いの夫のことも含めて。
ふたりは歳も近く気が合い、今度ショッピングにご一緒しましょうという話になった。
うふふふと笑いあっていると、和樹と長田が戻ってくる。
「ゆかりさん、とても楽しそうですね」
「はい! 私の新しいお友達の環さんです!」
満面の笑顔で環を紹介する。環は目を見張り、少しはにかんだ。
「光栄です」
環はそのままそっと和樹に視線を向け、いたずらっぽく告げる。
「ゆかりさんの旦那さまのことは主人からイケメンだイケメンだって聞いてましたけど、話に聞く以上ですね」
「おいっ」
「ふふっ。いいじゃない事実なんだから。それに、私は別に男性として好きになったとか、そんな話はしてないわよ? 第一、ゆかりさんに向けるあの、あっまああぁぁい眼差しを見てそんな気分になる人、いるかしらね。それとも、意外とヤキモチやいてくれた?」
咎めるように声をかけてきた長田に、くすくす笑いながら面白そうに返す環。長田は居心地悪そうにしている。ゆかりはにこにことふたりを見つめている。
「うふふふ。ふたりとも、とっても仲良しさんですねぇ」
「そうですね」
にこにこと楽しそうなゆかりをじっと見つめる和樹の視線は機嫌のよさが一目瞭然で、甘くゆかりに絡み付いていた。
環の視線がぱっとゆかりに向けられる。
「そうそう、ゆかりさん。あのね、電源貸してもらえますか?」
「え? 電源ですか?」
「はい。あの、うちで使ってるポータブルプレイヤーがあるんですけど、それがフルセグチューナーつきの商品なんです。だから、画面は小さいけれどテラス席の皆さんと見られるかなぁと」
「まあ! 環さん素敵っ!」
満面の笑顔で環をぎゅっと抱きしめるゆかり。環も喜ばれて嬉しそうだ。
「一応、充電はしてるんですけど、今日は番組の放送時間が長いから、電池が持つか心配で」
「えーっと、延長コードがあったはずなので、探してきます」
「じゃあ私は、今のうちに車からプレイヤー持ってきますね」
ふたりは両手でぎゅうっと握手をして、それぞれの目的地に向かった。
◇ ◇ ◇
十五時になると、テイクアウトのお客さまが次々に訪れる。
幼い子供を連れたママや、夜営業前の休憩に食べるという飲食店の店主、エトセトラ、エトセトラ。
キムチの汁を提供してくれたオモニも、店を営業しつつ、店内のテレビをリアルタイムで見ながら食べるそうだ。
十八時頃には店内席の予約客が集まり始める。
コーヒーや紅茶、関西でよく見る果物たっぷりのミックスジュース、すまし汁や甘酒を飲みながらのご歓談だ。
朝から張り切っていたカレー作りのお手伝いで疲れて、奥の座敷でお昼寝していた真弓や進も起きてきて、ウェイターやウェイトレスになってくれた。
十八時半には、和樹の会社の面々が揃って店を訪れた。
こちらは当然ながら和樹が応対する。
「ようこそいらっしゃいました。今日はどうぞお楽しみください」
予想通りご家族(特に女性陣)が色めき立った。
「真弓! 進!」
「はーい」
店内にいる子供たちを呼ぶ。
「お子様たちは子供たちだけで先にごはんを食べてもらいましょう。番組の放送内容によっては、夕飯が遅くなってしまうかもしれませんから。子供たち、集まれ~!」
和樹は集まってきた子供たちをにこやかに見回すと、しゃがんで真弓と進に目線を合わせる。
「マスターたちのところで、夕食をもらって、座敷で先に食べてて」
「はーい」
「うんっ! みんな、行こう!」
「和樹さぁん。テラスに椅子出すの手伝ってくださぁい」
ぴょこりと顔を出すゆかりの眉は八の字になっている。
「はい、ただ今」
そそくさとゆかりの元へ行く和樹。
「うわぁ……あれが大魔王使いの奥様か」
「実在したんだな」
「え? ずいぶんお若い奥様だよな。石川さんって歳の差婚だったっけ? 再婚ではないよな?」
「離婚歴はないはずだし、結婚生活もけっこう長いはずだぞ」
「そうそう。だいたい、今の子供たち、小学校に通ってる歳だよな?」
「むちゃくちゃ見た目が若いってことか。夫婦揃って年齢不詳なんだな」
「ああ……しかし、石川さんがあれほど奥様にご執心で尻に敷かれているとは予想してなかった」
「会社で俺らに見せる表情とは完全に別物だったよな」
「旦那を完全に掌握する妻で、あれほど朗らかで笑顔がよくて気遣いできるってすげえな」
「まさに菩薩!」
「こんな嫁どこで買えるんだ?」
「買えねぇよ! プライスレス! だいたいその言い方はさすがに奥様に失礼だ。石川さんに聞かれたら……」
「その通りだな」
背後から聞こえた声にヒヤリとする一同。
おそるおそる振り返ると、和樹はため息をつく。
「そんなことを言っている余裕があるなら、お前たちもテラス席用の椅子を運ぶのを手伝ってくれ。お嬢様方、恐れ入りますが、少々お待ちください。すぐに設営を済ませますので」
涼やかな微笑みを向ける。
「まあっ、お嬢様だなんて……うふふふ」
大量にゲットした男手があっという間にテラス席を整え、店内の力仕事も手伝ってくれた。
ゆかりはお客様なのにと申し訳なさそうにしているが、和樹の同僚はむしろ積極的に手伝った。
彼らの共通認識は、ゆかりは猛獣テイマーならぬ大魔王使いである、ということ。
激怒したらいつ魔王を降臨させてもおかしくないほど恐ろしくなる和樹を完全にコントロールし表情を溶かしてくれる救世主の心証はできるだけ良くしておきたいのだ。
ゆかりはテラス席の皆さまに、ドリンクをお出ししながらご挨拶する。
「いつも主人がお世話になっております。妻のゆかりと申します」
「こちらこそ、石川さんにはお世話になりっぱなしで、お仕事で何度も助けていただいてるんです」
「まあ、そうなんですか? 和樹さん、家ではお仕事の話は一切してくれないので……」
軽く驚きながらにこやかに話すゆかり。
和樹の同僚たちは話の内容に衝撃を受けていた。
家で仕事の話をしないことにではない。それなりに結婚生活が長く子供もあんなに大きくなっているのに、和樹が名前にさん付けで呼ばれていることに驚いていたのだ。
自分たちは「ちょっと」とか「ねえ」とか……最後に名前で呼ばれたのはいつだったかと遠い目になる。
もっとも彼らの妻側からすれば「おい」だの「なあ」だのと呼ばれるのだから、お互い様といったところだ。
「どうした?」
和樹が近付いてきた。
「ゆかりさん、まさか彼らが何か、ゆかりさんに失礼を働きましたか?」
「もうっ、和樹さんっ! いくら部下の皆さんと気安い関係だとしても、皆さんに失礼すぎます! 皆さんに謝ってください!」
むっとするゆかりに即座に白旗を上げる和樹。
「ごめんなさい、ゆかりさん。君らにも失礼した。悪かったな」
「いえ、とんでもない!」
「その、石川さんは奥様に名前にさん付けで呼ばれてるのかって驚いてただけです」
「そうそう。うちは最近パパママ呼びから父さん母さん呼びに変わったところで」
「ああ、そういうことか。もちろん、子供たちに親として接するときはお互いにお父さんお母さん呼びするぞ」
得心がいったように語る和樹。
「だが愛しい彼女を母や妻というアイコン扱いするのは正直好きじゃなくてな。できるだけお互いを名前で呼ぶようにしているんだ」
皆がほあぁ……と呆けた顔をする。やだこの人中身までイケメン……と思ったかどうかは定かではない。
「そ、それと! 石川さんがすごく奥様孝行してるところを初めて見たので」
「……? 何を言っているんだ? 好きな女性に尽くすのは当たり前だろう?」
当然のこととして言い放つ和樹に周囲がざわっとする。
「しかも今は大切な家族でいてくれてるんだ。僕は夫にしていただいた身だからな。点数稼ぎに忙しいんだよ」
少しおどけて言う和樹。
「もう、和樹さんたら……」
どうやらゆかりは、ドリンクを運ぶ途中で会話が聞こえたらしい。ドリンクをテーブルに置きながら、視線を合わせずに言う。
「点数稼ぎなんかしなくても、私は和樹さんのことがとても大事ですよ? 子供たちも私の両親も大切にしてくれて嬉しいし幸せです。私にはもったいない素敵な旦那さまだと思ってますからね?」
「嬉しいです」
ますます表情を溶かし、ゆかりに腕を回す。
が。
その腕をゆかりにぺしりと叩かれた。
「私のお役目はまだ終わってないんです」




