404-2 if~もしも喫茶いしかわ世界に昨今の行動制限が起きていたら~(後編)
そんな彼は複雑な思いのまま一週間ぶりに喫茶いしかわに出勤すれば、ゆかりは彼の顔を見た瞬間に「和樹さん!」と溢れんばかりの笑顔で駆け寄ってくる。
「すごいです! 最近テイクアウトのお客様が増えて大忙しです! 和樹さんが宣伝してくれたんですよね? 本当にありがとうございます!」
ゆかりに手をギュッと握られると、どこからか今までの喫茶いしかわでは感じることのなかった気配を本能で彼は察知した。
店内を見渡せばいるわいるわ、よく見知った顔が。新聞で顔を隠してはいるが間違いなく彼の部下たちであり、和樹の指令通り喫茶いしかわの売り上げに貢献していた。何も悪いことをしていないはずなのに気まずさの漂うこの空気を打ち砕くかの如く、一人の男が来店した。
「ゆかりちゃん。今日もテイクアウトでブレンドとハムサンドとたまごサンドね」
その味に心酔し、喫茶いしかわ通いを続けている彼も和樹の部下の一人だった。今日もテイクアウトをするために店内に入ったが、目の前にいたのはゆかりではなく、胡散臭い笑顔を貼り付けた上司その人だったのだ。
「いらっしゃいませ、テイクアウトですね。店内でおかけになってお待ちください」
「うぇっ! い、いえ! 隅っこで待ってます。立って待ってます」
「何をそんなに恐縮しているんですか? こちらこそ“ゆかりちゃん”じゃなくてすみません」
汗の止まらない部下を他所に、ゆかりは彼を見つけると満面の笑みで駆け寄ってくる。
「今日も来てくれたんですね! 和樹さん、こちらの方最近毎日のように来てくださってるんです」
「それはそれは、いつもご来店ありがとうございます」
「お仕事がとっても大変みたいで、和樹さんと同じように目の下に隈を作ってくることもあるんです。何でも上司の方がとっても怖い人みたいで……」
「わっ、わーっ! ゆかりちゃん、ごめんちょっと急いでるからブレンドだけでいいや!」
そこだけ局所的猛暑が訪れたかのように全身にびっしょりと汗をかく彼の肩を和樹は掴んだ。その笑顔には到底不釣り合いな力で。
「そんなに急がなくてもいいじゃないですか。せっかく来店されたんですし、ゆっくりしていってください。大丈夫です、怖い上司なんてここにはいませんから」
後に彼は、今日ほど生きた心地のしなかった日はなかったと語っていた。店内にいたはずの同僚はいつの間にか姿を消しており、上司は笑顔でハムサンドとたまごサンドを作っていた。その手で千切られていく新鮮なレタスが自分と重なって見える。破裂しそうなくらい高鳴る心臓を落ち着かせようと深呼吸をすれば、彼の視界に心配そうな表情のゆかりがコーヒーを持ってやってくるのが見える。
「ブレンドお待たせしました。何だか今日は顔色が優れないようですが大丈夫ですか? ……もしかしてまた何か上司の方に言われたとか?」
「い、いえ。滅相もございません」
「ほら、振ってくる仕事の量がエグいとか人遣いが荒いとかおっしゃってましたし」
「あっゆかりちゃん! それを今言わないで!」
悪気のないゆかりによる死刑宣告のような台詞に、部下は恐る恐る和樹を見るが、彼は注文の品々を作ることに集中しており、こちらを見るような素振りはない。
「自分の上司は若くてイケメンで頭脳明晰、スポーツ万能。とにかく仕事ができるすごい人なんだ」
わざと大きな声でそう言ってみるが、キッチンに立つ和樹は何の反応もなく、なおも注文された品々を作り続けている。
「見た目がホストで、女を侍らせてるのが似合いそうなチャラい上司さんでしたっけ? 私も一度、どんな人かお会いしてみたいです」
顔の血の気がどんどん引いていく部下の元に噂の上司その人がトレーにハムサンドとたまごサンドとおしぼりを乗せてやって来る。
「ハムサンドとたまごサンド、大変お待たせいたしました」
部下は怖くて顔を上げることができず、震える手でトレイを受け取った。さらに、料理の提供を終えても和樹がその場を離れようとしなかったことが、部下の恐怖を倍増させた。
「ゆかりさん、あちらのお客様の注文をお願いしてもよろしいですか?」
「はーい、伺いますね! じゃあ、どうぞごゆっくり!」
頼みの綱だったゆかりもパタパタと奥のテーブルへと向かってしまう。逃げ場のない状況の彼に上から降り注がれる低い声は紛れもなく、普段から恐れている上司の声だった。
「僕にはコーヒーやパスタよりもドンペリやシャンパンコールが似合うのか」
「い、いえ! とても喫茶店がお似合いです」
「それから、社外の相手に余計なことを喋るな。情報漏洩だ」
「も、申し訳ありません」
「それから“ゆかりちゃん”ではなく石川さん、百歩、いや十万歩譲ってゆかりさんと呼べ」
「すみません、皆がゆかりちゃんと呼んでいたのでつい……」
「他所は他所、うちはうちだといつも言っているだろう!」
そんなこと初めて聞きました、と言えるような雰囲気はまったくなかった。
「それから、振る仕事の量がエグくて人遣いが荒くて悪かったな」
「す、すみません! 決してあなたを貶している訳ではなくて……!」
「僕は業務遂行能力に見合った仕事量しか与えていない。それだけの力があると思っているから仕事を振っている」
「は……はい」
「人遣いが荒いことに関しては悪いと思っているがすぐに直すことは難しい」
「そんな! 長田さんのようには動けませんが、自分のことも馬車馬のようにこき使ってください!」
それじゃあ長田を馬車馬呼ばわりしているのと一緒だと和樹は苦笑いを浮かべた。
しかし、言質はとった。明日にでも動いてもらおうと和樹は頭の中で計画を立て始める。その前に目の前のやる気に満ちた部下に束の間の休息を与えなければならない。
「喫茶いしかわにいる時くらいはゆっくりしてもいいが、いくらゆかりさん相手とはいえ余計な話はするなよ」
和樹は“食べたら早く戻れ”と会計の伝票を持ち去ってゆく。怖い上司なりの優しさの表れなのだろうか。部下は胸を撫で下ろしたが、彼は明日から本当に馬車馬のごとく働かされる運命を背負ってしまったことをまだ知らない。
「ゆかりさん、売り上げの調子はどうですか?」
「すごいです! これなら前年比をなんとか維持できそうです」
レジ締め作業中に数字を確認すると、売り上げは先月の数倍に伸びていた。彼らの努力は形となって現れていたのだ。
「お客様がまた別の方にも宣伝してくれたみたいで、SNSのフォロワーもかなり増えたんですよ」
「良かったですね! ゆかりさんの努力の賜物です」
それはそうだ、部下には可能な限り知人へ宣伝をするように伝えているのだから。しかし、忙しい部下たちにいつまでも甘えるわけにはいかず、次はこの売り上げを維持する方法を考えなければならないと脳を回転させる。
「そういえば、最近来てくれるようになったお客様方って共通点があるんです」
彼はギクリとした。まさか部下達はこぞって自分の所属を明かすような話をゆかりにしたのではあるまいか、と。
「へ、へえ。共通点ってどんなことですか?」
「なんと上司がホストみたいな若いイケメンってことなんです。そんな上司さんがたくさんいるなんてすごい偶然ですよね」
そんな偶然があってたまるか、という言葉は飲み込みゆかりの言葉に相槌を打つ。
「喫茶いしかわには和樹さんていうイケメンさんがいますよって言ったら、なぜか皆さんだんまりになるんですが、もしかしたら和樹さんに似ていたのかもしれないですねぇ。ふふっ」
「僕が上司なんてそんな器じゃありませんよ。……僕はきっと自分の私情に組織を巻き込むような嫌な上司になりそうです。嫌いな上司ランキングがあったら、おそらく殿堂入りするでしょうね」
自分で言っておきながら悲しくなるのだが、今回に関しては部下に疎まれても仕方がないという自覚はあった。昼食選択の自由を奪ったのだ、ラーメンやうどんを食べたい人間からはさぞかし恨まれただろう。
「お客様方にも同情します。チャラそうな上司の下で働くなんてさぞかし不本意でしょうね」
「でも皆さん仰ってました。人間としてとても尊敬できる人だから、あの人の力になりたいんだって。不本意どころか、とっても慕われてるみたいですよ」
どんな人なのかお会いしてみたいですね、とその人物が隣にいるとは知らずゆかりは噂の上司に思いを巡らす。
「どんな人でしょうね。僕も気になります」
「いつか喫茶いしかわに来てくれないですかねぇ」
「いつかきっと来るはずですよ」
いつかきっとその人は来るだろう。むろん、ゆかりがいればという条件がある以上、彼は喫茶いしかわ存続のためなら手段を選ばず動き続ける。
すべてはゆかりと喫茶いしかわのために、それは決して揺らぐことはないのだから。
ということで、パラレルワールドでした。
本来の喫茶いしかわの世界線ではパンデミック発生してないので、皆さんとっても距離が近くて仲良しです。くふふ。
結婚しちゃってると和樹さんが取れる手段が格段に増えるし、コントなやりとりが一切使えなくなるので、今回はヘタレな全力片思い中の和樹さんに登場してもらいました。
行動制限のないゴールデンウィークが過ぎて少し落ち着きましたね。これから(制限のない)元の生活に戻っていけるんでしょうか。正直、せめて夏場はノーマスクで過ごしたいよね。
数日前に外かつ密でなければノーマスク推奨的提言が出てたとニュースになってましたけれど、どこまで実現できることやら。
今って人影がある場所でマスク外すとなんだかんだじとっとした目で見られるから。一応、2m以上離れていればいいってことになってるはずなんですけどね。
個人的には持病と一緒というか、撲滅なんて夢物語はうっちゃって、なんだかんだとなだめすかしながら共存していくしかないと思うのですが。
もしかしてわたし、少数派……?




