410 愛妻家は語る
まだまだ新婚さんの頃……かな?
最後だけちょこっと、ニュアンスだけどはだいろ注意。苦手な人は自衛してね。
本日の上司の機嫌はすこぶる良好。
その証拠に鼻歌を歌いながら弁当箱の包みを開けていた。
心地好い風が吹いている公園のベンチ二つに背中合わせで座る上司と部下。
思えば上司である和樹は取引先からこの公園に向かう車中でもやけに上機嫌であった。
信号待ちをしている時でも一定のリズムに合わせて、指でトントン、ハンドルを叩いていた上司の顔はやはりとても楽しげな表情をしている。
その様子に浮かれすぎてはなかろうかと密かに眉根を寄せる部下の長田だが空気を読み、敢えて何も聞かずに書類に目を通していた。
聞かなくとも十中八九、いや十中十、和樹の機嫌が抜群にいいのは彼の奥さん絡みのことだろう、そうに決まっている、それ以外考えられない! と予想がついていたからである。
顔を傾けてチラッと目線を和樹に向ければ、ラップに包まれたおにぎりを、うまそうな顔をして食べていた。
スーツの下に隠されており目視することはないが、そのおにぎりを掴む上司の左腕には包帯が巻かれていることを長田は知っている。
◇ ◇ ◇
昨日、取引先のデパートで実施するイベント準備の手伝いと状況確認しに訪れた際に少し大きめの地震がおきた。数メートル先で設営途中だったモニュメントが崩れ、すぐ側で設営の様子を面白そうに見ていた四、五歳の子供が巻き込まれそうだったところに飛び込んでかばったのだ。
背広を脱ぎ、ワイシャツも腕まくりしてイベント用の荷物運びを手伝っている途中だったため、腕に傷を作ることを避けられなかったのだ。
そういった理由により左腕を負傷していた和樹だが、本人は範囲が広いだけでただの軽い擦過傷であり大した傷ではない、と翌日も普通に出社してきた。荷運びその他で身体を動かす気もデパートのイベントを取り仕切る気も満々だった。
だがそんな目立つ怪我を負わせてしまったデパートの者にとっては、怪我が治らぬまま手伝いと称して荷運びなどに参加されても心理的な負担たっぷりである。
そこで長田は説得した。
「明日から、何も言わずに溜まっていた有給を取ってください石川さん」
しかし上司は『だがな、長田』と不満げな顔をしてなかなか承知しそうにない。
そこで長田は魔法の言葉を使うことにした。
「久しぶりに奥様と二人きりで過ごされてはいかがですか? 奥様孝行、大事ですよね?」
と。
それから話はトントン拍子に進む。
明日から五日間の有給を取ることに、二つ返事で和樹は同意した。
それが今朝、始業後わりとすぐの話だ。
今日中にどうしても外せない取引先との打ち合わせだけを済ませることにして車を出し、今に至る。
◇ ◇ ◇
「いいですね。愛妻弁当ですか」
「ああ、まだ箸を使わない方がいいとゆか……妻が言ってくれてね。こうしておにぎりにしてくれたんだ」
長田に振り返って見せた上司の笑顔は幸せオーラに満ち溢れていた。
未だ独身の長田にはその顔が羨ましくもあり眩しく感じる笑顔だ。
ゆかりと良好な関係を築く以前の和樹は、笑顔でいてもどこか張りつめた空気を纏っていたようだった。
それが恋い焦がれ続けた石川ゆかりとようやく結ばれた。恋人になれた頃から眉間のしわが減ることが増え、正式に夫婦になった時期からは纏う雰囲気がやわらかくなったと長田は回想する。
「本当は別に包帯なんて必要ないんだが、風呂に入った後新しく巻いてくれて、今日の朝も汗かいてますから交換しましょうと言ってくれて、それはそれは甲斐甲斐しく世話をしてくれてね」
「はあ……」
相槌を打つ長田の死んだ目とは対照的に上司の瞳には隠しきれない(というより隠す気のない)妻への愛情が浮かんでおり、駄々漏れ状態であった。
「それから恥ずかしそうな顔をしながら着替えも手伝ってくれるし、腕を動かすことが辛いと甘えれば匙で食べさせてもくれるし……」
「…………」
おいおい、大した傷ではないと言っていたのは目の前の上司ではなかっただろうか。
呆れた表情になった長田は今まで見ていた和樹の幸せそうな緩んだ顔に背を向けると、公園を彩っている新緑へと目を向けた。
「あとなあ、長田」
「……はい」
うんざりとした長田の様子に気付かず、妻との惚気を口にする和樹。
今日一日ずっと上司の惚気話を聞かされる羽目になるのだろうか。休暇が終わってもこの状態が連日続いたらどうしよう。
そんな悩みへの答えのように、遠くでカラスが呆れた声で鳴いている。
平和だ。
コンビニで購入した苦いブラックコーヒーを啜りながら聞く上司の声は、妻への深い想いが乗せられていて、蕩けるほど甘い。
苦笑した部下は上司が幸せそうに語るお惚気を昼休憩が終わるまで聞かされることになったのだった。その後まで続かなくて少しほっとした。
◇ ◇ ◇
思えばゆかりは、出会った時からずっと彼に振り回されている。
同僚であった時も、それから彼の妻になった現在も。
今から帰るとコールされて玄関先で待っていると鍵が開く音がして扉が開く。
それから涙を浮かべたゆかりの顔を見てギョッとした夫、和樹の顔。
「無事で良かったあ」
とへなへなと玄関先で蹲ってしまったゆかりの身体を起こして、宥めるように背中をポンポンと優しく撫でる夫の手。
「心配かけてごめん。――ただいま。ゆかりさん」
「うん。お帰りなさい、和樹さん」
玄関先でぎゅうっと夫を抱きしめたゆかりだが、すぐに自分から離れた。
左腕の傷に障るかもしれないと思ったからだ。
けれど今度は和樹の方からゆかりをぎゅうぎゅうっと痛いぐらいの力で抱き締めてきたので、身体大丈夫みたいと安心して目を閉じ降りてきた唇を受け止めた。
夫の部下である長田からゆかりへ夫が負傷したと知らせがあったのは日課であるブランの散歩が終わって一息ついた頃。おもちゃをいじるブランを微笑ましく見ながら居間で寛いでいた時だった。
途端にスマートフォンを持つ手が震えて目の前が真っ暗になったゆかりだが、
『ですが本人はあくまで軽傷と言っていますし命に別状のあるような怪我ではありませんから安心してください』
と告げる長田の言葉に安心してほうっと息を大きく吐く。
その電話から何時間か経ってから夫から電話があり、電話の声に泣きそうになったのだけれど、その時はどうにか堪えることに成功した。
だけど顔を見たらもうダメだった。
実際に無事な姿を見たら泣いてしまうし縋り付いてしまう。
翌日出社したと思ったら、明日から五日間の有給を与えられて帰宅した和樹に、ほっと安堵してしまったゆかりの表情を、和樹はじっと見つめていた。
「わたしも協力しますから、早く怪我を治しましょうね!」
と意気込む妻が愛おしくてたまらない。
「和樹さんの怪我、“痛いの痛いの飛んでけ~”で治ったらいいのになぁ……」
「くうっ、なにこの可愛い生き物! って僕の妻だ!」
「ゆかりさん。着替え手伝ってくれる?」
ベットの中でゆかりを見つめてくる和樹の視線も声も、どちらも甘くあざといものだった。
「和樹さんたら、いつからそんなに甘えんぼさんになったの?」
そんなふうに聞くゆかりだけど、ゆかりの声もまたとびきり甘く、夫を甘やかす響きに満ちている。
夫のパジャマは上下とも黒のスウェットで妻のゆかりもまた色違いであるがお揃いのメーカーのスウェットを着ていた。
着替える前に額をコツンと合わせて見つめあう二人。
甘く桃色の空気になった夫婦はもう着替えのことなんて忘れて唇同士をくっつけあっている。
それから二人は抱き合いながらまたシーツの海へと潜り込んでいった。
「ねぇ、かずきさん」
自分を呼ぶ寝起きの妻の声は舌足らずになっていて世界一可愛い。
幼い子供のような声なのに自分の身体の傷痕その他ひとつひとつを上から順に辿っていく彼女の唇はどう考えても大人の成熟した女のもので、それは自分が教え込んだ成果でもある。
「もうきず、ふやさないでね」
それは約束できないと黙れば見る見るうちに拗ねた顔へと変わっていく。
子供じみたそんな顔もやはり世界一可愛かった。
「じゃあ死なないって約束して。もし和樹さんに先立たれたら私、未亡人になっちゃうんだよ。そしたらそうね……五年は喪に服しますけれど、それから先は約束できないかも」
と和樹を見つめるゆかりの瞳は小悪魔のように悪戯っぽく輝いている。
「さっき和樹さんとしたあーんなことやこーんなことも他の男の人としてしまうかも?」
ふふっ、と笑う妻の腕を死んでも放すもんかと掴む夫の指。
「傷はともかく死んでも君の元へと帰ってくるから」
と言われて
「だーかーら、死んじゃダメだってば!」
と唇を尖らせる妻。
そのままの状態で言い合い、しばらくしてからまたシーツの海に潜り込む夫婦は結局、有給の五日間、ずっとじゃれあっていた。じゃれあいながら甘い蜜月を過ごしていくことになるのだった。
和樹さんは自分の身を顧みないし、ゆかりさんは必要以上に心配性だし……(苦笑)
でもまぁがっつりリア充なのも間違いないんですよね。
休み明けの和樹さんがどうなってるのか怖いよぅ。
ちなみに五年以上……のお話は、ゆかりさんなりの和樹さん過労死予防策です。




