439-2 そこにある日常はきっと、思うよりずっと(後編)
「よし! それじゃあ、和樹さんは身支度整えてて。わたしは食パン買ってきますから」
「何言ってるの。僕も行くからちょっとだけ待ってて」
「えっ? 和樹さんも行くの? 疲れてるんですからゆっくりしててください」
「嫌です。一人で家に残されるならゆかりさんと一緒に行きたい」
ブランくんがいるじゃないですか! と反論すれば、それでもです、と食い下がってくる。
ひと時も離れたくない、一緒にいたい、とまるで子供のように駄々をこねる和樹を前に折れたのはゆかりの方で、靴箱の上にお財布を置いたら「じゃあ待ってますね」と言葉を紡いだ。
時々、和樹はいつもの紳士的な振る舞いから一変してわがままを言うことがある。ゆかりより年上の彼はいつだって余裕そうに構えてて、スマートに事を進めていくというのに。
そんな彼が見せる、ゆかりにしか見せないだろう姿。そんな姿を見せられてゆかりは受け入れる以外の選択肢を持つことができない。気を許してもらえてるのかな、と思えて嬉しいから。
とても疲れている時にだけ顔を出すその姿に、ゆかりはきゅんと胸を締め付けられてしまうのだ。
そんなゆかりの言葉を聞いた和樹は部屋の中に急いで戻っていき、ゆかりはその背中を優しい眼差しで見つめていた。
それから和樹が準備に要したのは十分も掛かっていない。急いで身支度を済ませた和樹が玄関に戻ってきて、ゆかりはその姿に思わずクスリと笑い声が溢れてしまう。
さらさらの髪がひと束、ぴょこりと横に跳ねていたのだ。ゆかりは背伸びをしてその元気な髪を撫で付けてから「では行きましょうか」と今度こそ玄関の扉に手を掛けたのだった。
「任務完了~!」
近くのコンビニでお目当てのものを無事ゲットしたゆかりはご機嫌に声を上げた。
その食パンが入った袋は和樹の手の中にある。ついでに新発売のコンビニスイーツも入っているのはご愛嬌だ。
レジの時も、店員さんから袋を渡された時も、和樹がお会計を済まし当然のように袋を受け取ってしまったので、ゆかりは自分の買い物だと抗議したものの丸め込まれてしまった。
僕が勝手に予定を早めて帰宅したせいで足りなくなってしまったんですから当然です、と言われてしまえばまあその通りなので何も言えない。
でもコンビニスイーツは確実にゆかりの個人的な買い物だ。それは和樹から言わせるとお詫びらしい。けれど袋まで持ってもらうとなると申し訳なさすぎる。
それでも、とどんなに抗議したって和樹に口で勝てた試しがないのでゆかりは結局和樹に甘えることにしたのだった。
「んー、朝の空気は気持ちいいですねえ」
「そうですねえ。朝の散歩もいいもんだ」
両手を伸ばして見上げたのは澄んだ青空。太陽の光が降り注ぎ、その先で反射したキラキラ輝く灰色のアスファルト。塀の上を歩く猫はご機嫌に尻尾を振っていて曲がり角で塀から飛び降りた。道端に咲いたハルジオンの横をすり抜けて、遠くで元気に走り抜けていく小学生たちの方へと茶と白の毛並みの猫が駆けていった。
それはただの日常の風景。それでもゆかりはそんな緩やかな時間が大好きだ。ゆったりとした時間が流れる、変哲もない日常がただ目の前にあるだけで心がわくわくするのだ。今日もいい一日になりそうな予感がして心が満たされるから。
ふと、隣に顔を向ければ和樹が眩しそうに目を細めていた。ゆかりも頬を緩めて表情を和らげればどちらからともなく手が伸びて大きさの違う手のひらが合わさった。
そして、浅黒い手と色白の手を重ねて、骨張った指と華奢な指を絡めたら、あなたの体温とわたしの体温が溶け合っていく。ふたりの境目が曖昧になるような、その熱いくらいの温度が心地良い。
何だかお腹の中が擽ったくて、思わず笑みが溢れてしまった。
「幸せになるのって簡単でしょ」
胸を張って自慢げに、そう言ってのければ隣を歩く和樹の肩が震えた。おかしそうに笑っている。
ゆかりは繋いだ手を大きく振り上げて、大股で一歩踏み出した。引っ張られるように和樹も同じように一歩踏み出して、二人して思いきり笑いながら同じ帰路につく。
「本当にね」
たまらず溢れた言の葉は優しい音をしていた。
お腹の中を擽るそれは、きっとゆかりが言ったように幸せというものなんだろうと納得する。
こんな四文字の言葉だけでは伝えきれない愛おしさに、和樹は繋いだ手を引いて、ゆかりの体を自身に引き寄せる。ゆかりはその力に抵抗する暇もなく和樹へと体がふらりと傾いた。
さっと屈んだ和樹はゆかりの桜色の唇に、想いを乗せた自身の唇を合わせて体温を共有する。
それは一瞬のことで、またすぐに背筋を伸ばせばゆかりがぽかんとした顔で和樹を見上げていた。それが面白くて和樹はククッと喉を鳴らす。
「も、もう! ここ外ですからね!」
頬を赤くしてゆかりが怒って見せても和樹は変わらず笑っている。そんな和樹にゆかりも口を尖らせながらも頬が緩んでしまっていて。
こんなやり取りさえ幸せだと思ってしまうから。
ゆかりは繋いだ手と手を大きく揺らして、そんな幸せを心の中で噛み締めた。
◇ ◇ ◇
きっと君は知らないんだろうね。
変哲のない日常というものが僕にとってどれだけ遠いものなのか、尊いものなのか。
君に教えてもらって初めて気付くのだ。すぐそこにある日常の風景というものを。
その日常の中で生きる人々の何人がその尊さに気付いているのだろうか。当たり前だと見過ごしてしまう人がほとんどで、日々の輝きを知っているのはきっと少ないだろう。それだけ自分の生活の中に根付き、当たり前だと受け止めている、そんな平穏な日々。
そんな日常を君は綺麗だとか可愛いだとか言って、小さな欠片たちをその手で掬っていく。そして僕に手のひらの上に乗せた日常の欠片を見せてくれるのだ。
ああ、なんてすごいんだろうか。
変哲もない風景のはずなのに君が教えてくれる風景は、日常はこんなにも幸せに溢れていると知ることができる。日常と僕をまとめて優しく抱きしめて愛おしげに抱えてくれるその姿。すべてが報われるような気がした。
それを実感できるということは、この上ないほどの幸せだ。
でもそれは君が教えてくれるからこそ価値がある。
例えば、晴れ渡る青空。
例えば、雨上がりの葉の色。
例えば、ホースの先に現れた虹。
例えば、道端に咲いた小さな花。
例えば、仲良く歩く猫の親子。
例えば、元気に飛び跳ねる仔犬。
例えば、例えば。君が教えてくれた小さな幸せはたくさんあって数えきれない。それを僕は一つ一つ愛おしく思いながら心の中に仕舞っていく。
和樹がお詫びの印にと渡した高級菓子や賄いのデザートにつけたシフォンケーキ。コンビニで新発売したというとろけるプリン。どんなものでも同じように嬉しそうに笑う君がいて。
物の価値ではなく、そのもの自体に魅力を見つけることができるひと。何でもない日常に落ちている小さな喜びを見つけて教えてくれる、その小さな手のひら。穏やかな声色。屈託のない笑顔。溢れる優しさ。終わりのない、愛情。
そんな君が僕に教えて、届けてくれるから。
幸せというものの価値を知り得ることができる。
──そして、僕はそれを幸せと呼べるんだ。
「本当に、幸せだ」
隣を歩く彼女と繋がった手のひらに力を入れれば同じように握り返された。僕よりも小さい手で弱い力で、それなのに同じだというように優しく込められた、その温もり。
「ふふ。お揃いですね」
そうやって当たり前のように分け合って教えてくれる気持ちがどれだけ尊いのか。僕がこの手にどれだけ救われているのか。君は知らないんだろうな。
同じ気持ちでいられるこの奇跡を、君は当たり前だと言ってのけてしまうから。
ああ、だから僕は君の隣にいることで、この上ないほどの幸せを感じることができるんだ。
ゆかりさんがいればなんでも幸せに思えてしまう和樹さんのお話でした。




