403-2 夏が来るまでは(後編)
ゆかりは子供の頃から積極的に料理の手伝いをしていた。
母も祖母もいたので、本当は手伝いはさほど要らないのだが、ゆかりも他の家族も良く言えば食道楽、悪く言うと食い意地が張っていたので料理が好きだったのである。
ただ家族全体が大らかだったので、料亭のようなきちんとした料理ではなく、ほとんどが典型的な家庭料理だったのだが。
さて、それはとある初夏の日の出来事。
その日近くの畑で取れたからと、野菜をいっぱいもらったゆかりの家族はさっそく夕飯作りに取り掛かった。ちょうど家にいたゆかりも喜んで手伝うと宣言した。
そしてゆかりは前から挑戦したかった夏野菜カレーを提案したのだ。
理由は「なんかおしゃれな料理だったから」。
どこかのテレビ番組を見てそう思ったらしい。祖母は定番のカレーしか知らなかったが、母は知っていたのだろう、いいわよ、と返事をした。
母の了承を得たゆかりは得意そうに……少し奢っていたのかもしれないが鼻息荒く準備に取り掛かった。
鼻歌を歌いながら順調に野菜を切っていくゆかりに祖母はふと声をかけた。
「ゆかり、かぼちゃ薄くないかい?」
テレビで見たときのかぼちゃは薄切りだった。なので何も考えず、ゆかりは薄切りにしたのだ。
「だいじょうぶ! テレビではこうだったし、かぼちゃはゴロゴロしてたら火が通りにくいもん!」
自信たっぷりに言い切ったゆかりに祖母は特に反対もせずに、そうかい、といって別の料理に取り掛かった。
ゆかりは上手く切れたと上機嫌で、カットしたものをコンロの近くに持っていった。
鍋に油を引いて野菜を炒める。にんにく、しょうがを刻んだものなど調味料をざっと入れる。
この時点でちょっと怪しい気配があった。
かぼちゃである。
いつもは身持ちが固く、頑なな態度を崩さないかぼちゃ先輩が早くもグズつきそうだったのだ。頑なな態度はどこにいったのやら、今は目の前に狼がいるうさぎのような弱さを感じる。それでもまあいいかと、ゆかりは水を入れて追加の調味料を入れ、しばらくおいてからルーを割り入れた。そして蓋をした。いつものかぼちゃ先輩ではない態度をすっかり忘れて。
さて時間になって蓋を開ければ何とも美味しそうな匂いが漂ってきた。
ああ、これは成功したな! そう確信して鍋の中身を確認した。
「あれ……?」
思わずゆかりは声に出してしまった。
何やらカレーがいつもの色になっていない。いつもより明るい……オレンジに近い色だ。
そしてお玉でぐるっとルーをかき混ぜると二つの違和感を感じた。
一、かぼちゃ先輩が見当たらない
二、鍋底に何やら溜まっている気配がする
二に関してはルーが溶けてないのかもと思って、力いっぱい掻き回した。ルーに見えたから、見えたから……そう言い訳して掻き回した。
一の違和感から導き出される可能性を否定したかったのだ。
テレビで見た夏野菜のカレーはきちんと各野菜の姿が視認できた。綺麗な、美味しそうな色合い、形でゆかりを誘惑していた。
でも今ゆかりが作っているカレーの中には、いくら掻き回してもかぼちゃの姿が見えない。きっと紛れているんだと希望持って掻き回しても見当たらない。
必死に掻き回しているゆかりの後ろからのんびりとした声が聞こえた。
「あら、かぼちゃ溶けちゃったのね」
母の一言が希望にすがりついていたゆかりにトドメを刺した。
味は良かった。失敗してなかった。家族は美味しいと言ってくれたが、目標が「なんだかおしゃれな夏野菜カレー」だったゆかりは気落ちした。
さらに追い打ちをかけたのが、鍋を洗う時に気付いた“底に焦げ溜まっていたかぼちゃの成れの果て”である。洗い難いことこの上なかった。スポンジをひとつダメにしたことで、もっと惨めな気分になった。
かぼちゃはたしかに火が通りにくい。
でもさすがに薄切りにしたら、溶けてしまうのだ。
その時のテレビでは作り方は放送されていなかったが、実はかぼちゃは素揚げされ、最後の方で加えられていたと知ったのはだいぶ経ってからのことだった。
昔のことをふと思い出していると、隣から妙な気配を感じた。
和樹が興味津々で自分が食べているカレーを見つめている。彼のためのスパゲティは既に完食したようだった。
あれ? 足りなかったのかな? と思っていると、いつの間にか和樹は徐にスプーンを手にしており、さっとゆかりの皿からカレーをひと掬いした。綺麗に形を残したかぼちゃも一緒に。
「え……えっ!? ちょっと、和樹さん! 行儀悪いですよ!? い、いやその前に私のカレー!」
「すみません、あまりに美味しそうだったので……ああ、本当に美味しいですね。きちんと野菜に味が染み込んでいる」
和樹は口に入れて咀嚼した瞬間、ほんのわずかな間、驚いたように瞬いた。そしていつもの胡散臭い寄りの営業スマイルとはほど遠い、本当に柔らかい笑顔をこぼしたのだ。
ゆかりはカレーを盗まれた憤慨など彼方に吹き飛ばすくらいに驚いた。何ともレアな瞬間に立ち会えてしまったらしい。カレーの一口分でこの笑顔なら、安すぎるものだ。
和樹は満足そうに咀嚼していたが、飲み込むとちょっとだけ視線をまたカレーに移した。どうやら足りないらしい。
いつもは「朝食を食べ過ぎました」とお昼を少なめにするくらいなのに、今日は随分と空腹らしい。
まあ、今日は忙しかったもんね。
ゆかりはそう思うと、なんだかこの年上の後輩がすこぶる可愛くなってきてしまった。
クスクスと笑うとちょっと恥ずかしかったのか、和樹が頬を指で掻きつつそっぽ向いてしまう。ああ、本当に今日は珍しい日だ。
「そんなに気に入っていただけたのなら、このゆかりシェフが今度の賄いでお作りいたしますよ、お客様?」
戯れにわざとらしい口調で言ってみると、和樹もくすりと笑ってその形の良い唇を動かした。
「ええ、ぜひお願いします。喫茶いしかわの賄い専門のゆかりシェフさん」
あら、この言い方だとまだお店には出せないかしら。和樹の判断は大抵正しく、舌に関しては最早正確無比だったので、少し残念だがゆかりはお店の新メニューにするのは諦めることにした。
残念な気分がダイレクトに表情に反映しているゆかりを見つめながら、にっこりと和樹は言葉を付け足す。
「まだ夏じゃないですから。今だけゆかりさん特製の夏野菜カレーは賄い限定料理です」
それはよく考えれば、頻繁にゆかりの賄い料理を食べている和樹しか提供されない、独占状態ということなのだが、ゆかりは気付かない。
「そうですね! 夏が来たらメニュー化してみましょう!」
と先ほどの表情を簡単に吹き飛ばすような明るい笑顔で応えた。
外は相変わらずの快晴で、雲一つない空が広がり、ふと夏なのではないかと勘違いしそうな陽気。それでもまだ入道雲は見えないし、騒がしい蝉の声も聞こえない。その前に訪れるはずの雨の時期すらいまだ西の方にとどまっている。
擬似的な夏を体験した今日この良き日にゆかりは感謝し、午後の襲来に向けて気合を入れるべく食器を片付けにカウンターに入った。
和樹はその姿を只々、優しく見つめるのだった。
ゆかりさん若かりし日の可愛らしい失敗談でした。
ゆかりさんがテレビで見たカレーは、トッピング・夏野菜なタイプだったのでしょうね。
パッと見の印象よりも「ひと手間」が大事な料理って意外に多いから。
美味しいものを食べるための手間を惜しみたくないゆかりさんではありますが、野菜をトッピングするにしてもさすがに子育て中のカレー作りで毎回野菜を素揚げしまくるのも大変なので、和樹さんがちゃんと夕食に間に合う時だけの特別です。それ以外の時はレンチンが大活躍してます。




