398 十二センチ
ふたりがまだまだ初々しかった頃のおはなし。
“キスがしやすい身長差は十二センチ!”
時刻は二十二時。
とっくにお風呂も済ませ、一日のご褒美の棒アイス片手に雑誌をめくるゆかりの目に映るのはキスにまつわるエトセトラ特集の中のトピックス。
「十二センチ……」
バニラ味のアイスをシャクっと一口齧りながら思い浮かべたのはグレーのスーツ姿。
おうちデートでお昼ごはんを一緒に食べている最中に呼び出しがあり、あっという間に行ってしまった彼を見送ったのは昨日のことだ。
その時はなけなしの勇気を振り絞って「いってらっしゃい」と頬にキスをしたのでよぉく覚えている。
顔から火が噴き出しそうな私を見て、頬へのキスを催促した彼は笑いを堪えながら「行ってきます」と出ていった。
悔しいけどそんなところも好きなんだからどうしようもない。
「和樹さんって身長何センチなんだろ」
改まって聞いたことはないけれど、女性の平均身長程度の私とは頭ひとつ分は違う。
まっすぐ見つめると、彼のネクタイに行き着くのだ。やっぱりそれなりに身長は高いはず。
「十二センチ以上は確実にあるよねぇ」
ぽつりと呟き、一拍。
「いやいやいや、何考えてるのわたし……!」
私から和樹さんにキスするなんて恐れ多いしハードルが高すぎる。
頬にするだけで心臓が口からこんにちはするんじゃないかと本気で思うくらいには緊張したのに口になんて……。
「むりむりむり」
ブンブンと誰もみていないのに手をふる私を傍に寝そべっていたブランくんが「何を始めたんだ」とばかりにむくりと起き、こちらを見つめてきた。
ブランくん、そんな可哀想な人を見る目で見ないで……とモフろうとしたそのとき。
『ピンポーン』
静かな部屋に軽やかなチャイム音が鳴り響き、思わずビクッと肩を揺らしてしまう。
「この時間に来るのは……」
そおっとモニターを見るとそこには今日も今日とてスーツをしっかり着こなした私の最愛の人が立っていた。
『ピンポーン』
もう一度チャイム音が鳴り、慌てて通話ボタンを押す。
「っ、はい!」
「こんばんは、ゆかりさん」
「こ、こんばんは……!」
「すみません、こんな時間に事前連絡もせず来てしまって……」
「いっ、いえいえ! そんな」
「無性にゆかりさんに会いたくなって」
「っ」
「連絡することも忘れて来てしまいました」
あ、照れてる時の癖。
会って早々爆弾を落とされて、正直HPはほぼゼロに近い。
でも、頬をかくという照れてる時特有の仕草を見て、和樹さんも照れてるんだなぁ、ほんとに会いたかったんだなぁと思うと、嬉しさと好きだという気持ちが混じったむず痒い心地にソワソワにまにましてしまう。
「う、嬉しいです……わたしも和樹さんに会いたかったので……」
「……ゆかりさん」
「はい?」
「それ、直接面と向かって聞きたいです」
「へっ!?」
「なので部屋に上がってもいいですか?」
「え、あ、はい! どうぞ!」
「ありがとう、じゃあ今から向かいます」
ニコッと笑みを見せた和樹さんがエレベーターのある方向へ歩き出したのを確認してズルッと壁伝いにずり落ちた。
「ど、どうしよう……! 和樹さん来ちゃう!」
和樹さんに会えるのは嬉しい。すごく嬉しい。
でも。
「こ、心の準備が……」
さっき和樹さんは「面と向かって」と言っていた。
キスの特集を見てしまったいま、和樹さんと面と向かって喋る勇気も度胸も持ち合わせてない。絶対変に意識してしまうのは火を見るよりも明らかだ。
「と、とりあえずアイス食べ切らなきゃ」
片手に持ったままのバニラアイスを急いで頬張り、すっぴんなのはこの際しょうがないのでせめて髪だけでもと櫛で整えていると再度チャイム音が鳴った。
「は、はいっ!」
パタパタとスリッパを鳴らしながらドアを開けると、
「こんばんは、ゆかりさん」
とモニター越しよりもさらにキラキラ感が増している和樹さんがそこにいた。
「こ、こんばんは和樹さん」
「……ゆかりさん、ドアスコープで確認してからドアを開けてくださいね? いま、見ないで開けたでしょ」
「う、和樹さんだと思って開けちゃった……ごめんなさい……」
「次から気をつけてもらえたら大丈夫ですよ」
私が素直に謝るとふっと笑みを浮かべながら和樹さんは頭をポンと撫でた。
「それで」
「それで?」
「言ってくれないんですか?」
にこにこと期待を前面に推し出した笑顔でなにかを待つ彼。
「なに……を……あっ」
『う、嬉しいです……わたしも和樹さんに会いたかったので……』
『それ、直接面と向かって聞きたいです』
思い出したと同時に頬がかあっと熱くなる。
あのとき私はどんな顔してた?
どんな声音で伝えたらいいの?
ぽろっと口から溢れでた言葉を改めて言い直すのは恥ずかしくて照れ臭くてどうしたらいいかわからなくて、伝えなきゃと思いながらも頭の中はぐるぐるぐるぐる高速回転。オーバーヒートしそうだ。
しかも。
「ゆかりさん?」
「っ!」
声をかけられたことで思わず目線を上にあげてしまったのがいけなかった。
目に飛び込んできたのは和樹さんのちょっとかさついたくちびる。
“キスがしやすい身長差は十二センチ!”
雑誌のタイトルがオーバーヒート寸前の脳内に割り込んできたことでわたしの思考はそこで強制終了した。
「……なんて、ゆかりさん冗談で」
彼が言葉を発するのを止めたのは私の突然の行動に驚いたからなのか。
言葉を紡ぐ口を塞がれたからなのか。
気づけば彼のネクタイを左手で握りしめ、右手で彼の左肩を掴み、彼のくちびるを自分のくちびるで塞いでいた。
時間にしたらほんの数秒。
くちびるを離したところで思考停止させていた事柄が解消され、強制終了していた私の脳内は通常通り回転し始める。
「あ、身長差」
「……え?」
突然のわたしの呟きにワンテンポ遅れて目を丸くした彼が裏返った声を発した。
彼と私の身長差はわたしが背伸びをしても全然届かないくらい。
でも今は違う。
普通なら届かない私からのキスは、三和土の高さ分縮まって、キスがしやすい十二センチの差に限りなく近付いていた。
「ほんとにできちゃった……」
「……身長差ってなんです?」
一人感心してる私に、いまだ目を白黒させている和樹さん。
「あのね、雑誌のキス特集にキスしやすい身長差は十二センチって書かれていて」
「……特集の内容が気になりますが……続けて」
「わたしと和樹さんの身長差だとわたしが背伸びをしても絶対くちびるに届かないんです。でも今は三和土の高さの分身長差が縮まって、ふだんよりキスしやすい高さになっているというわけです!」
「……ほお」
「私じゃ絶対できないと思ってたんですけどできるものですねぇ~三和土すごい!」
すごいすごいと三和土を褒め続けるわたしはそこでようやっと気付く。
和樹さんと面と向かって話す勇気も度胸もないなんて言っておきながら私はたった今、階段をいくつもすっ飛ばしたキスをやり遂げてしまったことに。
なんならキスの特集を見て覚えていた内容を喋ったことで和樹さんとのキスを意識してたことも同時に暴露してしまった。
「和樹さんに会いたかった」
この一言を言うだけで良かったはずなのに私ったらなんてことを……!
とんでもないことをしてしまった、と今度は一人慌てふためく私に「それじゃあ」と彼は言葉を発した。
「それじゃあこれからは手加減なし、ということで」
「え、なにがですか?」
「ゆかりさんからのキスです」
「……へっ?」
「僕は嬉しいこと言ってくれたゆかりさんにもう一度同じ台詞を言ってもらうだけで満足でしたし、頬にキスするだけで顔から火が噴き出しそうなゆかりさんからのキスも長期戦を覚悟してました。でも、ここなら“できちゃう”んでしょ?」
「できちゃう?」
訳がわからず今度は私が目を白黒させていると彼はその場にしゃがみ込み、私と彼の間にある三和土をコンコンと指で叩いた。
「キス、しやすいんでしょ?」
十二センチ、と見上げてきた彼は、まるで仕掛けたいたずらに引っかかるのを待ち構えている小さな子供のような笑顔を見せていた。
次は明るい話をって言ったはずなのに……これ、明るい話でいいんでしょうか?
和樹さん、疲れも何も、いろいろと吹っ飛んだことでしょう(笑)
さて、「○○しやすい身長差」っていろんなところでネタにされてますけれど、実際どうなんでしょうね。その人たちなりに心地よい距離感でいいじゃない、とも思うのですけれど、もじもじしながら自爆したゆかりさんみたいに、何かのきっかけにもなるのでしょうね。
ちなみに頭ひとつ分って、だいたい足のサイズと一緒になるはずなので、少なくとも和樹さんは二十センチ以上高いことになります。
ゆかりさんは日本人女性の平均身長くらいなので、157~160cmくらいとして、和樹さんは180cmオーバー確定です。
実はふたりが同居を始めてから、ゆかりさんはたまに和樹さんの身長の高さを冷蔵庫と比べて実感しています。そして、身長差はもちろんのこと、スタイルの良い和樹さんの腰の高さを実感して「おぉぅ」ってなることもしばしばだったりするのです。
だって目線が近いからね。ちょっと目線を下げたらベルトが見えるんだもの。くふふ。




