425 虫よけの効果
子供たちが小学校に上がる前くらいの、娘ちゃん視点のお話。
うちの母はどちらかと言えば天然寄りの癒し系。
キレイよりも可愛い系で年齢よりもうんと若く見られることが多い。
とある日のこと家族で一緒にショッピングモールに行って、皆が別行動したとする。
私と弟は……そうだなあ、母と手を繋いでいたら少しは抑止力になるかもしれない。
でも別行動した時の話だから手を離して三メートルぐらいは距離を取っておこう。
一人になった母が最初に向かうのは可愛い猫グッズの品揃えがいい雑貨屋とかお気に入りのパン屋さん辺り。
淡い水色のフレアワンピースはふんわりとした雰囲気の母によく似合い、つば広の麦わら帽子を被った姿は清楚なお姉さんって感じ。
我が母ながらパッと見ではなくジーッと見つめても、とても二児の母には見えない若々しさだ。
普段なら私達の手を握るか父にぎゅうっとしっかり手を繋がれている母は、しばらく自分の手を寂しそうに見つめたあと歩き出す。
『弟よ、撒かれる前に行くぞ』
『うん。ところでお姉ちゃん、まくってなあに?』
弟が父譲り(いや母譲りかも)のやや垂れ気味のつぶらな瞳をぱちくりさせて疑問符を浮かべている。
『お母さんに見つからないようにこっそり追いかけるってこと』
『あーっ、お父さんがいつもお母さんにしてるやつだ!』
それはちょっと違うかなぁ……と思ったが違いを説明する時間はないので否定はしないでおく。
弟が言っているのは自宅で父が母にしている子供染みた行為のことだ。
とある日の休日、父が忍び足で母のいるキッチンへと向かって行く。
シンクで自分の使った皿を洗っていた私が気付いて振り返ると、父はしぃーっと指に唇を当てて目配せをしてくる。
母は気付いているのかいないのか。
でもさっきより唇が緩まっているのでこれから起きる出来事はいつもの茶番なのだろう。
さっさと皿を拭きあげた私はうんざりと冷めた目のまま、キッチンと繋がっている居間へと向かった。
そのまま気配を殺して、母の背後に立った父は母が手を止めるタイミングを見計らっているようだった。
『だーれだ?』
『だれってもう、ふふっ。こんなことするの、あなたしかいないでしょ』
父からバッグハグされた母の顔は声から想像すればゆるゆるの笑顔になっている。
『もう和樹さんたら子供みたい。悪戯好きなんだから』
『僕がこんな大人気ないことするのゆかりさんにだけだよ』
ちなみに両親とも大量の砂糖にたっぷり蜂蜜を混ぜたような声で会話していて、とてもじゃないが聞いていられない甘ったるさだ。
父の指が母のチョコレートブラウンの髪をくるくると巻いている。
そして巻いた指にチュッ、と音を立てて、頬を染めた母が振り返る。二人があまく見つめあっていたところで私はその場から退散することにした。
まったく父が家にいる休日は朝からずーっとこんな風にイチャイチャイチャイチャしまくっていてやってられない。
さて時を戻そう。
予想外にも雑貨屋でもパン屋さんでもない方角に向かっている母の歩調はゆっくりで、追跡している私たちは時々柱にピタリと身体をくっつけて距離が開くのを待っていた。
気分はまるでドラマの中の刑事か探偵だ。
携帯ショップの前で母の足がピタリと止まる。
“誰でも無料で引ける豪華プレゼントくじ”の旗を持った店員に呼び止められたのだろう。
母は人がいいのでこういう時聞こえない振りをして無視したりできないでいる。
頭をペコペコ下げながら手を横に振って、断りのジェスチャーをしていた。
タダより高いものはないって言うし、私が大人だったら声を掛けられないように回り道したりスルーしちゃうかも。
事件が起きたのはそれから三分後、ぬいぐるみくまちゃんに変身できるふわもこのワンちゃん衣装が飾られたペットショップの入口に母の目が釘付けになっていた時だった。
『彼女、一人? お茶でもしない?』
距離があるから想像だけどたぶんそんな感じで声を掛けてきたんだと思う。
一言で言えばチャラい。パッサパサの茶髪に格好はドクロが中央に大きく描かれたTシャツにダメージジーンズ。耳には複数のピアス。
お世辞をかき集めてもあんまり……カッコいい要素はひとつも見当たらないし、どうしてその姿でナンパが成功すると思ったのだろう。
母は自分がナンパされてたと思っていないのかさっきの弟みたいに目をぱちぱち瞬きを繰り返していた。
お母さんがあぶない! と飛び出そうとする弟をどうどうと宥めた私の目には、どこからともなく弾丸のように飛び出して来た一人の男の姿が映っている。
母のワンピースの色とお揃いのサマージャケットが自分の起こした風に巻き上がったのか捲れている。
『僕の妻に何か?』
背後から母の肩に右手を置いて、腰に手を回している男、父の瞳はギラギラと不穏に輝いていた。
なぜこんなに具体的に分かるかと言えば、もう隠れないで両親のすぐ近くに接近していたからだ。
父とナンパ師がこうして対峙していると、脚の長さとかスタイルの良さ、顔面偏差値の差が残酷なまでに露になって何かお気の毒。
声を掛けた相手が悪かった。
今にも相手に飛び掛かり、喉元に喰らいつきそうな雰囲気の父だけれど、口角は上がっていてにっこりとキレイな笑みを浮かべている。怖い。非常に怖い。
『和樹さん。私、カフェの場所を聞かれただけですよ』
どうやら母の中ではお茶しない? はお茶したいんだけどこの近くにカフェはある? に変換されているようだった。
『そうでしたか。何か誤解があったようですね。――失礼しました』
謝罪する父だけど目の奥はまったく笑っていない。
彼はというと声を掛けた女を救いに現れた騎士風イケメンの威圧感にすっかり気圧されているようだった。
その証拠にもう足が回れ右をしている。
『おかぁさーん。ぼくもカフェでジュース飲みたい!』
空気を読まない文字通りまだまだお子様の弟が、正面から母にどーんと抱き付いたことでこの場は完全に収まることになる。
間違いなく父の遺伝子が仕事をしまくっているのがわかる容姿なのだから。
子供がいるなんて聞いてない! とばかりに逃げ出すように立ち去った男を父は見送ると『ジュースはおやつかお昼の時間どちらかだけの約束だろ』弟を肩車に乗せながら言い聞かせていた。
私と母は顔を見合わせると肩を竦めてウィンクをひとつふたつ。
母の左手の薬指にはプラチナリングがキラキラと輝いているけれど、今回は抑止力としての効果は薄かったらしい。
時計を見るともうお昼過ぎでランチにちょうどいい時間帯。
ショッピングモールの一階の奥にはレストラン街がある。
父は弟にああ言ったけれど、なんだかんだ言いながらも甘いので、ジュースの付いたお子様ランチを選んでも久しぶりに出掛けたし、とOKするかもしれない。
◇ ◇ ◇
『お母さんたちまだかなぁ』
お子様専用椅子に座った弟が足をぶらぶら揺らしている。父はしれっと
『車にお父さんが忘れ物しちゃって、お母さんがその忘れ物の場所を知ってるんだ』
と言っていた。もっとも父にそう言われた母は何のことだろう? と首を傾げていたけど。
十二分後、夫婦揃って手をしっかりと繋ぎ戻ってきた二人は何か変な感じだった。
母は顔をトマトのように真っ赤に染めていたし、父は上機嫌な笑顔。
おかしいなあ、と思いつつ運ばれてきた料理に意識を取られて、疑問は頭の隅へと追いやられていく。
『あれ、お母さん。怪我してるの?』
さっきまでなかった項に目立つ大きな絆創膏がひとつペタリと貼られていた。
『そ、そそうなの! 探し物してた時にぶつけちゃって!』
『……ふーん』
ぶつけたんじゃなくてもしかしなくとも父に虫除けで噛ま――いやいや詮索は止めておこう。
小さな紙製ジュースパックを幸せそうな顔をして飲んでいる弟の顔を見て、平穏を保つことにする。
父の電話も鳴らない平和な日の昼下がり、私たち家族は陽射しを避けるように夕方近くまでショッピングして、思う存分休日を満喫していた。
作者都合により、真弓ちゃんがものすごく口の達者な子になってしまいました。
おそらく子供たちも両親のペアルックと同じ色をどこか身に付けているのでしょうね。
半ズボンとかふりふりブラウスとか、頭に飾るリボンとか。




