402 ばにいのひ
「落ち着け……落ち着け……」
静かな寝室には、うるさく鳴り響く心臓を嗜める僕の呟きだけが響く。
ベッドの中央で正座をしながらふーっと深く深く呼吸をすると、ドアの奥の廊下から小さくパタパタとスリッパを鳴らす音が聞こえてきた。
ああ、いよいよだ。
いよいよ“バニー”が目の前に――
◇ ◇ ◇
「今日はバニーの日なんです!」
「バニー?」
「ほら、八月二十一日でバ・ニ・イ!」
「ああ、なるほど……」
三日ぶりに帰宅して早々、にこーっと満面の笑みを浮かべた彼女が僕に告げる。
「それで、ゆかりさんはどうしてそんなに嬉しそうなんですか?」
ネクタイを緩めながら尋ねれば、にいっと笑みを深めた彼女は「知りたいですか?」と首を傾げる。なんともあざとい仕草だが、彼女がするだけで途端に可愛いものに様変わりするのは惚れた弱みか、と心の中で苦笑する。
「ええ、ぜひとも知りたいです」
「じゃあ、特別に教えてあげますね」
耳を貸して、と言う彼女のために彼女の身長に合わせて屈む。左耳にふっと吐息がかかり、擽ったさに思わず笑みを溢せば小さく、しかしはっきりと彼女の声が耳に届いた。
「夜に、ね」
◇ ◇ ◇
彼女は『バニーの日』だと言っていた。
わざわざ、僕に嬉しげに伝えてきたと言うことはそれが関係しているということだ。
そして、あの場で言わずに『夜に』と言った。夜、つまり『寝る時』ということ。それをわざわざ囁いたということは、夜に寝室でするアレやソレやを暗に示していて、彼女も期待しているに違いない。
ここから導き出される答えは一つ。
「バニーガールだ!」
バニーの日にバニーガールの格好をした彼女が寝室に現れる。想像しただけでクラクラしそうだが、この想像がもう少しで現実になると思うと胸が高鳴ってしょうがない。
「三徹で出張頑張って良かった……っ」
独りごちていれば、コンコンと控えめなノック音とともに「和樹さーん」とのんびりとした彼女の声がドアの奥から聞こえてきた。
「は、はいっ」
「部屋に入っても大丈夫ですか?」
「どうぞ!」
カチャ、と静かな音ともにゆっくりとドアが開く。
ついに、彼女のバニー姿が目の前に――
「じゃーん! バニーゆかりで~す! ねえねえ、どうですか? 似合ってますか?」
「……ば、ばにー」
「ふふふ、バニーですよ! ピンクのバニー! 可愛くないですか?」
くるり、と一周まわった彼女は再度両手を広げて誇らしげに僕に見せてくる。そのバニー姿を。
「あ、ゆかりさん……それは……」
「これはバニー着ぐるみパジャマで、ネット通販で見かけて買ってみたんです! 暖かい素材だから着るのはもう少し先ですけど、今日届いたので和樹さんに早く見てもらいたくて着ちゃいました……って、あれ、和樹さん?」
楽しげな彼女とは正反対に、僕は思わず布団の上に突っ伏す。
バニー、たしかにバニーだ。しかし、僕が期待していたものとはあまりにもかけ離れた、ピンク色のふわもこバニーがそこにはいた。
「ゆかりさん、それはバニーというよりうさぎですね……」
「え? でもうさぎとバニーって同じですよね?」
「うん、まあそうなんだけど……ちょっと、いや、かなり期待してしまった……」
「え?」
「いえ、なんでもないです」
突っ伏していた布団から顔を上げて彼女へ視線を向ければ、先程までのはしゃぎっぷりから一転、彼女は頬を赤く染めて、あちこち忙しなく視線を動かしている。
「どうしたの、ゆかりさん? 顔が赤いけど、どこか具合が悪い?」
表情をよく見ようとベッドから立ち上がりかけた僕を「だ、大丈夫です! 元気だから!」と彼女は慌てた様子で静止する。
僕がストンと座り直せば彼女はふうっと一つ深呼吸をした。
「あのね、パジャマも買ったんだけど他にも買ったものがあるの。それも見てくれますか?」
「え」
戸惑い、驚く僕を前に彼女は顎下まで引き上げられていたパジャマのジッパーをゆっくりと下ろしていく。少しずつ開かれていくパーカーの奥に僕の視線は釘付けになっていた。
「うう、そんなにまじまじと見ないで……」
「大好きな妻が目の前で脱いでいるのに、見るなというのは無理な話ですよ」
パサっという音ともに床に落とされたパジャマ。その下から、黒のレース生地から白い素肌が見え隠れしているブラジャーと、そこからサスペンダーで続くたっぷりのフリルでふんわりと覆われたパンティが現れた。パジャマのフードで隠れていた頭にはうさぎの耳のヘアバンドが、お尻の部分にはご丁寧に尻尾までついていた。
「まさか下着がバニーガール仕様になってるとは思わなかった……」
まさかの事態に顔を両手で覆い、はあと腹の底から溜息を吐き出せば、彼女はおずおずとベッドに近づいてくる。
「その、引きましたか……?」
「引く? まさか」
「きゃっ」
彼女の細い腕を掴んで引き寄せれば、不意を突かれた彼女は僕の胸に倒れ込んでくる。
彼女の熱と柔らかな胸の感触をTシャツ越しに感じ、落ち着いていた心臓がまた忙しなく動き出した。
「あー……僕の奥さんは本当に読めないなあ」
「え?」
「うん、こっちの話。間違っても引くことなんて絶対ないし、むしろ嬉しくて頭がどうにかなってしまいそう」
「ほ、ほんとですか?」
「本当だよ」
不安そうな彼女に努めて優しい声音で伝えれば、「良かったあ」と彼女はふんわり微笑む。
だが、そんな可愛い彼女は現在進行形でセクシーなバニーガールの下着を身に纏ったまま。
邪な感情は消えるどころか大きくなるばかりで、どう頑張っても意識はそちらへと向いてしまう。
「ねえ、ゆかりさん」
「はい?」
「そういう格好をして、僕に見せてくれたってことはその……期待してもいいのかな?」
僕からの言葉にしばらく固まっていた彼女だが、言葉の意味がわかったのか、頭から湯気が立ち上ってるのではないかと錯覚しそうなくらい顔を真っ赤に染めて慌て出す。
「えっ!? えっとその、きっ期待というか、その、えーと」
「まあ、ゆかりさんがどう答えたとしても、その格好で目の前にいる時点で期待するし、止められないんだけどね」
「え、ちょっと待っ」
「ごめん、“待て”は無理」
彼女を抱きしめたままくるりと回転し、彼女を見下ろす体勢になると、一瞬視線が交わる。
しかし、ふい、と視線を逸らした彼女は唇をギュッと引き結んでいた。
表情をよく見たいと彼女の顔を覗き込もうとしたその時、彼女の口が小さく開いた。
「……し……かった……もん」
「え」
囁くような呟きは、途切れ途切れで聞き取ることができない。
僕が聞き返すと彼女は一瞬だけ困ったように眉根を寄せた表情を見せたが、すぐにまた視線を逸らしてぽそりと呟いた。
「……和樹さんがいなくて、私だって寂しかったもん」
「っ」
「期待、していいですよ?」
迎え入れるかのようにおずおずと広げられる彼女の白くて細い腕は、彼女の僕に対する期待の表れなのかもしれない。
翻弄していると思えば、いつのまにか僕の方が彼女の掌の上でくるくる踊らされている。
つくづく彼女には敵わないなと思うし、そんな彼女に翻弄されるのもまた悪くないと思う自分がいるのも事実だ。
さて、さしずめ今夜は、寂しがりな可愛い“うさぎさん”を目一杯甘やかすことにしようか。
彼女の可愛い期待に応じて、僕は広げられた腕の中にゆっくり堕ちていくのだった。
3ヶ月ほど先取りかつ季節感ガン無視ですが、ゆかりさんなりのイタズラ? サプライズ? な話をちょろっと出してみたくなりまして。
たぶんちょくちょくおねだりするんでしょうね。
僕だけの可愛いうさぎさんが見たいです、なんてギラつきながら。
うさぎさんパジャマのほうは、ちっちゃい子供たちとお揃いを着てそう。
うさぎさんのお腹にはりついてる子ウサギと一緒のおねんねっぷりをこっそり撮影する和樹さんは、気付けば大量スクロール発生させるんでしょうね。




