418 入浴剤の誘惑
お気に入りの入浴剤は柚子の香り。ぬるめのお湯を張り、浴槽にゆっくり浸かりながら目を閉じる。
立ち仕事で浮腫んだ足をマッサージするのもいいけれど、今はのんびり肩まで浸かってリラックスしていたい。
お湯にシュワシュワと溶けていく丸い塊は何をイメージした入浴剤だったっけ。忘れちゃった。
柑橘系の匂いは昔から好ましく思っていたけれど、大好きに変わるきっかけができたのはつい最近のこと。
恋人からぎゅっと抱きしめられた時に感じる香りに似ていたから。そんな理由で浴槽に溶かし、彼を思う。香水をつける訳を聞いた時、落としたい女性と会う時にだけつけることにした、だなんてそんな殺し文句を聞いたけれど、もうとっくの昔に落ちているのにね。
「和樹さん。今何してるかな」
上縁面に置いた洗面器の中にはタオルにくるんだ携帯とペットボトルの水が一つ。
三コールだけ。出なかったら諦めてお風呂から出た後、冷凍庫の苺アイスを今日もお仕事頑張ったね、のご褒美にしよう。
もしも和樹さんが出たら――少し冒険してみようかな。
「わっ! 和樹さん、本当に出た!?」
「何です。人をお化けみたいに」
電話から聞こえる恋人の声はとびきり甘くてやわらかい。
「今話せます? 休憩中ですか」
自然とゆかりの声も彼に釣られて甘くなり唇も緩まっていく。
「大丈夫。今駐車場にいるから」
仕事で移動中なら大丈夫って言わないよね。帰宅するって意味でいいのかな。
「これから夜食を買いにスーパーかコンビニに行こうとしてた」
正解だったみたいとゆかりは目を細めながら恋人を自宅へ誘うことにした。
「良かったら家に来ませんか。夕飯の残りですけど、献立はカレーと、小松菜のお味噌汁、しらすとわかめの酢の物です……ってふふっ」
カレーの途中で食い気味に「絶対に行く!」と力強く宣言されて、つい笑ってしまう。
「そう言えばゆかりさん。君が今いる場所って――」
「どこだと思います?」
彼の声に自分の声を重ねて逆に問うと
「換気扇の音にハウリング。水音と来たら正解は一つだろう」
「さすがですね! いまお風呂に浸かっててね」
「うん」
「入浴剤を入れたら柚子の香りで、誰かさんが付けてる香りを思い出しちゃって電話したの」
「僕が恋しくなった?」
ストレートだなあ、と恋人の艶声にうっと詰まったゆかりは冒険、冒険と頭で唱えながら自分を鼓舞することに決めた。
「うん。家に着いたら思いっきりぎゅっとしてほしいな。ねぇ、和樹さん。私がお風呂場にいるって予想してた時、想像しました?」
衣服を何も身につけてない私の姿、と悪戯っぽい声で聞き攻めてみる。
「……ったく男を煽って。どこでそんなことを覚えたのかな。お嬢さん」
「あっ!」
もしかして怒らせたちゃったのかな? そのままプツンと通話が切れてしまい、私は幸せだった気持ちをしおしおと萎ませながらお風呂場を後にする。
それから二分後、チャイムが鳴り私は目を丸くすることになった。
和樹さんの口にした駐車場は実は私のマンションの駐車場で、それから彼はこれっぽっちも怒ってなんかいない。
リクエストした通りに玄関で靴を脱ぐより前にぎゅうぅっとハグされて、私は夜食より先に頭の先から足の爪先まで磨き上げた自身を捧げる羽目になってしまうのだった。
ふたりの恋人期間かつ同棲前だと実は半年ほどずれちゃうんですけど、夕食の献立はこの時期仕様……まあいいか。
喫茶いしかわで雑談中、ゆかりさんに
「柑橘の香りっていいですよねぇ。わたし大好きなんです」
なんて笑顔で言われちゃって、ゆかりさんをくらくらさせられる柑橘の香りを必死で探した和樹さんの姿が常連客に目撃されたとかいう裏設定があったりして(笑)




