435 見えない努力
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今回は、まだふたりと一匹で暮らしていた頃のお話。
ぽてぽてと歩いてきた毛玉が小さくアンッ、と鳴き声を発する。
「んんむぅ、ブランくん、おはよううう……」
ぺろぺろ。タオルケットからはみ出た指を舐める攻撃が続く。
「はいはい、ごはんね、ブランくん……もうちょっとだけぇ……」
許されるはずもなく、猛攻撃にこりて、ゆかりはのっそり起き上がった。キングサイズのベッドの半分は空のままだ。シーツのしわもぬくもりもないので、あー和樹さん昨夜も帰ってこなかったんだなと諦念とともに考える。
朝日がベランダから差し込む中、ショートパンツから延びる足をフローリングに下ろせば、毛玉がさっそくすり寄ってきた。可愛い。増えた家族のありがたみを痛感しながらリビングに出る。
棚から餌を取り出し、専用の皿に取り分けた。彼と自分のこだわりにより輸入品である。健康を促進し便通をよくしてくれるらしいが、今のところ愛犬も旨そうに食べてくれるので、飼い主としても本願の至りである。
ガチャ、鍵の回る音が玄関から届いた。始終注意される不用心さでばっと飛び出す。
「和樹さん、お帰りなさい!」
三和土に立ち尽くす彼から、返答がくるまでには十数秒かかった。
「………うん、ただいま」
飛びつこうとした彼女を、手慣れたしぐさで牽制する。
「和樹さん?」
「あ、ごめん……もう何日もシャワー浴びてないし着替えられてもないんで、ちょっと近づかないで?」
ゆかりから『加齢臭!』とでも罵られたら生きていけない自信がある。ネクタイを緩めながらそうこぼせば
「ええっお疲れさまもいいところじゃないですか! 洗濯機回す前でよかった。今すぐお風呂沸かしますんで」
「ああ、いや、その、別にゆかりさんはそんなこと」
言うより先に脱衣所に飛び込んで給湯盤を操作している。はんなりした言動とは裏腹にゆかりのフットワークは軽いのだ。
「ちゃんと食べて寝てます?」
「仕事が込んでくるとゆかりさんの手料理以外食べたくないし、ゆかりさんと一緒じゃないと寝たくない」
「――お願いだからちゃんと休んでくださいよぉ!?」
もはや悲鳴だ。ゆかりさん風呂場の声は隣近所に響くんですよと、和樹はこの期に及んで浮世離れしたことを言う。
「和樹さんが寝てないなんて知ったら私も悠長に寝ていられませんよ?」
「家族ひとりの生活守ることもできないなんて」
「わかってるんですよね?」
と、ここで彼は気づいたようだ。ゆかりが身にまとっている大きすぎる部屋着に。
「ゆかりさん、それ、俺のシャツ」
「ああ、はい、ダボダボで着心地いいので借りちゃってます」
その生成りの色は、彼女の肘と、ショートパンツをまで覆っている。
「それはいいんだけど……もう捨てようと思ってたやつだよ?」
「このくたびれ具合がいいんですよ。何より、和樹さんの匂いするし」
「加齢臭?」
自分で言ってしまった。ゆかりは口を尖らしてそっぽ向く。
「いやいやいやそんな、フローラルの香りが」
「さすがに嘘でしょ」
ピロリン、追い炊き終了の音がした。
「ほらほら、入って入って」
「いやだから近寄らないでって」
口先ばかり文句を言うものの、なすすべなく身ぐるみはがされて浴室に追いやられた。今更一糸まとわぬ姿にお互い遠慮する間柄でもない(彼のほうは欲情するけども)。
軽くシャワーを浴びて浴槽に浸かれば、ガラス戸越しに朗らかな声が呼び掛けてくる。
「朝ごはんの用意しますね、最後に食べたのいつですか?」
「えーっと…………今日何日?」
「十三日ですけど。ちなみに金曜日」
後者の情報はいらない。
「あ、じゃあ昨日一日は缶コーヒーだけだ」
「はぁ!? こんのっ、大馬鹿之介!」
おおばかのすけ。初めて言われて面食らう。
「まったく何やってるんですか! 和樹さんの大馬鹿!」
「二回言ったね?」
「本当にもう! ……お腹弱ってますか? それともたくさん食べたいですか?」
「んん、食べたいほうかな」
わぁお、和樹さんの胃袋丈夫~と、褒めているのか憮然としたのかわかりかねる返答が来る。
それでも、彼女の心境が複雑だとしても、誠心誠意尽くして膳を整えてくれるのだ。
自覚するのも今更な彼女の心づくしを堪能しながら湯につかれば、ふと、彼のメンズウォッシュと並んで、ゆかりの普段使っているシャンプーやコンディショナー、ボディソープが目に入る。
恋人に贈るには化粧品やせっけんの類はNGだぞと、いまは亡き同期に忠告されたことを思い出す。
好みの問題以上に体質に合う合わないがあるからだと付け加えられたが、現実になってなるほどと思いいたる。彼女をアレルギーにさせてまで押し付けたい銘柄があるでもない。何よりゆかり自身が選んだ彼女の匂いには、帰巣本能を刺激させるものがある。
『和樹さんの匂いするし』
ああそうか、と遅まきながら思い知った。
存分に汗をかき、頭髪も体もしっかり洗い、湯気を立て、頭にタオルをのせながらひょっこり顔を出せば、彼女は既に着替えていた。大きすぎる襟ぐりから覗くキャミソールの肩ひもが色っぽかったので、もう一度まみえられることをこっそり楽しみにしていたのだが。
ゆかりは今ノースリーブのサマーニットにジーンズで、格子柄のエプロンをまとっていた。いかにも人妻なそのいでたちは、これはこれでグッとくる。
「ご飯もうちょっとでできますよ」
「ああ……だけどその前に、癒して」
コンロの前に立つ彼女の手を停めさせて、ぎゅうう、と擬態語のほうが恥じらい逃げ出しそうな勢いで後ろから抱きしめる。
「はいはーい、お疲れさまです」
「うん、疲れた」
――結婚してよかった。大仰すぎるため息とともに和樹は実感していた。
「いい匂い。ごはん何?」
「鰆の西京漬けを焼いたのと、湯豆腐には茗荷と葱。肉じゃがは昨日の残り物だけど味しっかり染みてますよ。これまた残りのかきたま汁に、あとほうれんそうのお浸しにはしらすも白ごまもおかかもたーっぷり載せましたからね!」
「蛋白質が多いね」
「栄養付けてほしいので。ご飯もたくさん炊きました♪」
「……ありがとう、嬉しい」
「ふっふっふ~ん。それよりなにより、前菜のサラダにはセロリ増量です!」
「ゆかりさん愛してる」
「私をじゃなくセロリをでしょ?」
「セロリごと愛してます」
また変なこと言いだした、とゆかりは思った。
だがしかし夫が考えていたのはまったく別のことである。いやちょっと待って。和樹が風呂に入っていたのは長く見積もっても三十分ちょっと。作り置きが主体であったとしても有能すぎないか?
そんな疑問がおそらくは瞳の色に浮かんだのだろう、ゆかりはしてやったりと言わんばかりの笑みを浮かべる。
「薬味は常備してますし、ご飯はいつも多めに吸水させてます」
和食の好きな和樹のために。彼がいつ帰ってきてもいいように。
そのせいで白米を駄目にするようなことには、経済観念のある彼女のことだから、きっとならないのだろう。けれど今眼前に並べられた食卓には、数知れぬ無言の努力が乗っているのだ。
自然と和樹の背筋が伸び、居住まいを正す。向かい合って手を合わせ、斉唱する。
「いただきます」
ゆかりさんの心づくしのお話でした。
ゆかりさんは凝り性というかやりすぎなくらい昭和の良妻らしき努力がふんだんに……という感じですが、ここまでじゃないとしても日々のごはんとかお弁当とか、いろいろ考えて気遣って作ってくれてる主婦さん主夫さんは多いですよね。
ご本人が意識してるしてないにかかわらず、気付ける自分でありたいなと思います。




