427-2 首筋に勘違い(中編)
「ゆかりさん! すみませんでした!」
バックルームに入り、プリンを差し出した僕はそのまま頭を下げた。
ゆかりさんの気が済むのなら土下座だって吝かではない。
「え、あ、和樹さん!?」
戸惑う声が僕を呼ぶが当然だろう。ゆかりさんは身に覚えがないことで僕に言われのない八つ当たりをされていたのだから。
彼女に自覚などあるはずがないのだ。
「今日ずっとゆかりさんに失礼な態度ばかりとってしまいました! 言い訳はしません、あなたに非は一切ありません、これは誓って本当です! 本当に、すみませんでした!」
もうこれ以上、言葉がない。
自身の未熟さ故に、ゆかりさんを傷つけてしまったのだから。
僕の突然の謝罪に驚いたのか、暫し固まっていたが、やがてパタパタと足音が近づいてきた。ゆかりさんが駆け寄って来てくれたのだ。
下げた頭。視線の先に、彼女の華奢な足がある。
「和樹さんやだ、頭上げてください!」
「ダメです、ゆかりさんの気が済むまでこうさせてください」
「そんな……」
「僕はゆかりさんを傷付けて、泣かせてしまいました。あなたに合わせる顔がありません」
「な、泣いてません!」
「マスターから、聞いていますから」
「……っ、もう……!」
泣いたことは否定をしても、傷付けたということへの否定はない。
優しい彼女のことだ、こんなになっても僕への気遣いをしているのだろう。本当に、お人好しだ。いっそのこと酷く詰られたほうがマシだ。けれど。
えいっという掛け声とともに両肩に手をかけて僕の上体を起こそうとする。もちろん力を入れているから彼女の力ではビクともしないが。
「頭、上げてくださいってば!」
「無理です」
「強情!」
「ゆかりさんこそ」
「いけません。ちゃんとお顔を見て会話させてください! でなきゃ許すも許さないもありませんっ!」
「…………」
そう言われてしまっては為す術もない。
観念してゆっくり上体を起こすと、眉を下げて微笑むゆかりさんと目が合った。その目は、いつも通り優しい。
そのまま手を引かれ、二人でソファに腰掛ける。
ゆかりさんは隣に座る僕の顔を、目を見るように横を向いた。
それに倣って僕も体ごとゆかりさんへ向ける。彼女の膝が僕のそれへ触れた。
「……あの、私はその、和樹さんに何かしてしまったわけではないんですか?」
「はい」
「じゃあ、あの、私は……」
「…………」
「私は、嫌われてしまったわけじゃ……ないんですね……?」
先ほどの勢いはなりを潜め、遠慮がちに紡がれた言葉と不安げにその揺れる瞳は真っ直ぐに僕を捉えた。ああ、今にもその綺麗な雫が瞳ごとこぼれ落ちてしまいそうだ。
「もちろんです、ゆかりさんを嫌うだなんてあり得ません」
安心させるように、ゆっくりと伝える。
いつもならば「炎上します!」なんて言われてしまうところだが、ゆかりさんの問いかけに応えられる言葉はこれしかないと思った。
そう、あり得るはずがない。
こんなにも優しくて穏やかで、温かい人を僕は嫌いになどなれるわけがない。
「良かったぁ」
僕の言葉に安心したように、息をついた彼女の華奢な体を思わず抱き締めてしまいたくなる。
その衝動を抑え込む代わりに、膝の上で震える白い手を両手で包んだ。ピクリと一瞬反応を見せたが振り払われることはなかった。
「それなら、もう大丈夫です」
なんて笑顔を見せる姿にこんなにも安堵して、救われているだなんて……君は知らないだろう。
「本当に、すみません」
「もう、そんなに謝らないでください」
「でも、たくさん嫌な思いをさせてしまいました」
「……たしかに、和樹さんの怒っている理由がまったく分からなくて……目も合わないし……態度が本当に冷たくて……怖くて……悲しかったですけど……」
「うっ……それは、その……」
どれだけ辛かっただろう。怖がらせてしまっただろう。
素直な言葉が罪悪感をこれでもかと刺激してくる。
理不尽な悪意に反論なり反撃なりすれば良いものを……それでも、君は笑うのだ。
「でも今はこうして、ちゃんと目を合わせてお話できてますから」
「……ゆかりさんは、僕に甘すぎですよ」
「そうかなあ」
「そうです」
「うーん、だってね?」
和樹さん……凄くお疲れみたいだったから。
本業のお仕事で嫌なことがたくさんたくさんあったのかもですねって、マスターと話していたんです。
喫茶いしかわだけじゃなくて本来のお仕事もして、日夜色々な人たちのために走り回って頑張っているのでしょう? だから、いつ和樹さんが自分自身を休めて、解放しているんだろうって心配だったんですよ。
「だから、普段見せられないあれこれを発散させられる場所が喫茶いしかわなら……わたしは和樹さんを責められないなって……」
「……ゆかりさん」
驚いた、まさかそんな風に考えてくれていたのか。
それなら、僕を責められないだなんて……君自身を犠牲にしてまで……。
でもよく考えてほしい。いくら僕が疲れていたからといえ不機嫌な理由は火傷と皮下出血を見間違えていたというだけだ。そして勝手にゆかりさんに男の影を見て……勝手に……。
「だからと言って、限度がありますよ。して良いことと悪いことがあります……今回の僕の態度は行き過ぎていました。ゆかりさんは、本当にもっと怒っていいんです」
「……でも……」
「実際、先ほどマスターに叱られました、僕」
「えっ!?」
“ここは、来てくれたお客さまだけでなく働く僕らにとっても一息つける大切な場所だよ。それを提供できないなら居てもらっても困る“
「ゆかりさんに辛く当たり続けるなら帰りなさい、と」
「……」
「マスターの言う通りだと、思いました」
「……それなら、私も叱られなくちゃ」
「ゆかりさん?」
「私も今日、和樹さんのことが気になってしまって、全然お仕事に集中できなかったんです。常連さんにも、元気がないねって、和樹さんと喧嘩してるの? って言われてしまって」
「…………」
「和樹さん、改めてマスターに謝りに行きましょう、二人で」
「……はい」
君は決して、僕を責めたりしない。
きちんと話を聞いて理解しようとして、最後には君を傷付けた相手にも手を差し伸べる。
お人好しで、甘くて……優しい。
君がそんなふうだから、だから、僕は――。
「マスター、すみませんでした!」
ゆかりさんと二人、揃って頭を下げる。
バックヤードから出て見回した店内に、来客はいなかった。
先ほどの女子高生達も帰ったようだった。心の中でそっとお礼をする。彼女達が間接的であれ僕の馬鹿げた誤解を解いてくれたのだから。次に来てくれた時は何かしらサービスをしよう。
「仲直りできたのかい?」
「はい」
「和樹さんが誠心誠意謝ってくださったし……なにより私は怒ってはいなかったので」
「怒っていたのは僕だけでした」
「しかも勝手に」
「そう勝手に」
本当に、らしくない。
思わず三人して、顔を見合わせて笑った。
良かった……いつもの喫茶いしかわだ。
大切な場所を大切にする、当たり前のことを僕は忘れていた。たかが喫茶店、されど喫茶店。
こんなにも僕を温かく優しく包んでくれる場所をもっと大切にしなければと、大切にしたい思った。
……たとえいつか、離れる時が来ようとも……それまで、せめてそれまでは。




