41 おおきなクマをめぐる攻防
ビシッと決めたスーツ姿で、和樹は倉庫型大型スーパーを颯爽と歩く。
買い物中の主婦たちがざわつくのはいつものこと。
店員を呼び止め、迷わずさっと指差し注文したのは、クマだった。
つぶらな瞳。ふかふかの大きなお腹。そこに居るだけで周り中をぽかぽかほっこり幸せにする、とても可愛い、けれどとても大きなクマのぬいぐるみ。
店員さんと二人がかりでクマをカートに乗せるとそのままさくっと会計し、彼の車に押し込めて、意気揚々と向かったのは喫茶店。
コーヒーのいい香りが店内にしみついて、とても寛げる空間になっている。
クマはソファー席に座らされている。
おそらく明日からは、この店の看板クマになるんだろうなあとのんきに思ってしまうくらい、ぽてりと自然に座っている。
「ど……ど……ど……どうするんですか、和樹さん!」
「どうするって?」
「これですよ、これ!」
びしり! と指差したのは、先ほど顔やお腹を遠慮なく押しつぶしてようやく入店を果たし、ソファーに鎮座している大きなクマだ。
「えーっ……実は、さっき、近所の空き地に捨てられていて、目が合っちゃったんで、そのままにしておけないかなって」
「嘘!」
「……嘘です」
「やっぱり!」
ゆかりはふふんと顎を上げる。
「ごめんなさい」
「いやいや、嘘って認めて謝ったからってそれでいいわけじゃなくて!」
「えー……」
「だから、このクマ、どうしたの!」
「ゆかりさん、お誕生日おめでとう!」
「――え? え? ありがとうございます……今日じゃないですけど」
「遅れちゃってごめん。プレゼントだよ」
ゆかりは目を瞬いた。
「プレゼント?」
「そう。サプラーイズ!」
ゆかりは急に頭が痛くなったように頭を抱える。
「た……確かに驚きました」
「大成功だね!」
「サプライズという意味では、大成功です……」
「当日は仕事で会えなかったから、何かプレゼントって思って……ゆかりさん、あの倉庫型スーパーに行くと、絶対、こいつの前で足止めるし、きっと好きなんだろうなあって思って」
「そりゃ、好きです! 好きだけど!」
「ほら、やっぱり、好きなんでしょ?」
「だって可愛いし! 好きにならない人いますか? いないでしょ? でもね、好きと欲しいとは意味が違います!」
「え~……」
「和樹さんほどの人が分からないわけないでしょ? 一体、これ!」
ゆかりはまたもクマをビシッと指さした。
「どこに置けばいいんですか!」
和樹ははっとしたようだった。
「あ、そうか」
「あ、そうか、じゃないでしょ! 和樹さん、私の部屋知ってるでしょ? 1Kですよ! 狭いんです! この子がいる場所ないんです!」
「う~ん……ベッドの上は」
「私はどこで寝ればいいの?」
「じゃあ、テーブルどかして」
「もう! じゃあ、どこでご飯食べればいいの?」
「ここに置いておくのは?」
ゆかりの両手がぷるぷる震えている。
とにかく、すごく怒っているのは一目瞭然。
「何、考えているんですか~!」
「あ、やっぱり、だめ?」
「こんなのいたら、お客さんの邪魔でしょ!」
「私だって、マスターだって、足引っ掛けて、コーヒー零したり、サンドイッチ落っことしたりしますよ!」
「え~ゆかりさんだったら大丈夫だよ。ひょいひょいって避ければいいじゃない」
「百歩譲って避けられたとしても! でかいクマをひょいひょい避けながらお客さんにコーヒーを出す喫茶店の意味が分かりません!」
「う~ん……もしかしたら、もしかするとだけど、ゆかりさん、怒ってる?」
ゆかりが怒ってるのは、おそらく脳がスポンジのクマでさえ分かるはずだ。
怒っているどころか、激怒と言っていいだろう。
「当たり前でしょ!」
「え~……困ったなあ……」
和樹は、なんだかわざとらしく顎に手を添えて考えていて、ゆかりさんは手を腰に当て、そんな和樹さんを睨みつけている。
「あ」
「なんですか?」
「じゃあ、これ、僕の部屋に置いておきます」
「え? だって、和樹さんの部屋だって」
「今度引っ越そうと思っていて」
「え?」
「実は、物件はもう、押さえてあるんです」
「そうなの?」
「そうなんです。新築マンション10階南向き3LDK。ベランダもあるんだ」
「すごいですね」
「リビング15畳もあるし、こいつがドン! ってあっても邪魔にならないだろうし」
「ひっ広い」
「あーでも、こいつ、ゆかりさんにプレゼントしたしな」
「遠慮なく! お譲りしますよ!」
和樹はポン! と手を打つ。
「良いこと思いついた!」
「え?」
その勢いに、今度はゆかりがたじろいだように二、三歩下がる。
「ゆかりさんも一緒に住めばいいんだ!」
「え?」
「ね」
和樹は、美しいウィンクをゆかりにして見せた。
「あの」
和樹はニコニコしながら、ゆかりに近寄って行く。
「そうしようよ。そうすれば」
「そ……そうすれば?」
「ゆかりさんは、クマを手に入れられるし」
和樹は、ゆかりの頬に、そうっと手を添わせる。
「僕はゆかりさんを手に入れられる」
「え……」
「返事は?」
ゆかりの頬が燃えるように赤くなった。
和樹の指は、遊ぶように頬を上下し、とうとう唇に到達する。
「ねえ、返事は?」
少し腰を屈めて、ゆかりの耳元で低く囁いた。
ゆかりの柔らかな唇がゆっくりと開く。
「和樹さん、あの、あのっ、きゅっ……急過ぎじゃ」
「ゆ か り さ ん。お返事は?」
「……ずるい」
「お へ ん じ は ?」
いまや和樹の片手は遠慮なくゆかりの髪の中へ差し込まれていて、もう一方の手は、腰に回されている。
ゆかりに逃げ場などなかった。
「か…和樹さん、落ち着いて。和樹さんともあろう人が、こんな、クマを人質にするようなやり方って」
「クマ質」
「クマ質にするような方法って」
「じゃあ、最後の手段!」
和樹はそう叫ぶと、ゆかりを横抱きに抱き上げ、そのままスタスタとクマの傍へ連れていく。
ゆかりは急に自由を奪われたのが怖いのか、和樹の頭に手を回し「下ろして!」と騒いでいた。
「はいはい」
和樹は、クマの足の間にゆかりをそっと下ろす。
ゆかりには意味が分からない。
和樹を見てから、視線をクマに移し、じっと見上げている。
そうして、おもむろに手を伸ばし、クマの大きな顔に触れ、耳を引っ張ったり、鼻をなでたり。
最後にふかふかのお腹に抱きついて顔を埋める。
「あああああああ~、やっぱり可愛い!」
クマは「でしょ? 僕、可愛いでしょ? ねっ?」と言いたげに、でんと構えている。
目を閉じてクマのお腹にすりすりしているゆかりの表情は、すっかり溶けている。
和樹はそんなゆかりの様子をスマホで撮影している。
気付いたゆかりが、驚いて叫ぶ。
「あ、和樹さん、ちょっと! 何を撮っているんですか!」
「いや、ゆかりさんがあんまり可愛くて」
「消してくださいよ!」
慌てたゆかりが和樹に駆け寄り、スマホを奪おうとする。
和樹はもちろん、ゆかりさんの手の届かない高い場所にスマホを上げてしまい「いやあ、いい動画が撮れたな」なんて言っている。
「動画!?」
「動画ですよ」
「やだ、本当に消してください!」
「じゃあ、返事は?」
「今度は動画質! 悪人!」
「失礼な。僕は正義の味方ですよ。ほらほら、返事しなかったら、これ、聡美さんや遥さんに見せます」
「分かりました! お返事します!」
和樹の顔から悪戯っぽい微笑みがすっと消えた。
少しの緊張感が混じる、真摯な表情。
「ゆかりさん」
ふたりは、向かい合って立っている。
ゆかりが手を伸ばすと、和樹はその手を握った。
「和樹さん」
「はい」
「あの」
「はい」
「(ごにょごにょ)」
「え? 聞こえませんけど」
「ですから……」
「はい」
「あのね……クマをありがとうございます。とっても可愛い。嬉しいです」
「うん」
「それで……お返事なんですけど……私」
ゆかりは、背伸びすると、和樹の耳元で何か囁く。
それはあまりにも小さな声。きっとその場にいたクマにも聞こえなかっただろう。
その声を聞いたのは、世界でたった一人、和樹だけだ。
和樹は静かに笑ってから、ゆかりをぎゅっと抱きしめた。
ゆかりもおずおずとその背に手を回す。
ふたりの唇が近付いて、触れる。
離れて、もう一度触れる。
もう一度。
クマを3LDK新築物件に連れていくまで、まだしばらくかかりそうだ。
和樹さんによるプロポーズ大作戦&同棲推進計画、完了。これにて一件落着……かな?
きっとこれからはケンカしたら拗ねてクマに抱きついて「和樹さんなんか知りません!」ってクマのお腹に顔を埋めるゆかりさんがいたり。
拗ねる様子がむちゃくちゃ可愛いけどゆかりさんの顔が見られなくてどう振り向かせようかあたふたする和樹さんがいたり。
そんな様子が容易に想像できます。
数年後には、叱られた子供たちがクマのお腹にしがみつきながらぐしゅぐしゅ泣いてそうですねえ。ふふふ。




