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徒然とはいかない喫茶いしかわの日常  作者: 多部 好香


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444 はやくこい

 ふたりが普通に仲良しの同僚さんだった頃のおはなし。

「あっつーい」

「暑いですねえ」

「今日は雨だから余計に」

「ですねえ」


 梅雨入り宣言が出されて一週間。土砂降りに翻弄されつつ、猛暑日ですと気象予報士が言うのも風物詩のひとつになっている。早朝のトレーニングもそろそろ暑さがきつくなってきたが、まだ、耐えられないほどではない。

 昨夜から降り続いている雨は鬱陶しく不愉快な湿度をかもしだしている。なんとなくじっとりと肌が湿る。


「和樹さんどうしてそんなに涼しそうなんですか、むかつきます」

「どうしてって言われても」

「あー、春に戻ってほしい!」


 喫茶いしかわの昼間はいつもこんな調子で、ゆかりがぼやいているのを和樹がにこにこと聞いている。特にゆかりは暑さにも寒さにも弱いらしく、寒い時にもこたつが恋しいとあまり文句らしく聞こえない文句をぶちぶちとこぼしているが、梅雨の季節から残暑にかけては延々と暑さについて語るのだから面白い。

 とにかく暑いんですよ! とキレられたときは対応に苦慮したが、暑いからといってエアコンを冷房にするには猛暑日に至っていない今はまだ早すぎる気がする和樹だった。


「今年の春はけっこう肌寒くて、早く夏になればいいのにって言ってたの、ゆかりさんなのに」

「そんなこと言ってましたっけ」

「ええ、結構頻繁に」

「撤回します!」


 いっそ小気味の良いほどの勢いでゆかりはふくれっ面。暑いと脳みそが溶ける気がします、とはあながち冗談でもないのだろう。和樹はガラスのコップを丁寧に洗い終えると、滅菌消毒を済ませた布巾で拭って棚に戻す。


「はは。ゆかりさん的には、春が一番好きですか?」

「うーん、過ごしやすい季節っていうなら春かなあ。でも春はあっという間だから。春らしい春って最近ないですよね」

「確かに。つい先日に桜が咲いた、って言われたような」

「夏は暑いし秋は紅葉が綺麗だけどあっという間だし冬は寒いし、つまりは、春がいいです」

「常春の島ですか」

「住みたい……!」


 桜の時期も早かった。まだ寒い時期なのにと文句を言ったのは誰だったか。桜は三月下旬には咲き誇ってしまい、おかげで卒業式はともかく入学式には葉桜になる有様。近隣の小中学校では満開の桜の時期を過ぎてしまった、と嘆く声があったというのは、常連客から聞いている。年々、桜の開花が早くなっているようだ。


「今年はお花見できなかったしなぁ」

 がっかり、とゆかりはテーブルを拭いて、カウンターに腰掛ける。昼から夕方にかけてのほんの一時間ほどは、休憩時刻となっている。

 忙しくて客足が途切れない日もなくはないが、平日の日中、ランチタイムの後はつかの間の休息時間だ。買い出しに行ける日もあれば、新メニューの試作をする日もあった。

 今日は買い物はなかったから、賄いでもつくろうか、と和樹はモーニングセットで利用した食パンを取り出した。


「ゆかりさんの住んでいるマンションって、桜あるんじゃなかったでしたっけ」

「ありますけど」

「それでいいでしょう、お花見」

「それは、ただの桜を見るっていう行為であって、お花見じゃないですよ! 和樹さん、横着するにもほどがあります!」

「合理的って言ってください」

「情緒がないでしょ、それだと」

「……そうですね」


「お花見ってゆーのは」

「美味しいお弁当を持って河川敷にレジャーシートを敷く、でしたっけ」

「それと熱燗!」

「……ビールでもいいでしょう」

「お花見は熱燗! です。冷たいの飲むとお腹に悪いんですよ! 花見の時期は意外に肌寒いんですから」


 ゆかりは、お花見に関しては少々うるさい。

 とはいえ、実際にお花見をしたことは家族以外とはあまりないと言っていて、町内会でお花見があればいいのに、としみじみつぶやいていた。

 なによりお弁当が楽しみ、と言い切るのは『花より団子』を地でいくものだから、和樹にとっては可愛らしいと思える一面だ。

 ゆかりはことあるごとにお花見の作法を和樹に説いて、和樹を失笑させる。


「お弁当も決まってるんですよね?」

「もちろんです、たまごやき、からあげが定番で。おにぎりはたくさん味をつけたいから五種類!」

「あはは。それ何人分なんですか」


 ところで、今日の賄いはホットサンドでいいだろうか。

 ゆかりからのリクエストがない日は、和樹に任されている。ゆかりはあまり好き嫌いを言わないし、本人曰く食物アレルギーもないそうだから、安心して調理に取りかかれる。

 ゆで卵を刻んでマヨネーズとカレー粉を混ぜ、炒めたパセリとベーコンをのせて、薄く切った食パンで挟み、ホットサンドメーカーでぱたんと閉じる。熱したプレートで一分半でできあがり。ゆかりはおいしそう、とカウンターの内側を覗くと、だって、と言った。


「和樹さんけっこー食べるじゃないですか」

「僕が参加人数に入ってるんですね?」

「和樹さんが来ないお花見、誰とするんですか」

「えっ」

「和樹さんとお花見したいんですけどー。っていうか和樹さんとお花見するっていう話をしてますよ?」

「あ……はい」


 自分とか。

 想像していなかった方向で、和樹は思わず苦笑する。ゆかりは自分にはまったく興味を示していないと思っていただけに、意外だ。


「僕とお花見ですか」

「嫌ですか?」

「いえいえ、光栄ですよ」


 花見、なんて。

 いつからしていないのだろうかと考える。とはいえ、それこそ桜を見るだけならば、ロゴだなんだと日常的に桜の文様は眺めてはいるのだが。

 和樹の気乗りしない言い方が気になったのか、ゆかりはもしかして、と和樹を覗き込む。


「和樹さんはお花見苦手ですか?」

「いえ、……そんなに経験がないんですよね」

「あら、そうなんですか?」

「ですね」

「ピクニックとかは?」

「それはありましたよ、花を愛でに行くっていうようなものではなかったですけど」

「職場の懇親会みたいなものは?」

「一応、職場の飲み会的なものは参加してましたねえ」

「ならお花見も」

「場所取りの記憶しかないですけどね」


 新人の頃のお花見とは、場所取りが最優先だった。最近はやんちゃな若者のあれこれがあって名の知れた花見スポットには警備員が立つようになり規制線が張られるようになり、レジャーシートを広げて場所をとってなんてことはできない場所がほとんどになってしまった。和樹が所属している部署では、全体の飲み会なんていうものがそもそもほとんどなかったし、同期会は人数が少なかった。覚えているのは学生時代、学校に植えられていた桜を眺めたことくらいだろうか。


「そっかあ」

「どうしたんです?」

「和樹さんとお花見したいです、私」

「お花見……」


 ホットサンドができあがった。二人分を仕上げて、半分に切る。アイスコーヒーの方がいいだろう、と勝手に判断してこちらも二人ぶん。ゆかりのは氷を半分にして、量を増やす。


 お花見。

 ゆかりと二人でのお花見なら、きっと楽しいだろう。

 お弁当はつくってもいいし、どこかで取り寄せをしてもいい。唐揚げ弁当を調達して、酒だけ持ち込みで。となると、車で向かうわけにはいかないから、アクセスの良い場所が必須。

 いくつかシミュレーションをしつつ、花見のできそうな場所を考える。

 それより問題は。


「これ、来年の春の話をしてますか?」

「ええ、だって今から桜なんて間に合わないでしょ。北海道でもゴールデンウィークの頃までだろうし」

「……北海道……」

「だから来年の春を、今から予約したいなって」

「気が早いですよ」

「そんなことないですよ、だって大河ドラマなんて五年後の作品のプレゼンやってるっていいますよ!」

「…………」


 比較対象の基準がわからない。

 大河ドラマと翌年の花見、それを同列に置くゆかりの天然っぷりは愛しい。


 来年の春。

 その時まで、自分がこの街にいられるかは正直怪しい。

 いつ転勤の辞令が下ってもおかしくないのに、来年の春。

 なんだかとてもおかしくなって、和樹は内心で失笑する。


「来年の春のお花見、一緒に行ってください和樹さん」

「……わかりました、約束しましょう」

「やった!」

「ところで、今日の賄いはホットサンドとアイスコーヒー、どうですか」

「最高です!」


 にこにことゆかりは皿を手にする。縦長に切ったホットサンドの切り口を見て、わー、と嬉しそうに笑みを浮かべる。


「美味しそうです!」

「パセリをもうちょっといれても良かったんですけどね」

「いただきまーす」

「どうぞ」

「ん、おいし。卵にセロリ入ってるのがアクセントになってとってもいいですね、和樹さんに言われたときはどうかなーって思ったけど!」


 セロリのみじん切りが隠し味。子供は苦手かと思っていたのだが、案外食べてくれるのが嬉しかった。子供たちのみならず、あまりセロリを好まないと聞く常連のおじさまもセロリは悪くない、と言ってくれた。和樹の部下にあたる長田はなんの褒め言葉も口にしなかったが、おそらくそれは和樹に対して意見ができないと思い込んでいるからだろう。


「ごちそーさまでーす」

「まだ雨ですねえ」

「ですねえ」

 和樹もまかないを食べ終えて、アイスコーヒーを飲み干す。

 ゆかりは両手でグラスを持って、くい、と一口すすった。


「早く春にならないかなー、和樹さんとお花見行きたいなー」

「ゆかりさん、なんか漏れてます」

「いいんです本音だから」

 くすりと笑って、ゆかりは外を眺める。

 雨はまだ降っていて、梅雨の時期特有の灰色の世界が広がっていた。


「僕もゆかりさんとお花見、行きたいですよ」

「ほんとですか!」

「……ええ」

 来年の春。

 意識したこともない未来の話。

 うっかり死んだり怪我や病気で入院したりできないな、と和樹はぼんやりと考える。


「和樹さん」

「はい?」

「約束ですよ」

「……ええ」


 伸ばされた小指を絡めて、ゆびきりげんまん。



 ◇ ◇ ◇



「お花見、か」


 それから、季節が巡って、春。

 ビルの隙間を縫うように歩きながら舞い散る桜の花弁に舌打ちする。

「この仕事が終わったら……ゆかりさんに会えるかな」


 見えている公道は桜並木。

 和樹はそろそろ咲き終えそうな桜に、もう少し散るのは待ってくれよ、と祈る。


 春を想いながら、和樹は駅の改札をくぐった。


 今年みたいに「梅雨? なにそれ美味しいの?」だったり猛暑記録更新! してたりすると過保護発動しそうですけど、普通に蒸し暑いだけならそこまでは。

 今のうちに暑さに慣れないと逆に熱中症になったり夏バテひどくなったりしますからねぇ。


 それはそれとして。

 桜の時期って、だいたい忙しいですよね。

 和樹さんもご多分に漏れずです。


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