424 うそつき
色の濃い肌がわずかに赤い気がする。
それに気付いたゆかりは、思わず自分の前にあったお冷をすっと差し出した。
彼が酔っているところなんて見た覚えがない。同僚の頃も、付き合うようになった今も。初めての顔にときめいてしまうのと誰にも見せたくない独占欲がぐるぐると回る。自分にだけ見せてくれたらいいのに、なんて。こんなことで嫉妬するとは自分でも知らなかった。
幸い、彼の浅黒い色の肌は赤みが差してもわかりにくい。まわりに座る商店街のひとたちは気付いていないようだった。というよりお酒がだいぶ進み酔っぱらいだらけのなか、静かに酔ってしまった彼に気付く者はいなかった。
「ありがとう、ゆかりさん」
お冷を受け取ってふにゃりと笑う彼にゆかりはぴしりと固まる。え、うそ。すごいかわいい。酔っぱらうとこんなに無防備になっちゃうんだ。童顔も相まって少年のようなあどけない笑顔を見せられてゆかりも冷静ではいられない。ぎゅんと縮んだ心臓を抑えながらもどうにか立ち上がって、彼の隣にすとんを腰を落とした。
そのままゆかりは彼の肩にとんと自分の肩をぶつけて、ぴったりと寄り添う。少しふらふらしてるから支えてあげようと思ったのだ。
反対側の隣に座ったお肉屋さんの大将ではなく自分を頼ってほしかった。
それを正しく理解したかはわからないけど、お冷を手にした彼がこちら側に寄りかかってきた。
「和樹さん、大丈夫? 歩ける?」
「ふふ、そこまでは酔ってないですよ。ちゃあんとゆかりさん送っていきますから」
「えっ、わたしが送っていきますよ。ちゃんと帰れるか不安だもん」
そう返せば、ええ? とふにゃふにゃした声を出しながら首を傾げている。
お冷を両手で持っている姿はかわいいけど、いつもと違いすぎる仕草だから彼が酔っぱらっている証拠でしかない。このかわいい人を守るのは自分だと心の決めて、とりあえず彼の前にあるビールをそっと奪い取ったのであった。
◇ ◇ ◇
深い青が広がる空に星がちらちらと輝いている。明かりの多い街の夜空にはあまり星が見えないけど、今日は雲ひとつないのだろう。
いつもより明るい空を見上げて、そのまま隣の彼をちらりと窺えば上機嫌に頬を緩ませて鼻歌でも奏でそうな雰囲気を醸し出していた。ゆかりの肩に回された腕と寄せられた身体が熱くて、反対に頬を撫でる風が冷たくて気持ちいい。
本来なら肌寒いはずなのだが、隣にいる彼の体温が高いからそこまででもない。なぜだかゆかりの二の腕を彼がやわやわと揉んでいた。
たぶん酔っ払いには二の腕の触り心地がいいのだろう。そんな彼の手を払うことなくゆかりは使命感を持って彼の家へと向かっていた。
だってこんな姿の彼を一人にはできない。
夜道で襲われでもしたら、まあ返り討ちにするだろうけど。この筋肉の塊みたいな人が酔ったくらいでは負ける気がしなかった。
けど、いつもならゆかりにそういうのだ。飲み会の帰り道はタクシーを使って帰るか、僕を呼んでくださいと。お酒に酔って無防備になった君が心配だから約束を守ってほしいと彼は言うのに、今まさに彼がそうなっていた。
まったくもう、と怒るより母性本能を擽られてしまってゆかりはお世話を買って出たわけである。
ということでゆかりは今、彼の家を目指しているところだった。
まさかこんな形で今の彼の家に初訪問するとは思わなかったけど。同僚だったころに何度か彼の家へ行ったことはあったのだけど今は引っ越して違うところに住んでいるので初めてなのだ。
さすがに飲み屋から彼の家までは電車で二十分くらいかかってしまうらしいのでタクシーに乗り、酔い覚ましに歩きたいとのことだったので、家の近くでタクシーを降りた。
このあたりは閑静な住宅街。そして視界の先にはタワーマンションが建っている。
まさかとは思うけど彼の家ってあれなのだろうか。
ゆかりでは下階でも住めそうにないところだなと思わず考えてしまってパチパチと瞬きをする。
「あ、ここです」
ああ、やっぱり、このタワーマンションかあ。
と思ったけど首を倒して見上げることはせずこくんと頷くだけにしておいた。
そこからエレベーターで彼の部屋のある階まであがり、ゆっくりと廊下を歩いていく。
時計の短針がそろそろ天辺を指すころ。あまり物音を立てると迷惑だろうと思ったのだけど防音もしっかりしていそうだから必要ないかもしれない。そんなことを思っていれば、彼がぴたりと足を止めた。
「ここですか?」
「はい、えっとかぎ……」
「鞄の中?」
「だと思うんですけど、うーん」
ええ、すごい。和樹さんでもこうなっちゃうんだ。
今日何度目かの発見に胸の中がうずうずする。
いつもは頼りがいがあって大人の男性って感じなのにここまで緩くなっちゃうのかと思ったら何だか嬉しくなってしまった。この姿が自分にだけ見せる姿であれと祈りながらもゆかりも彼のバッグを覗く。
内側にある小さなポケットまで一緒に確認したけど車のキーはあっても部屋の鍵は見つけられなくて。
もしかしたら服のポケットに入っているのかもしれないと思い立ち、預かっていた上着の外ポケット三つと内ポケットも確認してみたが空っぽで何もない。そうなるとスラックスのポケットかなと視線を落とす。ひょこりとおしり側のポケットを見てみれば鍵のようなシルエットが布越しに見えた。
「あ、これかも!」
失礼しますね、とゆかりはそっと尻ポケットに指を忍ばせる。
鞄を漁っている彼が取り出すよりゆかりが取った方が早いと思ったのだ。
人差し指の第一関節にキーホルダーを引っ掻けて取り出したら、自分の顔の高さまで持ち上げて彼に見せる。
「ポケットの中でしたね」
「ああ、忘れてました。ありがとうございます」
ふわりと微笑まれて思わず胸を張ってしまった。
なんだか彼の役に立てたようで高揚感がすごい。だっていつもは何でも出来てしまう人だからこうやってお世話することなんてなかったのだ。
きっと鍵もうまく開けられないだろうと思い鍵を差し込んでゆっくり回す。
カチャンと鍵の開く音を確認したらドアノブに手をかけて扉を大きく開けた。
さすがに部屋の主より先に入るのは失礼かなと思って彼が入れるスペースをあけて一歩ずれたのだけど。
いつのまにか背後に回っていた彼にとんと背中を押されて体がよろめく。
まさか押されるとは思っていなかったので体が吸い込まれるように部屋の中に入ってしまった。
慌てて振り返ろうとしたけれどそれよりも早く扉が閉まってなにも見えなくなる。
窓がない玄関は扉を閉めると真っ暗なのだ。本当になにも見えない。
下手に動くこともできなくてとにかく彼が立っているだろうところを見上げれば。
ぐんと腕を引かれて、背中に硬いものが触れた。
「え? え? なにが……」
自分の置かれた状況が理解できず固まっていればガチャンと鍵を閉める音がすぐ近くで聞こえ、自分が玄関扉に押し付けられていることに気付いた。
いつのまに彼との立ち位置が反転したのだろう。
いや引っ張られた時にそうなったとは思うけど、なぜ。
彼はあんなに酔っぱらっていたのに、もしかしてバランスを崩してしまったのだろうか。
そんなことをぐるぐる考えながらパニックになっているゆかりの頬に何かが触れる。熱くてやわらかいもの。おそらくこれは彼の手のひらだ。そう思い当った瞬間、うすく開いていた口に何かが重なった。
「んっ、う……!」
首を振って抵抗を試みるも顎をしっかり捕らえられてしまい動かせない。覆いかぶさる身体を押しのけようとしても分厚い身体は微動だにしなかった。
ほとんど抵抗できていない間にも口の中を丹念に舐められ舌を吸われ翻弄されるばかりだ。息もうまくできなくて助けを求めるように彼のシャツを掴めば、ふっと息がもれる音が耳を掠める。
「心配になっちゃうなあ、ここまで素直だと」
「え……?」
はふはふ、と息を整えるゆかりに構わずまた近付いてくる気配がして。
すかさず口の前に手を滑り込ませれば、今度は二の腕や首を撫でられる。その感触にびくんと身体を振るわせるとその様子を楽しむように耳元に息を吹きかけられた。
暗闇の中、彼の動きが見えないので何をされても敏感に感じ取ってしまう。
「君を独り占めしたかったんです、ずっと」
「なんの、こと、ですか」
「だからね。お持ち帰りさせてもらいました」
待って、話が噛み合わない。
あんなに酔っぱらったのは初めてみたし、一人で帰れる様子じゃなった。
家へと送り届けたのはお世話してあげなくちゃと母性本能を擽られたからで。
さっきまでは鍵さえもどこにしまったのかわからずスラックスのポケットに入れていたことも覚えてなかった。
いつもでは考えられない彼の姿。
そこまで彼の様子を辿って、やっとゆかりは嵌められていたことに気付く。
今までのは全て演技だったことに。
どうしようと戸惑ってもすでに彼の家のなか。
暗闇に慣れてきた目に映ったのは、ぎらりと光る肉食獣のような双眸だった。
ちょっと早めのご近所商店街さんとの忘年会を想定してます。
正直、ifつけようか迷ったんですが、和樹さんならこのくらいのことするかなって。




