439-1 そこにある日常はきっと、思うよりずっと(前編)
結婚後、ふたりで暮らしていた頃。
浅黒い色の手と色白の手を重ねて、骨張った指と華奢な指を絡めたら、あなたの体温とわたしの体温が溶け合っていく。ふたりの境目が曖昧になるような、その熱いくらいの温度が心地良い。
何だかお腹の中が擽ったくて、思わず笑みが溢れてしまった。
ああ、この気持ちを幸せと呼ばずに何と呼ぶのだろうか。
カーテンの隙間からこぼれる陽の光に瞼をちくちくと刺され、ふるりと睫毛を震わせればゆっくりと重たい瞼を持ち上げた。瞬きを数回繰り返せば、ぼやけた視界が徐々にクリアになっていく。
目の前に昨夜見た覚えのない姿が自分のベッドの中に入り込んでいて、一瞬どきりと心臓が跳ねた。それは長い睫毛を伏せて規則正しく寝息を立てている。
久しぶりの実物の夫にゆかりの頬は自然と緩んだ。彼はどうやら昨日の深夜にゆかりが寝入った後、合鍵を使って家に入ってきたらしい。
ふと毛布から覗く彼の肩が素肌のままでいることに気付き、反射的に自分の姿も確認してしまう。パジャマちゃんと着てる。うん、良かった。
そろりとブランケットを捲って薄目で彼の状況確認。グレーのスウェットが彼の長い足を覆っているのが見えてそっと胸を撫で下ろした。
彼が一人で寝るときは何も着ないと聞いていたけれど、ゆかりの前では気を付けてくれている。どうやら疲れていても最低限の衣服は身に付けてくれたようだ。
そんな彼の素肌を視線で撫でる。いくつかの傷あとが目立つ肌には新たについた傷は見当たらなかった。
なんだかんだと無茶をしがちな彼は、今日はあちら昨日はこちら、と傷を作っていることが多い。口出しはしないけれど心配はしてしまうから。今日も無事に帰ってきてくれた。思わずほうと息を吐く。
一安心と瞼を閉じてから彼の首元に顔を寄せれば、ゆかりと同じ柑橘系のボディーソープの香りがした。
「ふふ、おかえりなさい。かずきさん」
いまだ夢の中の和樹に挨拶をしてから布団から出ようと寝返りを打つ。いや、打とうとしたけど実際は身動きできず気持ちだけから回ってしまった。
自分のお腹に巻き付いている腕の逞しさたるや、これを解くのは難しいだろう。数秒だけ考えてから身を捩り、少しずつその腕から抜けていく。思いのほか眠りが深いようでゆかりが無理に体を捻れば、少しだけ力が緩み腕の輪っかが大きくなる。そいやっ! と心の中で掛け声を発して数分の格闘の末、その腕から抜け出すことに成功したのだった。
「あっ、食パン足りない」
顔を洗い、歯を磨き、台所に立って朝食の準備という段階で気付く。一人分の朝食しか、厳密にいうと食パンがあと一切れしか残っていない。今日は仕事が休みなので買い物に行った際に買い足そうと思っていたのだ。
他のメニューにすれば問題なく二人分用意できる。けれどゆかりの口はすでにクロックムッシュ風トーストの口であるし(就寝前にトーストのアレンジレシピを見て絶対食べるぞ! と意気込んでいたのだ)、二人で一緒に食べるならお揃いの朝食の方が良い。
それならば簡単に身支度をしてコンビニに買いに行こう、と決める。近所だからメイクはしなくても良いけれど着替えはしないと、パジャマではさすがに外には出られない。
極力、音を立てないように着替えを手早く済ませて財布を片手に玄関へと向かう。スニーカーに足を入れてからトントンとつま先を叩いて、靴箱の上にある小さなボックスから鍵を取り出した。
防犯のためのドアチェーンを外して、鎖がジャラジャラと音を立てないよう揺れを押さえながらゆっくりと手を離したら、その上にある鍵を回転させる。
ドアノブを捻り外に広がる朝の清々しい空気を感じたと思った瞬間、バタンッと大きな音を立てて開いたばかりのドアが勢いよく閉まってしまった。
「ひっ!?」
ドアノブにかけている手の上に一回り以上大きな手が重なって必要以上に強い力で握られた。ただドアを閉めたのはこの手ではなくゆかりの頭の横を通ってドアに着いた手である。つまりゆかりは今、後ろに立っている和樹の腕の中に閉じ込められている状態だ。
「びっ、くりした……」
寝ていると思っていた相手が真後ろにいて、しかも荒々しい動作で突然ドアを閉められれば誰だって驚くだろう。悲鳴が出たことも、びっくりして大袈裟に肩が揺れてしまったことも、仕方ないことだ。それにゆかりは悪いことを何一つしていない。
それなのに後ろから感じる圧がとてつもなく強く、なぜか身の危険を感じるほどの冷気が肌を撫でている。長袖の下に隠れた腕に、今日の気温はそこまで低くないはずなのに、ぞわりと鳥肌が立っていた。
「どこに行くつもり?」
地を這うような低い声は寝起きだからだろうか。
おそるおそる顔だけ振り向けば、表情の抜け落ちた和樹が冬の海のような瞳でこちらを見下ろしていた。
寒々しい風が吹き荒れているようだ。それなのに瞳の奥に宿る鈍い光が獰猛な色をしている。
えっ、待って。彼の逆鱗に触れるようなことは一切していないはずなのに、なぜ?
疑問符を頭の中に埋め尽くして首を傾げれば、和樹がすうっと目を細めた。獲物をロックオンしたような鋭さを持つそれに、ゆかりは慌てて自由になる手のひらを近付いてくる和樹の唇に押しつける。
ゆかりのその行動に対し、不満そうな表情を浮かべた和樹の眉間に皺が寄った。
「コンビニに行くだけです! 和樹さんの分の朝ごはんがないから!」
「……あさごはん? そう、そっか……」
細くしていた目がゆっくりとした動きで開いていく。瞬き数回してから、和樹の眉の形が緩やかに下がっていった。
剣吞な雰囲気がゆるゆると消えていく。そして握られていた手もゆかりの後ろにあるドアについていた手もそこから離れ、二つの腕が揃ってゆかりの背中に回る。そのまま優しく引き寄せられてゆかりはされるがままに和樹の胸板に顔を埋めた。
「よかった……。起きたら隣に君がいないし、玄関で音がするから来てみれば出て行こうとしてるし、逃げられたくなくて……」
震えはしていないものの、弱々しい音で紡がれた言葉がゆかりの耳を擽った。
逃げるも何もここはふたりの家だし、彼が家にいるのに逃げようなんて思うはずがない。それよりもここに帰ってきてくれたら嬉しい、なんて思ってるのに。
寝起きで思考が鈍っているのかもしれない。和樹は職業柄なのか、極度の心配性だ。
もしかしたら今が深夜だと勘違いしたのだろうか。もう朝だから心配いらないよ。そう思って和樹の背中に同じように腕を回したら、ポンポンと優しく大きな背中を叩いた。
「びっくりさせてごめん」
「ううん、わたしも黙って行こうとしてごめんなさい」
和樹が気持ち良さそうに寝ていたから少しでも長く休んでいてほしくて声をかけなかった。けれど、それで不安にさせてしまうならゆかりも不本意だ。
しばらく二人は玄関で抱き合ったまま「ごめんね」と言い合って、何だかそれがおかしくなって、どちらからともなく笑い声を上げる。ゆかりの肩に押し付けていた顔を上げた和樹と、和樹の胸板に埋めていた顔を離して見上げたゆかりは、今度は額同士をくっ付けてクスクス笑い合う。
「ゆかりさん、おはよう」
「おはよう。和樹さん……って!」
ふと今の状況、というより和樹の格好に気付いたゆかりが背中に回していた手を和樹の肩に移動させて力一杯押し返した。どうにか離れようとしたけれど和樹はビクともしない。トレーニングを毎日欠かさず行っているのだから、ゆかりの細腕では意味がないだろうけれど、それでも。
「服着てないじゃないですか! もう! 早く着替えて!」
目の前に惜しげもなく晒された筋肉美から顔を逸らして叫んだゆかりに対し、和樹は何を今更と言いたげに笑っている。にこにこと楽しそうに笑っている。
というか玄関まで追いかけてきて上半身裸ってどういうことなのか。もしゆかりが外に出てしまった場合はどうする気だったのか。いや、逃したくなくての言葉通り、もし本当に逃亡しようとしていたとしても和樹が本気を出したらゆかりは玄関から一歩も出られなかったんだろうな、と思い至ってしまった。
いやいやいや、今はそんなことより。
なぜかゆかりの反応を楽しそうに見ている和樹はゆかりの腰に回した手を離す気がないようだ。むしろぐりぐりと身体を押し付けてきている。いやでも男女の差がわかるような、特徴的なものが当たっているし、おそらくと言うか絶対わざと当ててきてる。
「もう少し、寝ませんか?」
「寝ません! 朝ごはん食べるんです!」
「ええー、だって朝ごはん足りないんでしょう? 僕はゆかりさんがいればそれでいいのに」
「もう! 朝から何言ってるんですか! それになんだかんだで朝ごはん一緒に食べられるチャンス少ないんですから、一緒に食べたい、です……」
自分で言って照れくさくなってしまった。でも本当のことだった。
仕事の忙しい和樹とはなかなか予定を合わせることが難しく、仕事終わりにごはんに行くことが多くて、そのままふたりで過ごすことはあっても起きたらすでにいないということも珍しくなくて。だから朝ごはんを一緒に、というのは貴重なのだ。
ゆかりは語尾を弱めてその思いを和樹に最後まで伝えきれば、なぜか視界が暗くなる。また和樹の胸板に逆戻りしてしまったようだ。
ぎゅうっと抱き込まれて「ちょ、なにして!」と抗議の声を上げれば、和樹が甘えるようにゆかりの頭のてっぺんに頬をすり寄せる。さっきまでのふざけたような空気ではない。
きょとりと瞳を瞬かせていれば和樹がやっと口を開いた。
「うん。僕も一緒に朝ごはん食べたい」
そう言ってから拘束を緩めた和樹と目が合う。嬉しそうに頬を緩める和樹にゆかりも同じように微笑みをこぼした。




