404-1 if~もしも喫茶いしかわ世界に昨今の行動制限が起きていたら~(前編)
パラレルワールドです。
昨今のパンデミックで喫茶いしかわにも飲食店への行動制限が起きていたら。
なお、この時のゆかりさんと和樹さんには喫茶店員の先輩後輩以上の関係はありません。
「いくら何でもこれじゃまずいです」
ゆかりは閉店後の店内でパソコンを前にため息をついた。彼女がしかめっ面をしているのはここ最近、売り上げが思わしくないからであった。原因は営業時間の短縮や、余分に休業日を設けているためであることなのは明白だが皆さまご承知の通り、このご時世では致し方なしというもの。世界的に大流行中のウィルスの収束を待つ以外の手段は今のところ存在しない。
「理由が理由とはいえ、確かに前年と比較すると落ち幅がすごい。何か手立てを考える必要がありますね」
和樹はゆかりの隣で口元に手を当てて画面の中の数字を真剣な眼差しで瞬きひとつせず見つめていた。
「このまま売り上げが落ちて万が一のことがお店にあったら……路頭に迷ってしまいますね」
「大丈夫です。万が一の時は僕をクビにしてください」
「ダメです! そんなことをしたらせっかく獲得した新規女性客たちが一切来なくなってしまいます。万が一の時は私が犠牲になります!」
「いえ、ゆかりさんはお店の看板娘です。ゆかりさん目当てのお客様が悲しみますから万が一の時は僕が。大丈夫ですよ。それなりに蓄えはありますし日々のご飯には困りません。なので僕が」
店の万が一に備え、どちらが人件費削減の犠牲になるかという縁起でもない内容の話し合いをしているが、この場合、第三者が「じゃあ自分が犠牲になります」と立候補して残る二人が「どうぞどうぞ」と犠牲になる権利を譲るまでが一連の流れであり、コンビでは成立しないネタであることに二人はまだ気付く気配がない。
「はぁ。茶番はさておき、和樹さん。喫茶いしかわのために何か私たちにできることはないでしょうか?」
「うーん、そうですね。テイクアウトの認知度が低いので、そこをうまく宣伝できれば数字に繋がりそうな気はします」
喫茶いしかわではこの壁に打ち勝つための戦略としてテイクアウトを始めてみたはいいが、まだまだ売り上げとしては全体の一割程度、打開策が必要であった。
「SNSの宣伝だけでは足りないみたいですね」
ゆかりは喫茶いしかわの公式SNSを操作しながらため息をつく。
「喫茶いしかわはSNSを使わない年代のお客様も多いですし、お客様がいないこの時期だからこそ地道にお声掛けをして“おうちで喫茶いしかわ”を広めていくのもひとつの方法ですね」
「うーん、そうですよね。地域の方に声かけて宣伝してみますね。せっかくだし今からチラシ作ります。赤字脱却大作戦です!」
「僕も本業の関係者に宣伝します。大丈夫、きっとこれから忙しくなりますよ」
その心の中では何を考えているのやら、和樹はニコリと優しい笑顔を浮かべた。ゆかりは頼もしい彼の姿に同じように柔らかい笑顔を浮かべ頷いたのだった。
次の日、和樹は本来の職場に出勤していた。
槍が降ろうがウィルス飛沫がどうなろうが彼らの仕事に終わりなどない。とワーカホリックな本人たちは考えている。
「お疲れさまです、和樹さん」
「あぁ、お疲れ。早速で悪いがこれに目を通しておいてくれ」
「はっはい……!」
早々に座席につくと彼は部下に一枚の紙を手渡した。重要案件かと手に汗を握りしめ書類に目をやると、部下は拍子抜けした。
「今日からなるべく昼食は喫茶いしかわでテイクアウトをしてほしい」
和樹はどこで印刷してきたのか大量の喫茶いしかわのチラシを片手に、各デスクに素早く配っていく。
「ゆかりさんが夜なべして作ってくれたチラシだ。今月末まで何度も使えるクーポンも付いている。ぜひ活用してほしい」
チラシを見れば上司が考案したという噂の和風たまごサンドを先頭にパスタや軽食を始め、プリンなどの定番スイーツ、豊富なドリンクなど喫茶店らしいメニュー名が連なっている。
チラシを渡された部下は、外に出ればすぐコンビニや飲食店がある中で、わざわざ昼食を喫茶いしかわでテイクアウトなど、あの合理的でお馴染みの上司がそんな非効率的なことを言い出した理由を必死に考えていた。
「可愛いゆかりさんを路頭に迷わせるわけにはいかない。みんなで協力して喫茶いしかわの赤字を防ぐんだ!」
彼のその言葉で、あぁ、惚れた弱味か……と部下は状況を飲み込んだ。完全無欠と呼び声の高いうちの上司は喫茶店の看板娘にほの字だという噂は、どうやら本当だったようだ。
「参考までに僕のオススメにマーカーを引いておいた」
この場にいる人間の八割が、一体この人の本職は何だっただろうかという疑問を抱いていた。もはや本業の方が副業なのではないかとさえ思えてくるくらい、喫茶店のアルバイターが板についている。
「お言葉ですが、喫茶店をひとつ存続させるために、そこまで必死になる必要はないように思いますが……」
誰かが放ったその言葉が耳に入った途端、和樹の鋭い眼差しが発言者に向けられる。そう、それは禁忌の台詞である。
「喫茶いしかわで働くゆかりさんを見たことがないからそんなことが言えるんだ。お前は“うどんのない香川”や“みかんのない愛媛”を想像できるのか? ゆかりさんは“徳島の阿波踊り”、“高知のカツオのたたき”と同様、喫茶いしかわにはなくてはならないシンボルなんだ。それを必死になる必要はないなどとよく言えたもんだな」
「いいか、喫茶いしかわが潰れてしまったらゆかりさんは失業する。ゆかりさんならもちろん失業保険の受給期間中に仕事を見つけることはできるだろう。だが喫茶いしかわ以上に彼女が輝く仕事なんて想像できない。あるはずもない。アットホームな職場が謳い文句なブラック企業に就職すれば待っているのはパワハラやセクハラ、過酷なノルマに家に帰れない強制残業。家に帰れず風呂にも入れない悲惨さに関してはここにいる経験者なら分かるだろう? ゆかりさんをそんな仕事に就かせる訳にはいかない」
グッと拳を握りしめ、和樹は滔々と語り続ける。
「一方で、喫茶いしかわで働くゆかりさんは常に笑顔で老若男女分け隔てなく誰にでも親切だ。滅多にシフトに入れず何度も不義理をしでかした僕にまで美味しい賄いを作ってくれるし、コーヒーも淹れてくれる。“和樹さんはいつも頑張り過ぎですよ、喫茶いしかわにいる時くらいリラックスしてくださいね”と可愛い笑顔で言われたら疲れも眠気も一気に吹き飛ぶ。あんな絵に描いたような素敵な店員のいる喫茶いしかわを存続させたいと思うのは当然だ」
「あの、もう分かりました。はい、喫茶いしかわに通います、すみませんでした」
重症だった。これでもし喫茶いしかわが潰れたとなれば、彼はどんな無理難題を押しつけてくるか分からない。となれば我が身可愛さに部下たちができることはただひとつ。喫茶いしかわでテイクアウトをする、それだけだ。
和樹の形の良い唇は弧を描きながら、“分かればいい”と満足そうにパソコンを目を落とした。目的遂行のためには手段を選ばない、それが彼のやり方だった。そう、すべてはゆかりと喫茶いしかわのために。
彼のこの作戦は早々に高い効果をもたらしていた。部下たちはこぞって昼食や間食に喫茶いしかわのメニューをテイクアウトしたのだから当然売り上げは右肩上がり。最初は仕方なしに注文していた者たちも、その味の虜になるまでにそう時間はかからなかった。
しかし、ひとつ困ったことがあった。喫茶いしかわのコーヒーを味わってしまえば、もう缶コーヒーには戻れない。和樹が缶コーヒーを飲んで顔を顰める理由に誰もが納得するようになっていた。
和樹が出勤すれば、そこに広がるのは紛れもなく喫茶いしかわのコーヒーの香り。今や缶コーヒーはマイノリティ、飲んでいる人間は日を追うごとに少なくなっていた。
「和樹さん、喫茶いしかわのコーヒーとサンドウィッチ、とても美味しいです。今度、モーニングにお邪魔してもいいでしょうか?」
「あぁ、それは良かった。ぜひ来てくれ」
想像を上回る浸透ぶりにひとまずは胸を撫で下ろしたものの、なんとなく気になるワードも耳に入ってくる。
「ゆかりちゃんの笑顔が可愛い、癒される」
喫茶いしかわのメニューだけではなく、看板娘に魅了されている人間も少なくないように見える。
常に緊迫した現場に身を置いている人間にとって、あの笑顔はどんな温泉よりもリラックス効果があることは和樹が一番知っている。だから部下たちの反応も当然だと分かっているのだが、「ゆかりちゃん」と聞こえるたびにイラッとする己の心の狭さを恥じることも増えてきた。
「チッ。馴れ馴れしいな。何が“ゆかりちゃん”だ」
とはいえ、自分から喫茶いしかわ通いを頼んだ手前、何も文句は言えず部下の話し声にやきもきする日々がしばらく続いたのだった。




