420 和樹の精神安定剤
こちらは長田さん視点で。
別件の仕事でしばらく会社に寄らなかった自分に二年目の後輩から「石川さんが怖くて報告も十分にできない」とSOSがあった。
様子見のために少し寄ることにした。
石川さんの怒号が響いていた。
「おいっ! ふざけてるのか!」
配属されてさほど経っていない新人が石川さんに怒られていて、恐怖で震えていた。
怒号だけじゃない。机を勢いよく叩いたり蹴ったりと、物に当たり始めていた。
喫茶いしかわで(妻の実家なのだから家事手伝いだと称して)働いている時の彼は優しくて滅多に怒らない王子系看板息子をしているようだが、本来の石川和樹という男は短気なのだ。
けれど、とてつもなく仕事ができるので彼を慕い、尊敬している人はこの中にたくさんいる。
自分もその中の一人だ。
この前石川さんがイライラしていた時に、石川さんと普通に話すことができる立場の自分に、新人が助けを求めた。
その時は石川さんの怒りを鎮めようと
「彼も反省してるようですし」
とか
「次からはないようにするって言っていますし」
とフォローしたが、そもそもお前の監督・指導が悪いと飛び火してしまった。
つまり自分がフォローに回っても火に油を注いでしまうだけのため、今燃えている火が鎮火するのを待つしかないのだ。
鎮火したらその叱られていた後輩をご飯に誘い、フォローしてやろう。
そう思っていた時。
「和樹さん?」
この場所で聞くことがあるはずのない声がして石川さんの勢いがピタリと止まった。
みんな一斉に振り向くと、あの石川さんがメロメロに惚れている奥様のゆかりさんが入り口に立っていた。
「ゆかりさん……?」
信じられないものを見つけた時のように石川さんが名を呟く。
ゆかりさん!? 石川さんを意のままに操れるという、あの伝説の!?
思わずざわついた新人たちは、初めて見たゆかりさんにそんなことを思っていたらしい。
石川さんは飛んでいってしまいそうな風船のようにゆるふわした雰囲気のゆかりさんの元へ素早く移動する。
「ゆかりさん、どうしてこんな所に」
「和樹さんに差し入れのお弁当を届けようと思って。いつもの通り受付に預けようとしていたら、声をかけていただいたんです。柳田さんって、普通に喫茶いしかわの常連さんだと思ってましたけど、実は和樹さんの直属の上司の方だったんですね。柳田さんがせっかくだから顔見せてやってくれって中に入る許可を取ってここまで案内してくださったんですよ。あ、柳田さん、ここまでありがとうございました」
にこにこと説明していたゆかりさんが、くるりと柳田の方を向いてぺこりと頭を下げる。
柳田は「いやいや、また店の方に寄らせてもらうからね」と軽く手を振って自分のデスクへ去っていった。
「それはそれとして」
石川さんに向き直ったゆかりさんは急にむっと眉を寄せる。
「和樹さんの仕事のことに口を出す気は一切ありませんけど、どんなにイライラしていたとしても、部下の皆さんに当たるのはダメでしょう?」
そう言ってから
「すみません皆さん、夫を少しお借りしますね」
とゆかりさんが小さく頭を下げて石川さん廊下の隅に連れていった。
「あの、あの方は石川さんの奥様ですか?」
さっきまで怒られていた後輩が俺に聞く。
「そうだよ」
「あの石川さんに意見ができるなんて……どんな仕事をしている人なんですか?」
「喫茶店のウェイトレスだよ」
「喫茶店のウェイトレス!? 石川さん、奥様にもあんな感じなんですかね?」
と言いながら怖いもの見たさを発揮した若手二人と長田は廊下の隅を影から覗き見する。
二人は隅でしゃがんでいた。
石川さんがいわゆる体操座りをして壁に寄り掛かり、ゆかりさんが頭を撫でている。
大人しく撫でられている石川さんに驚いて新人が叫びそうになった口を手で押さえて阻止する。
そうだよなぁ、驚くよな。
ああいう状態の時だと、肩を叩くだけで「なんだ」と睨まれるもんな。
見ているのがバレたらそれこそ大目玉だ。
この仕事で培った聴力を発揮させて会話を盗み聞く。
「それで和樹さん? なんでイライラしてるの?」
「あいつがミスしたから仕事が終わらなくて帰れなくて、ゆかりさんに会えない」
「あの部下の方も和樹さんを帰したくなくてわざとミスしたわけじゃないでしょう? 部下を叱ることは大切だけど、あれはやりすぎだよ?」
「それに物に当たったらだめよ? 机がへこんでいたよ? 物は大切にしなくちゃ。それに和樹さんも痛いでしょ?」
「うん、いたい」
「それでなくてもよくあちこち怪我するんだから」
ゆかりさんが石川さんの手を撫でている。
仲良いなぁ~。
石川さんが少し笑顔になる。
側でその光景を初めて見た後輩はさっきとは別の意味で震えている。
「自分、もう見れません」
と後輩は持ち場に帰っていった。
「ゆかりさん……帰りたい。家でゆかりさんのご飯食べたい」
「うん」
「もう疲れた……ゆっくり寝たい……」
「うん」
ゆかりさんに頭と手を撫でられながら石川さんが弱音を吐いた。
あの人が弱音を吐くところを見たことがなかったので驚いた。
石川さんはゆかりさんにしか弱い部分を見せないのか。きっとこっちに戻ってくる時は『仕事の鬼・石川和樹』に戻っているだろう。
「ほら、和樹さんにお弁当作ってきました。お家で食べるよりは気が休まらないかもしれないけれど、よかったらどうぞ」
「ありがとう」
「この仕事が終わって帰ってきたらお家でのんびり過ごしましょうね。あと、ブランくんとも一緒に遊んであげましょうね」
「うん」
「和樹さんの好きなごはん用意して待ってますからね。あと、辛かったら電話しておいで。お仕事中でなければ出られますから」
「うん」
「さあ、お仕事戻ろっか、和樹さん」
「やだ……」
「ぎゅーしたら戻れるかな? はい、ぎゅーーーっ」
ブホッ。
子供をあやすように抱きしめられる石川さんを見て耐えきれなくて吹き出したが、なんとかバレてないようだ。
ゆかりさんが手を引いて石川さんを立たせて、背中をバンっと叩く。
「いってらっしゃい!」
石川さんがこっちにくるので「お疲れさまです」と言い廊下に出る。
なんとかバレなかった。
「奥様!」
「あ、長田さんお疲れさまです」
ちょうど外に出たゆかりさんに声をかけた。
そして俺は決めた。石川さんがまた不機嫌になったときはゆかりさんに連絡を入れよう。
「あの、また石川さんがあんな感じになったら連絡しても大丈夫でしょうか。自分たちにはどうにも手に負えなくて……」
「はい、もちろん大丈夫ですよ! 長田さんも大変ですね。和樹さんをよろしくお願いします」
念のためにメッセージIDを交換しておいてよかった。
彼女は女神か。あるいは菩薩か。
数ヶ月後。
石川さんに何も言わずにゆかりさんに連絡を取っていることがバレて、石川さんが俺にキレることになるとは思ってもみなかった。
あえて時期は明記しませんが、和樹さんの職場での一幕でした。
どんなにイラついてても物にあたるなんてよっぽどだよ? というあたりに本来の和樹さんの短気さが見えますよね。
こんなシーンを見せつけられたら、そりゃあゆかりさんの猛獣使いっぷりの説得力が(笑)




